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●『祇園の姉妹』
は甲より劣るという印象があるので、祇園甲部は祇園乙部より格が上かと思ってしまうが、実際そうなのだろう。先ほどネットで調べると、祇園乙部は明治14年に祇園甲部から分かれ、戦後になって祇園東と呼ぶようになった。



京都文化博物館のフィルム・シアターで8月29日にひとりで溝口健二監督の『祇園の姉妹』を見た。『浪華悲歌』とは違って音声が聞き取りやすく、とても面白かったので家内にも後日見に行かせた。『浪華悲歌』と同じく昭和11年(1936)の制作で、上映時間は2分少ない69分だ。続編があってよさような結末で、TVならば数十回の連続ドラマとして仕立てるだろう。だが、だらだらと話を引き延ばさず、1時間少々にまとめているのがよい。それで充分に主人公のその後が想像出来るし、監督の思いも言い尽くされている。脚本は『浪華悲歌』と同じ依田義賢で、彼は祇園の加藤楼に毎日弁当持参で通って取材した。溝口も多少は通ったのだろうか。撮影に入るとロケの必要もあって花街を取り仕切る組合長などへあいさつもしなければならなかったはずだが、この映画で描かれる乙部の芸妓姉妹のうち、山田五十鈴が演じる妹のおもちゃを見て彼らが憤慨したのは誰に目にも明らかで、会場で配布される解説書には『「あんな芸者は乙部にはいない」と激怒した』とある。つまり、花街の宣伝になって業界が潤うと思っていたのが予想が外れたということだろう。溝口にすれば多少は誇張もあるが、祇園の華やかな世界の裏側を描こうとの思いで、そのことによって花街の印象が悪化することなどどうでもよいと判断したのかもしれない。そこに、この映画の主役であるおもちゃの生き方を肯定するとまでは言わないにしても、昔堅気の姉の梅吉を時代遅れとみなす思いが伝わりもする。結果的にこの映画によって祇園の花街を訪れる人が増えたのかどうかわからないが、有名になったのは確かであろう。また、戦後の祇園はこの映画で描かれるよりもっと芸妓の数が減ったが、今でも同じような人間関係は祇園の花街という特殊な世界に限らず、男女がいる限りどこでもあると思わせるところ、監督の思いはただ祇園の裏面を描きたかったというところに留まらないことを伝える。前作が大阪を舞台にしたので、本作では京都という自然な発想であったように思うし、また京都の芸妓を言葉も含めて演じ切った山田の才能なくしてはこの映画の成功はなかったが、前作で把握した山田の実力をさらに開花させようとした監督の考えは見事に的中し、この2作でかえって山田は引退するどころか女優業を生涯続けることを決心する。それほどに山田にとっても印象深い作品になったが、2作ともいわば悪女役で、その後同じような性格のきつい役ばかり回って来ることを心配しなかったのだろうか。ともかく、2作は似た内容で、ドライな女を描いていて、同じ考えの女性は戦後いよいよ増加したと見てよく、その点でもこの映画は時代を先取りしていた。
 『ある映画監督の生涯』ではこの映画の舞台になった祇園乙部の街並みが映った。四条花見小路の北側の位置し、東は八坂神社の石段下までだ。映画で映ったのは特に現在の祇園会館の裏手だ。細い道から抜けて四条通りに出る様子が印象的であった。今も同じその路地はあるが、両側はすっかり変化しているだろう。それに筆者はほとんどその地帯を縦横に歩いたことがない。さて、映画の内容を説明して行くと、芸妓姉妹が木造の平屋で暮らしている。姉の梅吉には古くからの馴染み客がある。木綿問屋の主人の古沢だ。古沢は遊び過ぎたのか、家財や家宝を競売にかけ、店をたたむ。この場面から映画は始まる。数人の男が品々に次々に値をつけてせり落として行く。この映画が撮られた当時、そのような光景は割合見られたのではないだろうか。男爵などの大家がこぞって美術品を売り立てた時代が続き、骨董商は潤った。この映画では古沢とは反対に金儲けのうまい骨董屋が登場する。産寧坂に店をかまえる聚楽堂で、彼は贋作を扱い、それをほしがる人に巧妙に売り惜しみして、平気で最初に言った価格のほとんど倍ほども値をつけたりする。それも依田が取材した業界の暗部だろう。溝口の骨董商への思いが見え透いているようで興味深い。