人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●金沢にて、兼六園その4
の臭いに辟易することがある。猫踏んじゃったの猫糞で、犬糞よりはるかに小さな盛りだが、ねっとりとして強烈に臭い。せっかく金木犀のいい香りがするのに、それに猫糞臭が混じる。



猫糞を庭に始終放置される身になってもらえれば、野良猫に餌をやる人は少なくなると思うが、そういう人は人間は醜く、猫かわいいで、決して人の言うことに耳を貸さない。きっと前世は猫であったに違いなく、あまり忠告すると化け猫となって襲撃される。そう言えば80代の元警官と60少々の女性との間にトラブルがあって、女性は刀で斬られて死んだ。近所つき合いのむずかしさを示した事件だが、些細なことでも我慢ならない人はいるから、常識的な行動を日々心がけねばならない。自治会長をやっていると、いろんな相談を受ける。また妙な誘いもある。これらすべて人間関係であり、うまく対処しないことにはどういう事件に巻き込まれるやわからない。敵を作らないようにと思っていても、相手が勝手に敵視する場合はある。隣人とはいい関係を作っておくべきだが、それが面倒なので、マンションに住んで自治会に入らない人も多い。それも会長の持って行きようかもしれず、筆者はなるべき自治会内の人とは話すようにしている。事件の真相は報道からはわからないと思うが、殺した方が悪いとされるのは当然で、いくら腹が立ったとしても、もう少しどうにかならなかったのだろうか。どうにも好かない、顔を見ても気分が悪くなるという人はいる。そういう人には逆らわないように、なるべく接しないようにするのがよいが、そうたびたび引っ越しは出来ないから、いい加減なところで手を打ってつき合いの度合いを決めねばならない。人から嫌われない方法は、まず自分から相手を好きとまでは言わなくても、嫌いではないと思い込むことだ。苦手を克服する。すると相手にそれが伝わる。また伝わり過ぎて誤解され、変な相談を持ちかけられることもあるので、そこらは様子をうかがいながら修正する。ともかく、刀で殺すなど、全く物騒な事件で、警官は自分が閻魔大王のように一番偉いと思っている人種だろう。定年になれば元警官のそんな自意識を捨てるべきだが、得てして警官や先生と呼ばれる人はそれが出来ない。今まで人から一種尊敬を受けて来たことに対し、何か大いに錯覚してしまう。筆者は、『あの人はいったい何をして食べているのか、正体不明だな』と思われているはずで、尊敬からはほど遠い位置にいる。その点でとても気楽だ。名刺に肩書きなど仰々しく印刷する気恥しさとは無縁で、それだけでもよい人生であったと思う。資格やら経歴といったことに無関心であるし、また人をそういうもので判断しない。そうは言っても、まず立派な肩書きや資格のある人の方が筆者を相手にしない。知り合いになったところで何も益することがないからだ。それはこっちも同じで、自然と筆者の周りには立派な肩書きや資格を持った人は集まらない。前にも書いたが、80代の面白いおばあさんと話すのが一番楽しい。そういう女性が言うことに、『男は長年勤めて来たことの自慢を人に見せびらかしたいので、同席してもつまらん』というのがあった。これは定年のない筆者もよく聞いておくべきで、自慢話ほど人を白けさすものはない。筆者は自慢すべきことも持たないが、男の中にはいくら大金を稼いだかを自慢するのが時たまある。クレジット・カードにブラックというのがあることを最近知ったが、それは買い物の上限金額がない。つまり何億でも支払える。それほどの預金を持っている筆者と同世代の男性は身近にもいるが、全く退屈極まる人物だ。お金は糞によくなぞらえられる。1か月ほど前、部屋ほどの大きな便所を見下ろし、そこに便が大量に溜まっている夢を見た。おそらくTVで宝くじの宣伝を見て、3億9000万円当たれば何に使おうかと考えたのが理由だろう。おそらく人はお金そのものを夢に見ることがけがらわしいと思う含羞さから、お金が糞に化けて暗示されるのではないだろうか。この夢の中の糞はあくまでも人のそれであって、犬や猫のものでは金を得る効力はないだろう。そんなことを言えば招き猫に引っかかれるか。
●金沢にて、兼六園その4_d0053294_29953.jpg

