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●石峰寺での若冲忌、アゲイン
い天気がよかったのはいいが、真夏同然の蒸し暑さで、石峰寺に着いた途端、全身から汗が噴き出た。小さなハンカチでは間に合わず、タオルを持ってくればよかったと後悔した。



今日は昨日の若冲忌について書く。「若冲忌」でネット検索すると、筆者が7年前に書いた「石峰寺での若冲忌」が上位3番目に表示される。筆者のブログは人気がないはずで、この第3位は理解出来ない。それはともかく、今後若冲忌について調べる人のために、7年後の変化のようなものについて書いておきたい。さて昨日は朝8時56分の阪急電車に乗った。京阪に乗り換え、深草で下り、用事を済まして石峰寺に到着したのはちょうど10時だ。若冲忌に行く前に毎年龍谷大学南の西浦郵便局で若冲の切手を貼って風景印を捺すのが恒例になっている。それを始めたのは5年前だ。同郵便局は土日は閉まっている。昨年の若冲忌は日曜にあった。それが理由でもないが、確か2002年から訪れていたのを一度休んだ。実は今年もそうなりそうであった。石峰寺からは毎年8月中旬に参加の有無を問う往復はがきが届く。9月10日はどんな用事よりも若冲忌を優先すべきだが、今年は自治会長の仕事が重なった。それをほかの人に依頼することも出来るが、めったなことではそうしたくない。それもあって、返事を出すのはぎりぎりにしようと考えた。8月末が締切だ。筆者は毎年その日に返信はがきを出す。それを今年は忘れてしまった。そうなると今年ももう参加しなくてもいいかという気になる。今年は去年同様、若冲忌は家内が1年でもまとまって休みがある頃に重なった。年1回の家族サービスをせねばならず、その旅行の計画を先に立てていた。一方で10日には自治会の仕事がある。そこで旅行は8,9日と決めた。この旅については後日感想を書く。話を戻して、毎年参加の有無を問う往復はがきは今年封書に変わった。返事のためのはがき以外に、若冲を顕彰する会を発足する旨を記した文書が同封されていた。この会員は1年限りで、年会費は個人が3000円だ。詳細はわからないが、招待されることが有料になった。若冲忌に出席するとの返事は、期日が1週間過ぎた頃に電話でした。ぎりぎりだ。そんなことをするのは筆者だけのはずだ。電話で住職としばし話をすると、顕彰会の発足は10日で、当日に説明や応募用紙を配布するとのことであった。ここで書いておくと、筆者は毎年お供えのわずかな額を包みにして持参するが、招待客には毎年違うちょっとしたお土産が用意されている。お土産をもらうために参加しているのではない。申し訳ない思いもあって、3年ほど前、返信はがきに「お土産は不要です」と書いた。その年は新しく作った絵はがきセットと団扇が用意されていた。詳しくは書かないが、絵はがきの写真は筆者が関係してカメラマンを連れて行って撮影したものだ。そのためその絵はがきはほしかったので、結局その年もお土産の紙袋を提げて帰った。
●石峰寺での若冲忌、アゲイン_d0053294_1037376.jpg

 招待客はどういう経緯で招待されるようになったか。これはみな理由が違うだろう。筆者の場合は、若冲忌が済んで台風も過ぎ去ったある日、家内と出かけた際、「よろしければ来年は若冲忌にご招待いたしますので、ここにお名前とご住所をお書きになってください」と住職の母堂から告げられたことによる。そのことは7年前の「石峰寺での若冲忌」に書いた。その後同寺は積極的に若冲の作品の購入に努め、今年は3点初紹介の半切の墨画が並んだ。数年前に母堂と話した折、「いつか境内に若冲美術館が出来れば」との思いを抱いているとのことで、その計画は少しずつだが、進んでいると言うべきだろう。また、昨日の本堂での法要が終わった直後、住職から顕彰会の意図について説明があり、その中に「五百羅漢の石像と若冲の絵を今後長らく保存するために……」や、「若冲忌だけではなしに、ほかの時期にも絵を見たいという人がおられますので、春に鑑賞の機会を設けたい……」という言葉があった。虫干しを兼ねる意味でも春に展示するのはいい。だがこの展示は顕彰会の会員に限る。