逸翁美術館が最近新しくなったのは知っていたが、その建物を訪れるのは初めてであった。8月12日まで今日取り上げる展覧会が開催中で、それに合わせたわけでもないが、隣接する池田文庫で調べものをするために10、11、12日の3日間通った。

調べものは午後5時まで出来るが、逸翁美術館の閉館も同じ時刻であるから、10日は4時少し過ぎてから同館に駆け込んだ。入場の際、チケットは以前に逸翁美術館であった建物が新たに阪急電鉄を創設した小林一三の記念館にも入れると言われた。ところが、絵を見終えた時には4時半を過ぎていて、一三記念館はもう入場出来ないと言われた。それで、翌11日は雨がひどくて同記念館に行かず、最終日の12日に見た。館内は昔は見ることの出来なかった一三が収集した美術品を保管する部屋や、生活していた夫婦の部屋なども公開され、同じく山荘を活用した大山崎山荘美術館を思い起こさせた。一三記念館についてはいずれブログに書くかもしれないが、今日は逸翁美術館だ。同館から一三記念館までは徒歩5分ほどで、より麓に近い場所に出来たのはよい。展示スペースは以前より少なくなったのではないだろうか。以前は山荘とその敷地内にある平屋の鉄筋コンクリート造りの新館の両方を使っていた。それがこのたびは1階建て鉄筋コンクリートの建物内部の大部屋ひとつだ。それはたくさんの部屋を使って100点以上も並ぶ展覧会が常識化している中、かえってゆったりじっくり鑑賞出来るので歓迎する向きもあるだろう。それに一三記念館も見ることが出来るので、遠方から池田に訪れる人は満足するだろう。逸翁美術館には、入ってすぐ左手に玄関を臨むことの出来る洒落た喫茶室がある。それは美術館の展示を見なくても、つまり入場券を買わずとも入ることが出来ると思うが、付近にそうした店がないので、やはり遠方から、あるいはごくたまに訪問する人には便利だ。10日は、阪急池田駅の改札を出て右手へ20メートルほど行ったところに駅舎内に貼られていた逸翁美術館への道筋を記した簡単な紙の前で、老婦人がふたり話し合っていた。筆者はその背後に近寄って、「ぼくも同じところに行きます」と声をかけた。ふたりは笑顔で振り返りながら顔を見つめ合った。その様子を見て筆者はどんどん先を歩いた。そして先日書いたように駅舎につながる商業ビル内にわたり廊下をたどって入り、すぐに階段を使って地上に出た。本当は大きな道路をわたる陸橋を利用すれば目の前の公園内に出られたものを、それがわからずに信号を10分ほども待った。とにかく長い信号で、日本一ではないか。待っている間、左手を見ると、道路を挟んで先ほどの婦人たちが同じく信号を待ち始めた。青に変わって筆者は公園内に入り、そして池田文庫を目指した。婦人たちは公園の東脇の道ではなく、駅前の国道を真っ直ぐ上って行った。それでもかまわないが、いずれ右に折れて池田文庫の方角に進まねばならない。車の多い国道沿いより、公園脇の静かな道の方がよいし、先ほどの駅舎内の簡単な地図にもその道をたどるように記してあったのに、初めて訪れる人はそれがわからない。だが、池田駅の北側は小さな街だ。どの道を歩いても迷わないだろう。どうでもいいことを書いている。筆者は池田文庫に入ってすぐに調べものを始めた。その間に婦人たちは逸翁美術館を見終わり、一三記念館に行き、そしてその内部のレストランで食事でもして駅に戻ったであろう。そんなことを考えながら調べものに精を出した。