 さて、今日はまた兼六園についてだ。旅館からそこへ向かう際、女将に教えてもらった道を行った。金沢城の東端に位置するのだろうか、ちょっとした森の中をまっすぐに続く小径だ。鳥の鳴き声がよく聞こえ、昼間でも鬱蒼とした雰囲気がある。それはいいのだが、下は烏の糞で真っ白だ。頭上にもその声が聞こえる。一昨日写真を載せた浅野川から旅館に戻る際、夕焼けの空に次々と烏が集団を作って兼六園方面に飛んで行くのが見えた。ビルの屋上のアンテナや看板で休憩しているものも見えたが、あまりたくさん飛来し続けるので驚いた。1000羽は下らない。嵐山も烏は多いが、それ以上だろう。そのことを女将に話すと、昼間は市中にいて、夕方に城や兼六園の樹林に帰っているようだとのこと。市内でまとまった緑となればそこしかない。もう少し離れたところに山があるが、そこからでは日中食べ物を漁る市中は遠い。そこで金沢城と兼六園が烏の一大根城となった。この烏の大群を見ながら、どの都市も同じ悩みを抱えていることを感じた。都市は膨大な食べものの残りをゴミとして毎日生み出す。そのほんのわずかでも烏にとっては仲間や家族を増やす手段になる。もちろん野良猫もゴキブリもだ。それらが毎日糞をし、烏は真っ白なそれを樹林の中に雪のように落とす。兼六園に向かいながら、足元はずっと真っ白なままで、いつ頭上から烏に糞爆弾を落とされるかひやひやした。小径はところどころにブロンズの彫刻があった。大半は裸婦だ。なぜ女性だけが裸で表現され、人目につくところに設置されるのだろう。男もちんちんをぶら下げた銅像がもっと作られるべきではないか。女性の裸の方が美しいという意見がある。それは偏見だ。男女に美醜の差はない。おそらく美術の名のもと、子ども頃から人前で裸になることを意識させるためだ。そんなことを思いながら、烏の糞をなるべく避けながら進むと、右手に3人の男性を揃えた銅像が見えた。泉鏡花と室生犀星、德田秋聲だ。座像は犀星だ。筆者は彼の小説を10代で買ったが、読む気が起らず、今も無縁だ。秋聲はいかにも渋くて、今なら読めるかもしれない。ま、この3人が金沢を代表する小説家で、じっくり作品を読むとなお金沢のことがよくわかるだろう。金沢に因む文学者としては、最近までKBS京都で毎夜5分ほどの金沢を紹介する番組に出演していた五木寛之を思い出す。旅館の女将から聞いたが、彼は金沢の医者の娘と結婚した。今では市内に記念館があるが、彼の小説はもっと読む気がしない。それはいいとして、ごくたまにその番組を見て、金沢の深い魅力がわかって楽しかった。かなりディープな場所を紹介していたように思う。そうそう、犀星という名前はまことに印象的で、これは犀川を愛してのことだ。3体セットの銅像を過ぎてから思い直して振り返って写真を1枚撮った。それから50メートルほどで道路に出た。それをわたって「その2」の最初に載せた写真を撮った。今日はもう1枚兼六園内のものを。琵琶湖畔の唐崎から育てた松で、「唐崎松」と名づけられる。ということはそれが面する大きな池は琵琶湖の見立てもあったのかもしれない。入場時にもらった案内図を見ると、「霞ヶ池」とある。これは東京の霞ヶ浦を連想させる。金沢は関西にも関東にも目を向けていたか。忘れていた。
●金沢にて、兼六園その4_d0053294_292892.jpg

by uuuzen | 2012-10-11 02:05 | ●新・嵐山だより
●金沢にて、泉鏡花記念館 >> << ●金沢にて、ひがし茶屋街

 最新投稿を表示する
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2024 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?