犀川を見たいと思いながら、何を勘違いしたのか、浅野川をそう思って帰って来た。地図を見ると、浅野川と犀川は兼六園を挟んで南北に対峙し、さほど離れていない。
また、犀川の方が川幅はありそうだが、河川敷が広くて運河のような浅野川とは随分印象が違うだろう。犀川の名前を知ったのは加賀友禅がらみだ。京都では昔は賀茂川や桂川で友禅流しをしていた。それが70年代初頭に水質汚濁防止法が出来て、河川を汚すべかざるということになった。京友禅は加賀友禅と違って有機溶剤でしか除去出来ないゴム糊をもっぱら使い、また蝋を用いる人も多い。これを除去するのは専門の整理工場で、有機溶剤はベンジンや揮発油は高価であるから、もっと安価なものを使う。最近印刷会社で胆嚢癌で死んだ人がたくさん発見された。ジロクロロエチレンだったか、安価な有機溶剤だ。それと似たものを友禅のゴム糊の除去にも使う。そのため、友禅の整理工場でも癌に罹る人が今までにあったのではないだろうか。そう言えばドライ・クリーニングはどんな溶剤を使っているのだろう。そこでも癌の危険性があるのだろうか。京友禅も加賀友禅のように糸目を糯糊にすればいいが、ゴム糊は糯糊では出来ない複雑な工程が可能で、技術の発展から見ればゴム糊を使うようになって来たのは必然だ。だが、水できれいに洗い流せる糯糊を使った糸目の美しさは格別だ。それはゴム糊では太刀打ち出来ない。加賀も今ではゴム糊の使用が多くなっているが、犀川での友禅流しはどうなっているのだろう。京都が駄目ならば金沢も当然そのはずだ。TVでごくたまに見る加賀友禅流しでは相変わらず川の中に生地を浸して糊を除去している。京都も観光客向けに今でもたまに友禅流しをする。それはすでに工場できれいに洗ったものをもう一度水に漬ける行為で、河川を汚さない。そこまでして友禅流しをする必要はないのに、組合が宣伝したいのはわかる。京都市としては観光に役立つなら大いに賛成だ。筆者は嵐山に引っ越して一度裏の小川と言うか、農業用水路で広幅の生地の糊を洗い落としたことがある。濃い赤で染めたので、自宅の浴槽では白地である部分がうすく染まる恐れがあった。生地を留めた張り木を橋の欄干にロープで縛り、水に洗い流されるままにしたところ、予想に反して生地は水中に漂わず、水面に浮いた状態であった。そのため、生地表面の糊がふやけて流れるまでに1時間では足りなかった。ようやく糊が落ちた頃を見計らって引き上げ、自宅の浴槽でもう一度洗った。すると、黒く大きなヒルが生地にへばりついていて、閉口した。小川はきれいな水に見えるが、ヒルがいることを知った。それで二度と小川では洗わなかった。それはともかく、友禅に携わっている筆者は加賀友禅を意識しないが、しっかりした仕事をする作家が昔からたくさんいて、尊敬はしている。京都の友禅作家の中には、加賀の作家の足元に及ばない中途半端な人がたくさんいる。京都は加賀に比べて前衛的ではある。ところが、その分中身のうすい仕事も多い。加賀は圧倒的に時間をたくさん費やした本当の職人技と呼べる仕事が目立つ。腰が据わっているのだ。それは京都から見れば無骨で田舎っぽいということになる。特に配色はそうだ。「はんなり」という言葉は京都独特のもので、これは特に友禅に当てはまる。加賀友禅は「はんなり」とは言えず、もっと厚みがあって濃い。風土の差なのだろう。九谷焼の色合いを見るといかに京都と違うかがよくわかる。
犀川を見るつもりが、勘違いしたことで今回の旅行では見なかった。地図を改めて確認すると、犀川のすぐ南の一画に寺がたくさん固まっている地域がある。その付近はあまり有名でもないようで、観光客は少ないだろう。だが、おそらく友禅流しの似合う場所ではないか。そういう地域を見たかったのに残念だ。それはともかく、泊まる旅館から川が近いことは嬉しかった。5分程度歩けば橋に出た。浅野大橋だが、大橋と呼ぶほどのものではない。大阪の十三大橋はその10倍の長さはあるだろう。市内のどのあたりでかつては友禅流しが行なわれていたのか知らないが、写真や映像で記憶したそのいくつかの場所は、筆者が金沢をイメージする際の代表的景色になっている。それは賀茂川や桂川とは違って、川幅が狭く、また深い。実際はあまり深いと作業出来ないので、せいぜい1メートルまでが理想だが、胸のあたりまで水が来ていた写真や映像を記憶する。それほどの深さに浸かると、冬場では凍え死んでしまうほどの冷たさのはずで、京都以上の酷な作業だ。そんなこともあって、年中作業が出来る工場が必要にもなった。そう言えば筆者が見た浅野川は浅野大橋付近に限られ、そこは友禅流しのイメージから遠かった。水の透明度は知らないが、あまりきれいな生地をそこに浸そうとは思わない。犀川はどうであろうか。地図で見る限りは賀茂川や桂川をもっと小さくしたものと思える。浅野川と犀川は、女川と男川と呼ばれる。となると、浅野川で友禅流しがあったと思いたくなる。この男女の対比は、浅野川の方が川幅が狭いからだろう。また浅野大橋界隈は河川敷はないが、もっと上流は違うかもしれない。そしてそういうところでは友禅流しが行なわれていたかもしれない。そんなことを思いながら橋の上に立って日没の女川の下流を向いて写真を撮った。上の横長がそうだ。右手すなわち右岸は北側で、旅館の女将はその付近ではよく映画の撮影があると言っていた。橋から20メートルほど下流に銭湯が見えた。写真では右端に少し大きくビルのような雰囲気で写っている。筆者が大阪に住んでいた頃も、同じように川沿いに銭湯があった。4,5年ほど前はまだそのままあったのが、先ごろグーグル・アースのストリート・ヴューで調べると、銭湯の代わりに大きなビルが建っていた。その銭湯を中心とした光景がとても好きであったのに、現実はどんどん過去を壊す。ところが金沢で筆者が昔脳裏に留めたのと同じような川沿いの銭湯を見た。家内に「その銭湯に入ろうか」と言ったが、もちろん否定。そう言えばひとりで長崎市内に行った時、孔子廟のすぐ近くで銭湯を見かけ、入ってみたいと思った。よそ者が来たと訝られるかもしれないが、旅館の風呂とは違って大きな思い出になるだろう。浅野大橋から150メートルほど下流の木造の橋にも行き、その中央に立って上流の浅野大橋を映した。先の写真とは違って逆光ではないので、夕暮れの空気がきれいに出ている。ちょうどカップルが橋の上にいた。筆者らが近寄ると、入れ替わるように去って行った。またその橋のすぐ近く、川沿いの小さな公園があり、そのベンチでも大学生らしき若いカップルが抱き合っていた。それが変に思えないほどしっくりした情緒が漂っていた。大阪ではまず似た場所はないだろう。どこもドブ川で、木造の歩道専用の橋はおそらくない。この橋には確か名前が書かれていたが、忘れた。中央に擬宝珠を収めたのは「おにおにっ記」つながりだが、それはまた別の話。