小林一三が美術品を収集したことはよく知られる。それが逸翁美術館の企画展で紹介されて来た。コレクションの一部は20数年前、大阪の阪急ナビオの美術館でも展示されたことがある。梅田と池田とはすぐの距離であるから、わざわざ梅田で展示しなくてもよいのではと思うが、逸翁美術館はたくさんの作品を展示することは出来ないし、圧倒的に多くの人が行き交う梅田で展示すると知名度は一気に上昇する。一三は山梨の韮崎の出で、福澤諭吉の慶応義塾に学んだ後銀行に勤務し、30代半ばで証券会社の設立に関わって大阪に来る。ところが、話は立ち消えになり、家族を抱えて無職になる。それから起死回生を遂げ、阪急の創設につながって行く。そして池田を愛し、そこに死ぬまで住んだ。池田は江戸時代から画家には知られていて、蕪村は弟子の呉春を食わせるために池田に行かせた。そこでは呉春に絵を学んだり、作品を購入したりする富裕な文化人がいて、呉春の名は知られるようになる。一三が最も愛した画家は呉春で、それはいわば郷土の画家であったからだ。それに一三が盛んに絵を収集していていた頃は呉春の人気には絶大なものがあった。普通なら応挙に注目するはずが呉春であったのは、蕪村に最初に学んで応挙よりも文人画家の面が大きかったからだろう。だが、呉春は蕪村を亡くした後、今度は応挙に就き、その画風をものにする。そのため、呉春の画風は初期の蕪村風のものとそれから後の応挙よりのものとに分けることが出来る。それは呉春は蕪村や応挙を超えることが出来なかった才能とみなす理由にもなって、現在の人気は戦前とは違ってそうとう下火になっている。だが、呉春は蕪村そっくりの書をものにしたし、応挙には見られない文字と絵を合わせた作品をたくさん生み、書に関しても独特の才能を発揮した。この呉春の味わいをたとえば上田秋成は認めているし、またその手抜きをしたような省略の多い画面は京都の粋人には歓迎され、その後大きな流派を形成して明治の日本画の基礎を作った。一三が呉春のどういう画風を愛していたかは、収集した作品を見ればわかるように、初期だけではなく、全期に及んでいる。そのため、一三は呉春の文人趣味だけを認めていたのではないことがわかる。一三が呉春についての文章を残しているのかどうか知らないが、20歳頃から絵画収集を始め、やがて物故した画家の作品をもっぱら買うようになる。それは、ひとつには事業が軌道に乗って資力があったことと、また名家から美術品が大量に売り出される時期に遭遇出来たからだ。これは新興の企業家が貴族と交代して骨董品の収集家になった歴史の端的な例で、同じようなことはいつの時代でも生じている。戦後は掛軸を必要としない生活空間になり、成金に限らず金持ちはゴルフや車に金をかけ、今や呉春の絵でも数万円で買える。

そういう大きな価値感の変動があることを一三は予想したであろうか。したと思う。一三は最初は新画を収集した。当世の人気画家というのはいつの時代にもいるし、また物故作家より価格が高い場合が多い。ところが一三は30頃か、大阪に来る前に新画の大半を処分し、古い絵に興味を抱く。その理由は知らないが、前述したように各地で華族などの名家が所蔵する美術品の売立が盛んに行なわれ始め、古い作品を間近に見て買える機会が訪れたからではないだろうか。今回の展覧会は江戸時代ではなく近代の日本画を取り上げる。これは新画を全部売らず、気に入ったものを手元に残したことを示す。最初に展示されていたのは久保田米僊の、比較的さらりと描いた花鳥の淡彩画だ。米僊は明治半ばに徳富蘇峰の誘いで京都から東京に移住する。一三は蘇峰からその絵を送られたと説明書きにあった。絵が優れているからという理由よりも、人からもらったものは売り払うことが出来なかったのだろう。その次に展示されていたのは、鈴木華邨ら小林一三らが後援した鼎会の画家たちの作品で、同会は寺崎広業や川合玉堂も含む。川合は有名だが、華邨や寺崎広業の画風を知る人は少ないだろう。米僊もそうだが、万博時代の日本画家で、緻密な描き込みは欧米を意識したことを感じさせる。川合はより優しい空気を表現し、その分明治のいかめしさは少ない。そこが今も愛される理由ではないか。部屋の突き当りは一三の茶会の再現で、そのすぐ手前の壁面には川合の富士を描いた横幅があった。林の向こうに淡い富士があり、晩秋の雰囲気のいい絵だ。