つまり、3000円を支払えば、春のその鑑賞会と若冲忌の2回、若冲の数点の絵を間近に見ることが出来ることが出来るから、若冲ファンには嬉しい計画だろう。美術館でも若冲の作品を見られるが、ガラス・ケースの中だ。石峰寺では生のまま、数センチの近さで見ることが出来る。一方、五百羅漢石像は2年前から撮影禁止になった。写生も駄目という。この激変ぶりはどういうことかといぶかったが、数年前に石像が子どもによって倒され、数体が破損する事件があり、その後も常識では考えにくい行為をする人が後を絶たなかったという。それでいっそのこと全面禁止がよいということになったらしい。現在の住職は2000年の京都国立博物館で若冲展があった頃に、先代に代わって寺を守ることになった。石像が倒される事件以前は、同石像に限らず、若冲の墨画も自由に撮影が出来、しかもネットにその画像を載せることも文句を言われなかった。これは先代の住職とは180度違うオープンな態度で、当時は時代の変化を思わせた。ところがその鷹揚さが、石像の破壊という事故につながったと言うことが出来なくもない。また、「自由にしていいですよ」となると、常識を逸脱して平気な人がいるのも現実だ。それで石像も絵も撮影禁止の処置が取られるようになった。そのことの延長に、顕彰会を設立して一般会員は3000円を年1回支払う仕組みが出来た。
 目下のところの顕彰会の「特典」は、9月10日の若冲忌に招待されることと、石像を何度でも見ることが出来ること、そして春に予定されている若冲画の鑑賞会に参加出来ることだ。発足したばかりであるので、これから内容は充実するであろう。数年先には思ってもみなかった企画があるかもしれない。ただし現在のところ、今まで毎年若冲忌に参加して来た者からすれば、「特典」に瞠目すべき価値があるとは思えない。招待客について書いておくと、若冲忌では二間のうち、床の間のある大きな部屋に通される。続くもうひとつの狭い部屋には毎年若冲の絵が飾られ、それは誰でも見ることが出来る。筆者は毎年10時に寺に着くが、それは10時から法要が始まると勘違いしているからだ。実際は10時半で、30分は大部屋で顔見知りと雑談する。その部屋に集うのは多い時で30名ほどか。筆者はここ数年馴染みの数人としか話さないが、今年は初めて見る若い女性がいたので、手招きして筆者の隣に座らせた。というのは、その女性は誰からも離れたところにひとりでいたからだ。せっかくの法要に参加しながら誰とも話さずに帰るではもったいない。筆者ならそう思う。なるべくそのような若い人には声をかけたい。訊くと5年ほど前から参加しているとのことだ。それなら少なくても過去に3回は見ているはずなのに、その記憶がない。このことが象徴するように、招待客はみな好き勝手な場所に座り、好き勝手に過ごし、招待客同士のつながりがない。あるいはその場のほんの数分限りで、お互い名前を明かさない。せめて招待客を勢揃いさせて、住職や母堂による挨拶や号令といったことがあればいいが、それは行なわれたことがない。これは多忙過ぎてそのような時間が取れないことにもよる。だが、本堂と若冲の墓の前での読経、焼香が終了すると、法要としての行事は終わり、正午以降は住職も時間に空きがある。にもかかわらず、法要が終わったとなれば用がなくなったとして、招待客はみなそそくさと帰ってしまう。筆者は居残って数人と話すこともしばしばだが、それは例外だ。そこで思うのは、顕彰会の発足後は、若冲忌の当日午後を会員の交流がもっと活発化すべき何らかの行為が必要ではないか。ほとんど10年も通っている筆者でも知り合いは数人だ。もっと参加者同士の話合いがあってよい。若冲の命日に拝むだけであるならば、招待客や会員になる必要はない。当日は誰でも無料で境内に入ることが出来るし、またそのような人の方が圧倒的に多い。ところが、そうした人は大部屋に入ることは許されず、床の間にかかる絵を見ることは出来ない。せっかく遠方から来ているのに、この客の区別は少々腑に落ちない。お金を払ってでも大部屋の絵を見たいという人がいることはブログからもわかる。そういう人は3000円を支払って顕彰会に入ればいいということなのだろう。だが、それには積極的にこの会を宣伝する必要があるし、また会のことを知らずにたまたま若冲忌にやって来て大部屋に特別に絵が展示されていることを知り、しかもそれをお金を払ってでも見たいという人にはどう対処すべきか。その場で3000円を払えば済むのか。またその額は妥当なのか。さらには見たいということを口に出来ない人の方が圧倒的に多いはずで、そういう人にさびしい思いをさせないようにはどうすべきか。この問題の根底には、招待客とそうでない一般の客との区別がある。
