財界人と言うべきで、経済人という表現はよくない。一昨日書いた小林一三のことだ。彼のことを経済人と書きながら、まずいなと思った。投稿直後、「財界人」に訂正するつもりが、忘れてそのままになった。
それで今日は小林一三記念館について書く。これは以前逸翁美術館として使われていた建物を利用している。ただし以前訪れた時とは少し印象が違う。若干改装されたであろう。大山崎山荘に似た洋館建てが本館で、その玄関はこの建物の顔だ。写真で紹介される時は必ずその写真が使われたのに、その玄関が見当たらなかった。あるいは筆者の記憶違いで、昔と変わらずその玄関を利用して本館に入ったのかもしれない。ともかく、玄関の外観を見ることがなかったので、これはどういう理由かと考えて今チラシを見た。すると、以前からあった白梅館に隣接してハイビジョンシアターが設けられ、その脇を真っ直ぐに進むと玄関に至ることがわかる。これは、昔と同じく玄関からは入るが、その外観をやや離れた場所からは見られないことを意味している。白梅館やハイビジョンシアターは本館の西側にあって、元は庭であったような場所に新しく造られたものだ。白梅館は以前はそういう名前ではなく、「新館展示室」であったかもしれない。なぜ白梅館と呼ぶかだが、想像するに、有名な藍染めされた麻地に描かれた呉春の六曲一双の白梅図屏風に因むのではないだろうか。それは逸翁美術館所蔵の呉春の代表作のひとつだ。入場者はまず白梅館を見るが、周囲の壁面には説明パネルが埋まる。一三が興した事業を時代順に説明し、全部読むと30分以上要する。まとめると、箕面電鉄から阪急電鉄、そして途中で現在の京阪電鉄と統合したが、後に分かれたといった一三の生涯の最も有名な電鉄事業がメインになっている。これは鉄道ファンなら心躍らせる歴史で、彼らは一度はここを訪れるのではないか。一三はこの電鉄事業に伴って沿線に住宅を建て、大衆向きの娯楽が必要というので宝塚歌劇を始め、また梅田には百貨店を建てた。それらの事業の宣伝文句からチラシのデザインまでしたし、百貨店を始めた時は何をどう売るべきかまで意見した。この多忙さの中でよくぞ趣味の茶会や美術品収集を続けたものだ。この私的なことについての説明は本館が受け持っているが、それは今回の特別展のための会場で、企画展が違えば別の説明パネルが用意される仕組みだ。今回「小林一三と百貨店」という内容に絞られたのは、長年工事をしている梅田百貨店と梅田駅を結ぶ通路などが11月に竣工することに合わせてで、一三の思想が現在に直結していることを再提示しようということだ。本館で説明があったが、阪急電鉄本社の所在地は今なお池田のこの一三が暮らした建物にあるという。創業者を改めてきちんと表彰するためにこの記念館がオープンした。それは一三の思想を再確認して経営を整えようようとの考えだろう。

阪急電鉄は京都、大阪、神戸を結ぶ大動脈で、筆者のブログの半分は阪急電鉄あってのものとなっている。とはいえ、阪急に感謝すると言いたいのではない。わが家の前に京阪の駅があればそれを中心にした生活になるし、バスしか走っていないのであれば、それ絡みの内容をブログに書くだけのことだ。それはさておき、最初に書いたことからわかるように、筆者は経済に関心がない。そのため、財界人の一三にも特別の思いはないが、美術好きであった点は、たとえば松下幸之助と違って好きだ。松下は大金持ちになってからは一三の薦めで茶に関心を持った。だが、今回説明があったように、一三は「大金で茶道具の名器を揃えるな」と忠告した。筆者が知らないだけかもしれないが、松下は美術品を集めていずれ美術館を建てるといったことには関心を抱かなかった。そういう施設がとっくの昔に門真市にあってよさそうであるのに、そういう話は聞かない。それは松下が根っからの大阪の商人ということで、それはそれで根性が座っていると言うべきかもしれない。だが、江戸時代の大阪の商人は決してそうではなかった。大阪は金を儲けるためだけの街ではなく、多くの芸術家を輩出した。そのことを松下はどう思っていたのであろう。知らなかったはずはない。松下はそれなりに日本各地の歴史的文化財に関心を持ち、その保存に努めた。