一三は生まれてすぐに母を亡くし、また父からも縁遠くなったので、故郷は甘い思い出ばかりではなかったであろう。そのためにも関西に骨を埋める覚悟が出来たと思える。同じ壁面には、ほかには鏑木清方、川端龍子、安田靫彦の掛軸が並んだ。これら東京の画家を20代で求めていたことがわかる。そのまま新画を収集し続けたならば、大正、昭和と若い世代の作品が増え、それなりに系統立ったコレクションを形成したが、30半ばで大阪に住んだことは価値観を変えたのだろう。では当時の大阪画壇に関心を持ったかと言えばそうではない。そこには微妙に一三の日本の絵画への位づけの思いが見える。それは明治までは上方がリードしたが、明治以降は東京の画家が中心を担ったとの見方で、美術史と一致している。明治になって天皇が東京に移り、政治の中心も担ったので、同地で生まれる美術が日本で最高のものとなったとの自負を画家や学者も思い込んでも仕方のないところがあるが、上方が完全に東京に遅れを取ったとは言えない。一三がもう少し近代の大阪や京都の美術を愛好し、収集していたならば、歴史は多少違ったものになったのではないか。そうではなかったところに、一三の関東人としての鑑賞眼を見る。
展示室の反対側全面は橋本雅邦の8幅揃いの「瀟湘八景図」が展示された。チケットにそのうちの1幅が印刷される。幅3メートルはあろうかと思える大幅で、保存はきわめてよい。軸先は直径5センチほどの象牙で、この8幅をどれほどの高額で購入したのかと思わせる。雅邦にはほかにも同じ画題の作があるが、この8幅が最大寸法で、出来もいいのだろう。一三がそれほどに雅邦に惚れ込んだ理由はなぜか。この作品が購入された時期は不明だが、新画を求めていた時期であろうか。そうであるとしてもその最後期ではないだろうか。そしてたとえばこの作品を通じて江戸時代の絵に注目し始めたかもしれない。「瀟湘八景図」は小品に描いてもよさそうな密度で、空間を大きく取っている。そのため、大味と言えなくもない。一方、余白の大きさは実物の風景を前にしたような息のしやすい解放感がある。その雄大さは文人画家が求めたものだが、ここでは明治のいかめしさが見え透いている。その分呉春とは異なる世界観で筆者はあまり好まない。おそらく一三の事業が次々と軌道に乗り始めた頃に購入したのではないだろうか。拡張主義と言えば聞こえが悪いが、そんな一面に似合う絵画に思える。だが、一三は有名画家の大作ばかりを評価したのではない。その一例が、今回展示された樫野南陽という池田の日本画家の作品だ。一三は南陽を支援するために会を結成し、作品を収集もしたのに、有名にはならなかった。一三によると、南陽は遅筆で人柄がよく、酒好きで野心がなかった。そういう人物こそ本物の画家で名品を生みそうだが、そうならなかったところがまた現実的だ。会場に書かれていたように、南陽を「稚拙」と見るのはどうかと思う。それは技術的に見てという意味であろうが、稚拙であっても名作として伝わる作品はいくらでもある。それはともかく、一三が南陽に肝入れしていたことは、まだ世に出ない画家を見出すという、新画を買い求めていた頃の思いを完全に失わなかったことを伝える。それは、経済的に豊かな者は、それに恵まれない才能を支援すべきという思いを示し、一三の優しさとまた進取に富むことを事業で展開したことを側面でよく説明している。一三のコレクションには若冲の墨画も一点含まれる。蕭白や若冲に集中しなかったことは、当時の日本の経済人として限界であったと言うよりも、大きな冒険を避けた姿を証明する。一三は池田の町をとても愛した。その池田に逸翁美術館ありきだが、もっとよく知られていい。そうすれば呉春の人気が復活し、さらには京都のかつての画人たちがさらに驚くべき才能の集まりであったことが認知される。最後に書いておくと、最初の写真は池田文庫、次は逸翁美術館、下は一三記念館に至るまでの道沿いの珍しい光の反射に着目した。