凄惨な映画かと思わせる邦題だが、舞台は南仏のカンヌにあるミシュランで三ツ星評価のホテルで、モノクロ映画ながら、アラン・ドロンが3年前の1960年に主役となった『太陽がいっぱい』と同じように、陽光を感じさせる。
またそれだけにカジノの大金を奪おうとするふたりの男の暗い計画が際立つ。今日は2週間ほど前に右京図書館から借りて来たDVDの感想を書く。有名な映画だが、見た記憶がない。一級の娯楽作品で、暗さがなく、むしろ滑稽な結末だ。『太陽がいっぱい』と同じく、悪事はばれるという最後だが、人殺しの場面がない分、後味がよい。主役はジャン・ギャバン演じるシャルルと、アラン・ドロン演じるフランシスで、後者の名が先に書かれている。アラン・ドロンはスタントを使わずに身の軽さを示す演技で、映画の後半はひとり舞台となる。さて、ふたりは刑務所に服役中に知り合った。シャルルの年齢はこの映画を撮った時のギャバンの年齢が59で、それ相応の役柄だ。一方、アラン・ドロンは27歳でフランシスの役に見合っている。フランシスは2年の懲役の後、シャルルより3か月前に出所し、母と暮らしているが、仕事を見つけていない。手に職がないのだ。ガソリン・スタンドで働こうとしているが、口だけのようだ。フランシスは家にいてはポータブル・プレイヤーで軽音楽を聴き、ヘヴィー・スモーカーになっている。母はそんな彼に姉の子の面倒を見ろと言うが、金をもらってすぐに遊びに行く。その様子を見た母はそのお金でレコードやたばこでも買うがいいと怒鳴りる。ここで興味深いのは、1963年当時すでにたばこは癌の大きな原因とされていたことと、不良はレコードを買うと思われていたことだ。そう言えば当時はビートルズがデビューしたてで、日本では不良の音楽と言われた。筆者はそんなレコードを中学生でほしがったので、フランシスの半分は不良であったことになる。またついでに書いておくと、彼が部屋で聴く音楽はこの映画の主題曲だ。ジャズやロックンロールのアレンジがなされて何度も背後で鳴りわたる。60年代前半、フランシスのような若者がフランスには多かったのだろうか。それはアメリカや日本でも同じであったはずで、アラン・ドロンは戦後世代の代表を演している。そしてフランシスがひとりでは大きな仕事をなす頭脳がないのに、シャルルという父親世代の同様の貧乏嫌いの遊び人が話を持ちかけると容易にそれに乗るところに、犯罪が永遠になくならないことを暗示させる。入獄するという代償を払いながら、日陰、裏街道を歩む人間はいつの世にもいる。引退したお笑い芸人の上岡龍太郎が言っていたことに、『芸能人はやくざと一緒で、楽して金を得、また人に目立つことが大好き』というのがあった。この映画はまさにそれで、ジャン・ギャバンとアラン・ドロンが本物の犯罪者に見える。
フランシスは自動車修理工場を細々と経営する姉の夫ルイのところに行っても金を無心する。27歳で2年刑務所に入っていたという設定は、真面目なルイとは正反対だ。それは早い段階で手に職を持たなかったからだが、それは持つことをいやがったのか、たまたま運が悪かったのかはわからない。27になるのに手に職のない男は今の日本でもいくらでもいるだろう。そのうちの真面目に安月給で働くのがいやな者は、この映画のように転落の人生が待っているかもしれない。その転落して行く先である監獄が「地下室」ということだ。一方、シャルルは結婚して30年になる。その間に2回懲役刑を受け、その合計年数が8年だ。30年のうち8年は奥さんはひとりで美容師をしながら暮らして来た。シャルルがどういう事件を起こして服役することになったかは描かれない。だが、安月給のサラリーマンになることを嫌悪し、また彼らを相手に小銭を稼ぐ商売も念頭にない。一発大きく当てて余生はオーストラアのキャンベラで大金持ちとして暮らしたいと考えている。その仕事と言えばギャンブル同然のことで、服役したのはその関係の事件であったことが暗示される。ギャンブル好きは女にあまり関心はないとされる。そのことはこの映画でも言える。シャルルとフランシスはまさに賭けのような危険な現金強奪を計画する。そしてシャルルの指示によってフランシスはホテルで働く若い踊り子と知り合いになる。その女性がふたりの計画を台無しにするのかと思っていると、そうはならず、女はいつの間にかフランシスの下品さに愛想をつかして去って行く。ここは少々意外であったが、そもそもフランシスは女の体が目的ではなく、現金強奪の隠れ蓑などに利用しただけで、そこまではシャルルの目にかなっていた。女にうつつを抜かしていたのでは一生一大の計画は成就しない。