旭桜という名札があった。この桜と同じ品種が大阪の造幣局にあるだろうか。旭というからには、朝日が出る頃に見るのが最も美しいのかもしれない。
葉が生い茂った眼前の巨木からその姿を想像すると、早朝に兼六園内を散歩した気になれる。それで充分で、実際にそれが出来る立場にあっても筆者はそうしない。夜型で朝は苦手だ。これがよくないのはわかっている。今朝は地元の小学校で自治連合会の体育祭があった。どの自治会もテントを運動場に張る必要があって、そのためには4人は最低必要だ。昨日は副会長に電話で打ち合わせをした。自治会の倉庫は副会長やそのほか手伝ってくれるふたりの家から近い。それで倉庫から車に積む人手は足るので、朝7時半に運動場に行ってくれと言われたので、その10分前に着くと、もうすっかり立ち終わっていて、3人は帰った後であった。一旦家に帰ってもよかったが、面倒なのでそのまま8時半の開催まで待った。ぽつぽつと人は来ていたので、話をすることには困らなかった。そう、今日はそれから体育祭終了の午後4時までたくさんの人と話をし続けた。3年前はほとんどの競技に筆者は参加したが、今年はわが家の裏手にあった畑に建った家から30前半の若い夫婦がたくさん集まってくれたので、全速で走る必要のない競技に3つ出ただけで済んだ。自治会対抗の成績もよく、今までの最下位かその次から一気に脱して、8位となった。全14自治会であるから、半ばより少し下だ。それでも1点差で自治会が連なったから、もう少し成績がよければ3,4位になった。ともかく、底力のあることは証明された。ま、体育祭の話はよい。今朝は早く起きる必要があったので、昨夜は深夜1時前に寝た。少しずつそのようにして早く寝ると、1か月の間に朝型になれると思うが、何かの拍子にまた深夜に寝ると一気に戻ってしまうだろう。ま、そのこともどうでもよい。今日はまた兼六園の続きをやろう。門を入ってなだらかな坂を上って行くと、すぐに琴柱灯籠が右手に見えた。そこは見晴しのよい場所で、左には遠くに山が見え、次にその斜面に張りついている小さな町並みに目が吸い寄せられた。その時思い出したのが、阪急電車から見える淀川向こうの樟葉の街だ。兼六園から見えたのは同じようなニュー・タウンではないだろうか。江戸時代にはなかったはずだ。そう思うとこの借景は兼六園の印象をぶち壊している。わずかな横縞模様の家並みだが、意識の中では大きい。だが、人口が増えるのであれば、そういう山地も切り開かねばならない。そのニュー・タウンらしき人口的な景色を隠すには、園の端に樹木を密生させればよいが、そうなると丘を登って急に眼前に開ける眺望が台無しになる。ここはやはり遠くの山が見えるのが好ましい。そして江戸時代にはなかったはずの小さく密集した家並みは、見えても見ないことだ。一昨日、京都駅を土を盛って横長の丘にし、その内部に駅舎を造る案について書いた。その丘をよくを言えば兼六園のような日本庭園にすることは無理か。不可能ではないはずだ。だが、何事も経済優先で、そんな庭は損とばかりに遊園地にするだろう。そうすれば老人が喜ぶだけの日本庭園よりはるかに収入が増えるのは間違いない。それでも無理を言って日本庭園にする。そして駅舎の真上の緑豊かな地から北を臨む。すると、眼前に広がる景色は兼六園から見える、ニュー・タウン混じりの遠方の山どころではなく、鉄筋コンクリートの建物だらけで、借景と呼べる風情はない。かくて駅舎の上の緑溢れる庭園は否定され、遊園地がよいことになる。そうなれば何も土を盛って丘にする必要はなかったという意見が出る。結局現在のように鉄骨とガラスで組み立てるのが一番安くて恰好いいではないかと話がまとまったのだろう。ということは、丘となっている兼六園はやはり見事だ。そして、遠くの山部に少々家が見えてもいいではないかと消極的に賛成する。
旭桜に戻ると、実は早朝に桜を見たことがある。あるいはそれは夢か、もはやどっちかわからない。筆者が嵐山に引っ越して来た頃、すぐに桜を題材に屏風を染めた。太い幹は松尾駅の嵐山側のプラットフォームに並ぶ桜の古木から選んで写生した。その幹は今でもある。もう1本は来年温泉が出来る阪急所有の桜の林で写生した。その頃、満開の桜を描くには昼間は観光客が溢れて無理であるから、早朝に描いた。この場合の早朝は、「筆者にとって」であって、普通一般から言えばそうではない時刻かもしれない。たぶん7時頃だ。もうとっくに日は昇っている。にもかかわらず、人気がなくまた桜の密生で現在よりはるかに鬱蒼としていたので、日の出頃の時間帯を想像することは出来た。そして早朝のイメージは茜色だ。茜と言えば日没の色を思い出すが、とにかく朱や赤、臙脂という言葉には当てはまらない色で、それを10回ほど染め重ねて表現した。見る人によってはその作品は夕焼けの中の桜だが、早朝のつもりだ。そのおよそ30年前の早朝の桜と、その印象を元にした友禅屏風とが合わさって、兼六園の「旭桜」の文字を見た時に脳裏に浮かんだ。そして、その旭桜の春の早朝の満開の様子を想像した。これは実際の旭桜の満開を見ていないので、空想に過ぎないという意見あるだろう。一方では自然の色に学べといった言葉もある。筆者に言わせれば、確かに自然は美しいが、その美しさを絵具や染料で再現するには、自然の本当の色は役に立たない。大事なのは印象だ。これに尽きる。自然の再現など不可能だ。精密な写真でもそうだ。自然の美と作品の美は別物で、また別物でありながら等価だ。「自然の色に学べ」が正しいとすれば、おそらく写真にかなう画家はいない。だが、写真は絵画に遠く及ばない。これは「自然の色に学べ」を、「自然の色に学んで、全然別の色を使うべし」ということを意味している。自然をどう学んだところで、人間の表現は人工だ。それが美であり得るのは、「自然さ」を感じさせる場合だ。これは「自然」そのものではない。自然に学ぶ、つまり模倣するのは案外たやすい。人工によって自然らしさを出すことが難しい。人工はどうしてもそれが見え透く。そしてまた兼六園から見えた遠くの山腹の細かい家並みを思う。それは人工だ。だが、兼六園は知らなかったことだ。兼六園が関与しない、出来ないところで出来たものだ。そこで筆者が殿様であれば、きっとそれを許可しなかった。現実には殿様ではあり得ないから諦めるしかない。そしてすごすごと左手から右へと進み、葉ばかりの旭桜を見た。下の横長写真の中央に写る夫婦は「その1」で載せた筆者の全身像の左に見える。琴柱灯籠と一緒に誰しもが写りたくて、順番待ちであった。それさえ撮れば後はざっと見て丘を降りるのがほとんどの人のコースだ。