話を戻すと、嫁入り道具まで失う羽目になって古沢の妻は故郷に戻ってしまう。ひとり残された古沢は行く当てがなく、今まで入れ上げて来た梅吉の家に転がり込む。義理人情を知る梅吉は彼を受け入れ、3人の共同生活が始まる。だが、おもちゃは面白くない。梅吉が出前を呼んで古沢のための食べ物を運ばせると、支払う金がない。家賃も長らくたまっている始末だ。そんな貧乏世帯であるのに金がなくなった古沢の面倒を見る姉が理解出来ない。これはおもちゃが義理人情に厚くないと言ってしまって済む問題ではない。『浪華悲歌』のアヤ子と同じように、目の前に差し迫った金が必要であるのに、自分以外はそれを実感しないことが腹立たしいのだ。おもちゃは姉に期待せず、自分でどうにか金を得ようとする。ただし芸妓であるからには男を相手にするしかない。金持ちのいい旦那が見つかればよいが、そうした人物を引きつける場に出て行くにはきれいなキモノのひとつも仕立てねばならない。そして金を得るにはまず金がいる。そうした現実を前におもちゃは自分に気のある男を手玉に取り始める。これは花街でなくても女と男の世界ではいつの時代、どの国でも繰り広げられることだ。若い女は少しでも自分を高く売ろうろとするし、金のある男はそんな女を金の力で得ようとする。その構図に我慢ならないのがおもちゃで、彼女は本当は男に媚びることなく、自分の力で男に伍して生きて行きたいと思っている。だが、芸妓であるからには金のある男を相手にするしかない。おもちゃはそんな男を軽蔑し、芸妓の存在を呪いながらも、どうにか旦那を見つけようと必死になる。ところがその強引な行動に復讐される。男たちをうまく丸め込んだように思っても、男の中にはたちの悪い者もいる。男の方が上手なのだ。
 おもちゃが最初にした策略は、出入りする呉服屋の番頭から高価な反物をただでもらうことだ。それを姉に着させて旦那を見つけさせようとする。番頭はおもちゃが好きで、おもちゃの強引な言葉にころりとその気になって店の商品に手をつけてしまう。そのことはすぐに主人にばれる。主人はおもちゃがそそのかしたことを見抜き、おもちゃに文句を言うために家にやって来る。ところがおもちゃは動じないどころか、主人をその気にさせて旦那にしてしまう。この呉服屋の主人を進藤英太郎が演じるが、おもちゃの言葉にまんまと乗せられてしまう様子が面白く、会場は笑いで溢れた。主人は番頭を許しながらもおもちゃに会いに行かないように説教する。そのことで番頭は心を入れ替えて仕事に励むと思いきや、そうはならない。この点は、おもちゃが「番頭ごときの分際で芸妓にキモノを店から盗んでわたすことをするのであれば、いずれ手が後ろに回る」と番頭に向かっては言い放つ言葉に暗示される。これは伏線となって映画の最後に効いて来る。また、一方でおもちゃは古沢を追い出すことを企む。梅吉を抱えたいと思っている聚楽堂に目をつけ、彼をそそのかして得た金から、古沢が故郷に帰るのに必要な幾分かを与える。古沢は気のよい人物で、居候していることを半ば申し訳ないと思っている。そこにおもちゃが大金をわたして追い出そうとしたものであるから、彼は即座に出て行く。だがおもちゃは姉には自分が古沢にした策略を打ち明けない。聚楽堂は顔見知りの古沢がいなくなって堂々と梅吉の旦那になる。戦前の京都で多少金のある男はこのように芸妓遊びをしたのだろう。だが溝口はそういう男を戯画的に描いている。そしてそういう旦那にはだいたい頭の上がらない妻がいる。古びた妻からは得られない色気を金で買うのは今でも全く同じだ。そのために夜の商売がある。さて、ひょんなことで梅吉は故郷に帰ったとばかり思っていた古沢が近くの茶店で働いていることを呉服店の番頭から聞き知る。すぐに梅吉は古沢に会いに行き、そして一旦帰宅しておもちゃをなじりながら荷物をまとめて家を出て行く。そうして梅吉は古沢と狭い家で同居する。パンを半分に割って食べ合う仲睦まじさで、梅吉は古沢が好きなのだ。それは金に代えられないものだ。だが、おもちゃはそんな姉の生き方をよいとは思わない。落ちぶれた男に魅力を感じているようでは自分もそうなってしまう。おもちゃは金に困る生活はしたくないのだ。それに芸妓の色気を金で買おうとしている男たちから、なるべく多くの金を出させることのどこが悪いかと思っている。