一時京都に住む人からは風景税のような形で何らかの税金を徴収すればよいと言ったこともあったが、風光明媚な京都に住むことは日本でもごくわずかな特権を得ることと同じと考えていたのだろう。その考えは京都に比べると騒々しい大阪に住む財界人の考えそうなことだ。液晶の思惑が外れてシャープの経営が傾きつつある現在、松下のパナソニックもあまり輝かしい未来はなさそうな気配だが、商売に一生懸命になっても世界は数十年で大きく変わり、大会社がなくなることも珍しくない。そういうことを松下は予想したであろうか。予想しなかったとすれば呑気だ。誰しもそんな長期の推移を考えることはある。、であるからこそ、金とは無関係の境地にあこがれ、それがたとえば美術への愛好であったりする。一三は20代で絵を収集し始めたから、商売一筋の松下とは格が違う。ところが日本では松下を主人公にするドラマが制作されても一三は無視される。そのことを世界から見れば二、三流国家の証拠とは言わないが、TVプロデューサーがもう少し啓蒙的な心がまえを持って経済ではなく、文化本位の番組を作るべきだ。
経済社会は弱肉強食で、シャープやパナソニックのブランドが100年後に消えることはあり得る。そういう現実を仮に松下が見たとすれば、嘆くだろう。作った会社が消えるのであるから、それは商人としては当然だ。そこで松下の名を別のところで永らく伝えるのは、金儲けとは別のことで、それがたとえば文化事業だ。企業はただの金儲け集団であってよいだろうか。最も金を集める集団が最も文化を擁護するのでなければ、時代ごとの世界に誇る文化は栄えない。大勢の社員の面倒を見ることは見上げたことだが、そういう会社がなくても人は別のところに散って生きて行く。であるから、会社が大勢の社員を抱えることは社長様々と持ち上げるほどのことでもない。その社長が会社運営に支障のない程度の金を美術品購入に使ったとして、それは社員の面倒を見て感謝されること以上の価値があるかもしれない。だが、社長にそんな趣味がないことには始まらない。また、そんな趣味を持つ社長を快く思わない社員は多いかもしれない。それを感じての松下とその社員であったかもしれず、松下が一三の薦めで茶をたしなんだとしても、それ以上に美術への興味を持たなかったのは仕方がない。一三は夫人と一緒に欧米を旅し、どんな小さな町に行っても美術館があることに驚いた。そういう面が日本では全く遅れていて、それで池田に自分の雅号を用いた逸翁美術館を建てることにした。これは見上げたことではないか。欧米に伍するにはどうすべきかを熟知している。ところが、時代はその後日本がエコノミック・アニマルと呼ばれるように進み、今ではその経済大国が傾こうとしている。エコノミック・アニマルが欧米に匹敵するほどの美を知る人間であったとみなされることをして来た、あるいは今後して行くのであればよいが、経済の逼迫からは最初に文化予算が削られる。エコノミック・アニマルがただのアニマルになったと嘲笑されないようにありたいが、一三が欧米を旅行して見聞したことを肝に銘じる財界人はどれほどいるのだろう。

白梅館の展示パネルは写真をふんだんに使い、わかりやすく説明してある。このパネル内容をそのまま印刷したパンフレットが売られているとよいが、一三に関心のある人がたとえば山梨や大阪にどれほどいるだろうか。山梨の出ではあっても山梨で成功したのではないし、また関西で名を挙げたが、松下のように生粋の大阪人ではない。この中途半端さが、一三の影を少しうすくしているように思う。話を戻して、白梅館の壁は展示パネルが埋め、部屋の中央には阪急沿線を紹介するジオラマが占めていたと思う。それは鉄道ファンや子どもが楽しめるようにとの考えからで、実際筆者が展示室にいた間、20名ほどの老若男女がいて、みな熱心にパネルを読み、ジオラマの模型を見ていた。白梅館はいわば常設展で、それにハイビジョンシアターを見れば一三の事業の全体がわかる仕組みだ。15分程度の映像が1時間に数回上映されていたと思うが、閉館まで時間が少ないので中に入らなかった。シアター脇の雨を凌ぐ通路を10メートルほど行くと本館の玄関に着く。本館は趣味人としての一三の紹介だ。一三の阪急の創設は関西人なら誰でも知るが、関東でも業績を残していることがパネルで紹介されていた。