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●金沢にて、兼六園その5
理された自然であって、いわば細工物だ。庭園とはそのようなものだ。自然に任せておくと荒れ放題になる。雑草も生えれば虫も大いに繁殖する。



野生はそれであたりまえで、文化を作る人間は自然を自然のままにせずに、思いのとおりに作る。これには手間がかかる。今日は隣家の裏庭の手入れをしたが、1か月放っておくと草は伸び放題、切ろうと思っている名前の知らない樹木は枝葉を無数に広げて、せっかくその下に植えてある蘇鉄に少しも光が届かない。切るのも手間、また切った後、その太い幹をどう輪切りにして処分するか。それを思うとついそのままにして、枝葉が伸びればまたそれをもぎ取ろうと考える。ごく狭い庭ですらこれであるから、兼六園のような広大な庭となると想像を絶する人手を要するだろう。だが、いつもきれいにしているので、雑草の種子が飛んで来て発芽してもすぐに見つかるだろう。日頃こまめに手入れをして掃き清めておくと、少しの手間で維持が出来る。これは殿様の庭だけではなく、庶民の庭や周辺も同じだろう。そういう思いは誰でも持っていると思うが、道をきれいにすることはいいとして、植木を飾る思いが増すと、それを道ばたに進出させても喜ばれこそすれ、誰かの不評を買うとは夢にも思わない。猫がかわいらしくてたまらず、野良猫に餌を与えに来る人も同じ思いだ。62歳の女性が元警察官に切り殺された事件は、そんな身の周りをきれいにしようという思いの違いが発端になったようだ。TVで見ると、女性の家の前はきれいに植木鉢が置かれている部分もあるが、全くそうでない雑然とした部分が同居していて、元警察官をむっとさせたことが想像出来る。その事件を見てわが身を振り返らなければならない。裏庭には大きな合歓木があって、家内はそれを見るたびに切れとうるさい。そうこうしてもう30年近くなる。これから葉を落とすので、切るのは毎年冬、しかも1,2月だ。あまり大きく切りたくないのは、そこに野鳥がよく飛来して鳴くからだ。裏の畑に民家が建て込んで自然はさっぱり少なくなったから、せめてわが家の裏庭は鳥たちが休息出来る場所としておきたい。3日前、雀とばかり思っていた鳴き声が微妙に違うことに気づいた。姿を見るとメジロであった。これが10から20羽ほど群れになってやって来る。警戒心が強いので、葉を落とした後はやって来ないだろう。葉と同じ羽毛の色であるから人にも発見されにくい。数年前、メジロをたくさん飼っていた老人が逮捕された。かわいいので身近で育てたかったのだ。その気持ちはわかるが、メジロは自然の中で生きたいだろう。自由に広範囲を飛ぶのに、あまりに狭い籠に入れてはかわいそうだ。人間は羽はないが、動物であるからせいぜい動いてあちこち行くに限る。筆者は車を運転しないので、もっぱら電車やバスに乗っての移動で、しかもさして旅好きではないので籠の中の鳥同然の生活だ。そんな筆者であるから、金沢に行ったことをあまりにも引き伸ばして何日もこのブログに書いている。自分でも少々退屈だが、決めたとおりにやろう。また、この金沢シリーズは、書きたい話題を後回しにしている。これからが本番といったところだ。
●金沢にて、兼六園その5_d0053294_2154912.jpg

 兼六園は市内の中心部に位置するのだろうか。金沢市の全体がどういう形に広がっているのか今ひとつわからない。京都市は盆地で頭の中で思い描きやすい。金沢は道路が碁盤目状になっておらず、市内中央の丘に城と兼六園があって、東京に似ている気がする。偉い人が町の中央の高い場所にいるという図だ。京都もそうだが、二条城や御所は丘の上にはない。兼六園が日本の三大名園のひとつで、しかも市内の中央にあるならば、やはり代表的観光地となるべきで、筆者が「その5」まで続けるのも無理はない。だがさすがにもう書くこともないし、写真も今日の分で終わりだ。今日の写真は園中央の大きな霞ヶ池に浮かぶ蓬莱島と、根上松だ。蓬莱島は亀の形をしている。亀の長命にあやかった見立てだ。根上松は写真からもわかるように、根が上がって幹を周囲から支えている。松食い虫の被害が拡大している中、どのように手入れに苦労しているかと思う。先日の唐崎松とこの根上松は兼六園では代表的な松だ。桜や梅も多いが、そういう花のシーズンに行きたいものだ。さて筆者らは桂坂口から園内に入ったが、園でもらった地図を見ると、西と東と北の3分の1は見ていない。あまり見るべきものはないようだが、道が迷路のように縦横に走っていて、地図を見ないことには全部を回るのは難しいだろう。随身坂口の受付で道を訊ね、東北の瓢池を眼下に見ながら真弓坂口から外に出た。園を時計の文字盤に見立てると、4時の位置から始まって、右にぐるりと回って2時の位置から出た格好だ。写真はもっと撮ればよかったか。あまり写真を撮ることに気を使わずに歩いた。写真に気を取られると肝心なものを見過ごすかと言えば、かえって見ることに集中出来るかもしれない。それは確かにそうだが、考えることを忘れるかもしれない。写真がなかった時代の人は現代の人よりしっかり見たのではないだろうか。写真を撮った安心感から案外現代人は見たものを忘れやすいと思う。こうして書きながら、頭の中で兼六園の景色をあれこれと思い浮かべている。それらは写真には撮らなかったが、記憶は鮮明だ。そして、その記憶は不思議とこのブログに載せている写真とはあまりつながらない。一連の行動の中で見た光景の中のごく一部が写真であるが、写真に撮ったのは撮ろうと思って立ち止まり、カメラを通して見た景色であって、一連の行動で見た連続した光景とはつながらない。もう少し別の言葉で言うと、一連の行動で見た光景はビデオカメラで撮った映像で、その中の静止画像が写真で撮った光景かと言えばそうではないのだ。頭は終始ビデオカメラ的に眼前の光景を記憶して行くが、写真はそれとは別の「カメラ」で撮ったもので、両者はあまり関係がない。そういう感覚だ。そのため、金沢観光を記録するのに写真はふさわしくないという思いがある。ではビデオ映像ならいいかと言うとそれも違う。自分の生の目で見たものこそが大事で、レンズを通すと別物になる。だがそれが悪いと言いたいのではない。別物ということは、自分が撮っておきながら、他者の目、すなわち客観性を含む。この客観は、全面的にいいことづくめではない。他人任せという無責任さが潜む。ところが、自分の生の目で見る行為は移動する瞬時ごとに眼前の光景が脳内に記憶されるから、それは写真やビデオ撮影を管理した自然すなわち細工物とするならば、「野生」と言えそうだ。人間は野生から脱出したくて写真やビデオを発明したのだろう。したがって、細工物の兼六園の思い出を綴るには写真は欠かせないことになるか。
●金沢にて、兼六園その5_d0053294_216819.jpg

by uuuzen | 2012-10-14 23:59 | ●新・嵐山だより
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