ところが、そのことを理解し、心優しい旦那が見つかればいいが、そうでない男もいる。おもちゃの旦那の呉服店の主人がある日おもちゃの家にやって来た時、たまたま番頭が居合わせた。出入りを禁じたはずの番頭を見て主人は激怒し、家から引きずり出しながら解雇を言いわたす。行く当てのない番頭はどうするか。これは『浪華悲歌』のアヤ子と同じで、転落するしかない。番頭は極道の仲間となっておもちゃに復讐する。ある夜、タクシーでおもちゃを迎えに行き、乗せたところで運転手の隣に座った男はおもちゃの方に振り向く。そして、「そんなに金が好きなら金を持っている極道を紹介する」と言い放つ。それは芸を売るおもちゃにとっては大きな侮辱だ。そんな女とは違うという矜持を見せながらおもちゃは車を停めろと何度も繰り返すが、ふたりの男は聞き入れない。車は灯りの点る四条通りをどんどん西に走る。これはたとえば当時はほとんど家がなかった西院から西の右京区あたりに行くことを暗示している。場面が変わっておもちゃは病院に運ばれる。走る車から放り出されたのか、自分で扉を開けて出たのか、頭と足に大けがだ。見舞う梅吉に対して男を罵るおもちゃで、しかも梅吉から古沢が梅吉にあいさつもせずに妻のいる故郷に帰った話を聞いてさらに激怒する。
 女学校を出たおもちゃは、本当は芸妓にならなければよかったが、そうも出来ない理由があったのだろう。そのことは映画では描かれない。映画の最後でおもちゃは「芸妓という商売がなくなってしまえばいい」と言い放つが、頭と足に大けがをして芸妓を続けることが出来そうにもないことが暗示される。新聞に事件は載るはずで、そうなれば狭い花街では誰ひとり知らない者がない状態になる。そうなれば梅吉も芸妓の命を絶たれたも同然だ。この姉妹の将来はおもちゃの反抗的な態度と男を手玉に取ろうとしたことで潰される。だが、おもちゃの態度はドライ一辺倒では非難出来ない。戦後の、特にウーマン・リブが盛んになった60年代半ば以降の女性はおもちゃの態度に喝采を送るだろう。この映画はその時代を予告したような内容で、負けん気の強いおもちゃは男を騙す悪い女ではなく、男と対等であることを主張し、ごくまともなことをごくあたりまえに行動しただけとも言える。また、そういう女が花街にいて女性の権利を主張したという設定は、女性の学者がウーマン・リブから出発して後にジェンダー論などと理論づけたことと違って、大きな説得力がある。学者よりまず生身の「女」を売る女性たちが声を上げたのであって、そこに溝口の鋭い眼差しと優しさを思う。女性の弱い立場に立って論陣を張る女性の学者はそれなりに偉いとは思うが、そういう学者は大学という安定した職場にあって、本当に苛酷な状態で生きる女性とは立場が全く違う。いわば机上の空論だ。口先ではどうでも言える。口から出る言葉は、それを言う人がどこに身を置いているかが重要だ。もちろん山田五十鈴は祇園の芸妓を演じたのであって、芸妓そのものではない。だが、女優業も芸妓に似たようなところがある。芸を売ることでは同じで、芸を認めて肩入れしてくれる監督がいなければ食い上げだ。そこで山田はおもちゃの心境に同化することが出来たはずで、その演技は不遇な芸妓の思いを代表した。ところがそのような裏事情を暴かれたのでは花街はたまったものではない。おもちゃのような男を騙す女がいるという見方が広まれば商売上がったりだ。この映画を見る限り、溝口は芸妓遊びをよく思っていなかったことがわかる。それは遊びであって、男は金がなくなるとさっさと別のところ、あるいは妻のもとに帰る。したがって義理人情のある梅吉は空しく裏切られる。むしろ大けがはしたが、思いを変えないおもちゃの方が開かれた未来が待っているだろう。京都は呉服商も大幅に縮小し、祇園の旦那になれるのは今はどういう職業なのだろう。危機を感じて安価に設定し、また一見客でも受け入れるというように変化しつつあるようだが、芸妓の芸は伝統として残して行くべきものであって、京都がある限りは芸妓はなくならない。ただし、この映画に描かれるように裏側は金が物を言う世界であって、男女の駆け引きは昔も今も大差ないだろう。
by uuuzen | 2012-09-05 23:59 | ●その他の映画など
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