そのことをフランシスはよく理解していた点で、そのまま年齢を重ねればシャルルのようになったことが想像される。つまり、シャルルは老齢であり、体も重くなったので現金強奪の実行はとうてい出来ず、指示どおりに動く信用出来る相手がほしかった。それがフランシスであった。そしてふたりのチーム・ワークは見事に結実するが、最後で運の女神は微笑まなかった。それは『やはり悪いことは出来ないものだ』と、良識のあるごく普通の人を安堵させるし、また反社会的な映画では後味の悪さによって大ヒットはしない。映画は大衆が見るもので、大多数の意見にしたがった内容とせねばならない。ところが、悪事は必ず成就しないとなればそれはそれで嘘っぽいと感じるのが人間で、シャルルとフランシスは犯罪者であっても愛すべきところがあるように観客は思う。それは人を殺さず、現金だけ計画どおりに奪うことに成功するからだ。体を張った危険な行為であり、また見つかれば数年の服役では済まないほどの大きな賭けをしているのであるから、成功してもそれは天晴であって、憎めないところがある。この映画の成功はそのように思わせたところにある。
ジャン・ギャバンの貫録の魅力は今の俳優では誰が持ち合わせるだろうか。60年代に入ってフランスはアラン・ドロンを新たな有名な俳優として輩出したが、この映画はその新旧の2大スターの持ち味をそのまま役どころに活かしている。ふたりがまずいて脚本が書かれたと思えるほどで、彼らの魅力が最大限に出ている。先にフランシスが老齢になった姿がシャルルと書いた。それは正しくないだろう。シャルルは仕立てのよいスーツを着込み、威厳のある人物を演じることが出来る。金持ちがどういう姿でどういう嗜好を持ち、どういう身のこなし方、しゃべり方をするかを知っている。フランシスはまだ27歳で大金を握ったこともない。そのため、ホテルのカジノから大金を奪う計画をするには、役不足だ。いちおうはシャルルの手配によって高貴な身分の金持ちに化けるが、チンピラ言葉がすぐに改まるはずはない。それはシャルルが教えても即座に身につかない。育ちの悪さはすぐに露呈し、ホテルに滞在する人々からすぐに不良と悟られる。それでも一旦は大金を奪うことに成功する。そのまま逃亡が成功していれば、フランシスは金持ちの身なりが板につく生活を続けることが出来たかもしれない。シャルルもかつてはそのようにして洗練された風貌を得ることになったとも想像出来る。だが、やはりそうではない。シャルルはフランシスとは違って、大金持ちになってもそれは本当の意味でのそれであって、チンピラがそのまま大金を得たという身分は昔から望んでいなかった。少なくともこの映画はそう思わせる。それはシャルルとフランシスの世代の差だけの問題ではないだろう。だが、フランスはジャン・ギャバンの再来のような若者を60年代に欲せず、新しくアラン・ドロンを求めた。これは時代が軽薄になって行くことを仕方がないと思いながらも一方で肯定したからと見てよい。このふたりの新旧の俳優の共演はとても興味深い。それは今ではもう望めない。確かにジャン・ギャバンのような恰幅のよい俳優はいくらでもいるだろうが、彼ほどの風格は望めない。その風格は時代が作ったものであると同時に彼がそうありたいと思って獲得したもので、今ではもう不可能と思える。おそらくフランス人もそう思っていたのではないだろうか。ジャン・ギャバンの恰好よさはアラン・ドロンのそれとはあまりにも違う。こう書けば若い女性はきょとんとして、太った60男のジャン・ギャバンのどこが素敵なのかさっぱりわからないと言うかもしれない。それはそれでいい。何しろ若い女性がアラン・ドロンに魅せられて当然だ。だが、中年以上になると、女も容貌が衰え、男に別の魅力を求めるだろう。そしてそこに人生の甘いも辛いも知り尽し、また金持ちとはこういうものであるとどこまでも完璧に演じることの出来るジャン・ギャバンに絶大な賛辞を送る。
この映画は冒頭から面白い。シャルルはパリの北部にあるわが家に電車に乗って帰宅する。車内で男たちが話しているのを黙ってシャルルは聞く。話の内容はヴァカンスでどう過ごしたかだ。労働者はささやかに釣りで過ごした。それを聞いていたスーツ姿のサラリーマンは2週間ギリシアに旅行したが8万フランもかかったこと、またそれを1年ローンで返すことを言う。それを聞いたシャルルは、自分は安い給料で暮らすことは嫌いだと内心口走る。電車を降りたシャルルは5年の間にすっかり町並みが変わってマンションだらけになっていることに驚く。かつての吹田千里を思えばよい。緑地帯があることが気に入って家を購入したのに、今では道路はすっかり区画整理されて新しくなっている。