 石像や絵の保存には経費がかかるのはわかる。ただし、そういう作品を後世に伝えて行くには現在の老人よりも若者に会員になってもらわねばならない。その若者が年会費とそれとは別のお供えの金額を毎年用意するのは少し酷な気がする。もちろんこれは筆者個人の思いであって、そうとは考えない若者も多いだろう。そういう人は積極的に会員になる。問題はそうではないが若冲を愛するという若者に、どう会員になってもらうかだ。それには会に参加することで前述の「特典」以外に何か楽しいことがあるかどうかだ。毎年知った顔数人と小1時間話すのもいいが、その輪に入れず、また入ってもさして楽しくないと若者が思えば、会員になっても1年で辞めるだろう。そこでまた問題となるのが、顕彰会を始めるのであれば、過去10年の招待客同士のつながり、懇親を深め、そういう人が別の人を誘いたくなるような何らかのことだ。五百羅漢の石像を年に何度でも見られるのはよいとしても、京都市内に住む筆者でもそれを見るのは若冲忌のみだ。正直に言えば、「特典」はあまり特別な恩恵とは思えない。せっかくの会の発足であるから、会員が増えることは好ましいだろう。今までの招待客がそのまま会員になるだけであれば、よぶんに会費を支払うだけのことだ。招待客がさらに満足し、別の人を誘って来るつもりになるような何かをしなければ、会は盛況にならないだろう。その何かを寺の少ない人手で用意するのは大変であるのはわかる。ところが、そのためのお手伝いを会員が積極的に出来るような空気が、今までの招待客の間に醸成されているとは言い難い。問題はそこだ。来年から大部屋に入るには、会員になっておく必要がある。たとえば何らかの事情で1年や2年若冲忌に参加出来ず、また会費の支払いが滞った場合、次の年度に改めて会員になるのは何だか心苦しい。今まではたとえ1年抜けてもまた若冲忌の参加を問う往復はがきが届けられた。それがないとなれば、若冲忌を忘れてしまうのは早いのではないか。そこで思うのは、若冲忌に来た人は誰でもたとえば1000円ほど支払えば、大部屋の作品の前に立つことが出来るような措置だ。会員になるほどに若冲に夢中ではないが、遠方から来たからにはついでに床の間の前に立ちたいという人は多いだろう。繰り返すと、筆者が10年通っていて、顔見知りになった招待客はわずか数人だ。新しい人が増えている実感がない。これはさびしい。それで昨日は若い女性に声をかけた。だが、名刺を持たない筆者であり、次に会うとしても来年の若冲忌だ。筆者が招待客をほとんど知らないのは、肩書がなく、また有名人でもないからとも言えるが、であるからこそ若い世代が顕彰会に加入するには、そういう人の立場を考慮する必要がある。ともかく、若冲忌にはそれなりの肩書のある人も集まるから、そういう人と近づきたい人は会員になればよい。先ほどYOUTUBEに昨日の法要の様子を撮影した映像がアップされていることに気づいた。昨夜投稿され、再生回数は5回目だ。招待客ではなく、一般人による投稿だ。開始からちょうど7秒から10秒の間に本堂に入る筆者の後ろ姿が映る。紺色のズボンが灰色に見えている。51秒から53秒の間にも、画面左上隅、「浄財」の箱の上に下半身が見える。白のシャツの脇下の切れ込みで筆者とわかるが、この画面からは招待客と一般客が本堂の内と外で二重に焼香する様子がほのめく。筆者に会ってもつまらないが、いろいろと話題の豊富な人がいるので、これを読む人が顕彰会に入るとまた楽しいことがあるかもしれない。詳細は石峰寺まで。そうそう昨日気づいたが、いつの間にか同寺のホームページが出来ている。少しずつ変化がある。
by uuuzen | 2012-09-11 10:39 | ●新・嵐山だより
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