東京田園調布市の開発は、自然のなだらかな勾配を生かした設計であったという。また東京電力の元である東京電燈を再建し、政界にも進出した。政界入りは近衛文麿が総理大臣を務めた時で、商工大臣となった。戦後も復興院の総裁を務めるなどしたが、近衛文麿に就いた経歴によって公職追放となった。文麿と一緒に座る写真があった。文麿の家だと思うが、陽明文庫の貫録の前に一三はただただひれ伏したのではないだろうか。文麿のもとでの商工大臣は、一三の類稀な商才からして適役でも、一三にすればそれ以外のことで文麿とつながりを持つことを光栄と思ったであろう。本館の庭には茶室が3つもあって、そのうちのひとつが文麿が命名し、扁額に揮毫した「費隠」だ。これは現在の場所から少し離れたところにあったものを移設したが、文麿はたまにその茶室にやって来たそうだ。本館に接続する茶室「即庵」は椅子に座って茶を喫するようになっていて、これは形に囚われない一三の考えを表わす。柳宗悦も茶の代わりにコーヒーを用いるなどしたが、そういう試みに通じる。そうそう、魯山人が阪急デパートの美術品売り場で個展を開催する時、一三は価格が高いことを指摘し、もっと安くすることを求めた。気位の高い魯山人はそれにしたがわなかったが、一三は魯山人の才能を見抜いていた。ただし、熱烈なファンにはならなかったようで、購入した作品はわずかなようだ。一三が柳の民芸をどう思っていたか。魯山人を認めながら多少距離を置いたのと同じではなかったろうか。ただし、民芸作家の作品はそこそこ収蔵されていると思う。
本館1階の吹き抜けの大きな部屋に2階に行く階段がある、その反対側の隅に小さなカウンターがあって男性がひとり立っていた。その向こうは雅俗山荘というレストランで、食事するには予約が必要のようだ。この山荘は戦後の一時期GHQに接収され、一三は自由に使えなかったようだ。作品の収蔵部屋はそのまま使えたが、奥の部屋をGHQの家族の子どもが利用するのに収蔵部屋を行き来する必要があって、壁も設けたと説明があった。収蔵部屋も今は説明パネルで埋まるが、一三が使用した作品収納用の古い箪笥が幾棹も並べられていた。その奥に広がる居間や応接間は以前は見られなかった。やはり大山崎山荘によく似ていて、夫婦で住むにはちょうどよい部屋数と広さだ。靴を脱いで入るのかと思っていたところ、幅1メートルほどの絨毯が通路代わりに部屋ごとに敷いてあって、その上からはみ出ないように内部を鑑賞する。とはいえ、椅子やテーブルのほかは家具など生活を感じさせるものはない。一三か奥さんの部屋か忘れたが、床の間に水墨の古画がかけられていた。おそらく因陀羅の禅画だ。本物であるとするとさすがだが、絨毯から少し出て手を延ばせば届く距離にあって盗難の恐れが大きいから、コロタイプかもしれない。居間から窓の下の庭を見下ろすと、見知らぬ野鳥が飛び交っていた。その庭にはたくさんの植物がせせこましく植わっていて、あたりまえのことながら雑草はなかった。ただし、茶室「費隠」の周囲は少し荒れていた。そこは即庵に比べて使用の頻度は少ないのだろう。一昨日書いたように一三は故郷の山梨にさほどよい思い出を持っていなかったようだ。親のない一三が身内に引き取られてさびし思いをしたことが、本館に展示された一三の文章で紹介されていた。その一三の孤独は彼の写真の眼差しに見えている気がする。一三が暮らした家は甲州街道沿いにあった。多くの車が走るのであちこちガタが来て、移設が決まり、竹中工務店が瓦1枚そのままにそっくりそのまま宝塚ファミリーランド内に移した。一三が死んでからのことだ。街道沿いのその家の写真が本館に展示されていた。韮崎では最も大きな家であったというから、移設のし甲斐はあった。宝塚ファミリーランドを訪れた際、この一三の暮らした家の存在には気づかなかった。この家は阪神淡路大震災で倒壊し、撤去された。また、宝塚ファミリーランドもその8年後に閉鎖となったが、一三の思惑のひとつは時代遅れになったということだろう。あるいは一方で京阪沿線の枚方パークが健在であるので、営業方針がよくなかったかだ。阪急の経営が傾くことなく順調であり続けてほしいが、嵐山の所有地をホテルや温泉にすることの光と影が今後どう見えて来るのか、地元住民としては多少気になる。