ようやく5年前のままであるわが家に着くと妻がいる。彼女は出所を迎えに行かなかった。だがシャルルはそのことを責めない。妻は浮気が心配でなかったのかと訊くとシャルルは考えもしなかったと返答する。妻にはそれは意外だが、刑務所にいる間は女のことを考えないようにしなければ身が持たないといったことを言う。だが、出所すればたちまち以前の性質に戻る。犯罪者は何度も犯罪を繰り返しがちなことがここからもわかる。シャルルは1000万フラン残して入所したが、妻はそれから弁護士費用を差し引いたお金と自分が働いた金の合計2400万フランでコート・ダジュールに小さなホテルを買おうと提案する。シャルルはそういう計画がうまく行かなかった人たちが大勢いることを言い、また貧しい者から金を得る商売が性に合わないと言う。ここにシャルルのある種の優しさが描かれる。悪事を働きはするが、それは金持ち相手だ。たとえばこの映画でも描かれるように、カジノが得た収入が強奪に遭っても、経営者はその倍額を保険会社から支払われる。つまり、誰も困らない。そういうことを知っているシャルルで、カジノから奪うことをさして悪事とは思っていない。ところがフランシスはそうではないかもしれない。若いこともあって、いざとなれば簡単に銃の引き金を引くかもしれない。そういう場面はないが、血の気が多そうな様子は描かれる。さてシャルルがカジノから奪うことにしたのは、出所後に昔の仲間を訪れ、ホテルの図面を見せらたからだ。そこに悪人のネットワークが暗示される。図面を見せた男は病弱で、出所を待ってくれていた、そして自分を養ってくれているサウナ経営者の女に頭が上がらない。もう悪事に手を染めない覚悟なのだ。これはかなり現実的だ。若い頃は何度も悪事を働いたが、年貢の納め時が来て、ごく平凡に生きるというやつで、そこには老齢の悲哀さがある。それはシャルルも同じだ。
彼は最後の大勝負をしてそれに勝ちたいと思っている。妻はそんな計画をやめてほしがっているが、シャルルは聞く耳を持たない。では妻は逃げて行くか。そこまでは描かれない。シャルルのような男に魅せられる女はいる。フランシスが酒場で女に色目を使われる場面がある。年上なのだろう。彼女は5年も男の面倒を見たことがあるとフランシスに言う。シャルルはいつも人生一発逆転の大きな夢を追い続けている。冒頭のこの場面を見てシャルルに同意出来るかどうかで、人の性質がわかる。そういう危険な男と暮らすのは御免だと思う女性がほとんどだろうが、得てしてこういう男は多いし、そういう男がよいと思う女もいる。筆者も自問してみるが、シャルルの思いはわかる。人生を賭けて、何か大きいと納得出来ることをしたい。ただし、男のそうした夢はシャルルのように大金を稼ぐことだけとは限らない。男がいろいろであれば女もそうで、そのことをこの映画はさりげなく描く。シャルルは監獄で何年か暮らす可能性があっても、大金を一度にせしめる夢を捨て去れない。よほど金持ちでいる状態が心地よいからだが、この映画では妻を侮る人物たちの鼻を明かせてやりたいということも犯罪計画の理由になっている。、金持ちには誰しも一目置くと思っているからで、その金持ちに見合う洗練さをシャルルは持っている。ところが先に書いたように、フランシスは独身であり、ただ働くのがいやで手っ取り早く金持ちになりたい。そういう人物がどういう末路をたどるかは見えている。大金が転がり込んでも、ファスビンダーの映画『自由の代償』のようにすぐに寄ってたかって身ぐるみ剥がれる。そのことをこの映画では別の形で、つまりせっかく奪った金がもう一歩のところで運悪く一目に曝されることで描く。シャルルひとりではそのような失敗をしなかったかもしれないが、妻に計画をほのめかした時、過去に二度逮捕されたのは、運が悪かっただけでまたひとりで行動したからだと話す。そして最後の大仕事はひとりで実行出来るものではない。信用出来る相手が必要であったが、悪事は成就しないという世間の見方に沿った結末はさておき、フランシスと手を組んだこと、また細部の詰めの甘さによって思いを遂げることが出来なかった。映画の後、ふたりがどうなったかを考えると、たぶんシャルルは逃げおおせて妻とささやかに暮らす。フランシスは二度目の刑で最低でも5年は入所するだろう。そして出所した時にシャルルのように待つ妻はいない。だが、その美しい顔で、貢いでくれる女を簡単に見つけることは出来るはずで、世の中はどう生きてもそれなりに満足も後悔もあるようになっている。となれば、男は一発当てることを思って生きる方がいいではないか。宝くじなどつまらないものを買うことは論外。それはちまちました人のやること。