進化の具合が多少でも感じられればいいかと思って出かけた。今日取り上げる写真展のことだ。出かけたのは会期最終日の5日であったと思う。あるいはその前日であったかもしれない。
家内と四条河原町から歩いて岡崎の京都会館敷地内にある市美術館別館まで行った。その日はこの展覧会のみを見ただけで、帰りに河原町三条のリプトンに入って紅茶味のかき氷を食べた。家内は見なくてもいい展覧会のために暑い中を歩かされたので文句を言い続けた。筆者も予想どおりで、わざわざ見る価値を思わなかった。となると本展について書く必要はないことになるが、今日はMOにブログ用にため込み続ける写真を少し消化せねばと思い、投稿の題名をどうしようとか悩んでいると、本展を見たことを思い出した。公益財団法人日本写真家協会という団体の主催で東京、愛知、京都の3か所で開催された。チラシによると、同協会は昭和25年(1950)に創立され、1976年にJPS展として公募展を始め、今回で37回目になる。公募部門と会員部門の展示があるのは、絵画などの公募展と同じだ。今回はそれとは別に未成年が撮った写真もたくさん展示されていた。会場でもらった三つ折りの名簿によると、応募総数は2387名による7507枚で、枚数は過去最高という。審査員は『アサヒカメラ』の編集長を含む5名で、写真界のことを何も知らない筆者はどの名前は初めて見る。出品者の数倍が応募枚数になっているのは、組作品が多いからだ。2枚から5枚組でそれ以上はない。名簿に作品名と作者の名前が記されていて、数えると入選人数は300ほどか。合計数が書かれていない。300として8分の1の入選率だ。会員は60人ほどが出品し、その展示は一般公募とさほど明確に分けられておらず、見て行くうちに名札を見てこれは会員かと気づく具合で、作品に大差があるとは思えなかった。会員はプロとして活動しているので、それだけ個性も技術もあるはずだが、ネットを含めて日常的にあまりに多くの写真を見るので、写真を見て感動することがない。これは今まで何度も書いたように、写真は誰でも撮れるからで、その安易さは写真を見る態度の安易さを呼び起こす。その理由で言えば、死を賭けて撮った写真は迫力が違うことになるが、実際そうだろう。目下シリアで取材中の日本の女性ジャーナリストの死が大きな話題になっているが、彼女が今までに撮った映像で最も多く放送されたのは、彼女が銃撃される直前にに見た映像だろう。死を賭けて活動し、そして死んだことで彼女の仕事は新たな命を獲得して今後も残るだろう。彼女が最後に撮った映像は彼女が最後のものとしたいと思ったものではなく、たまたま最後になったものだ。その最後が銃撃による予期しないものであっただけに、一種の聖性を帯びる。それは命という最も大きなものと引き換えに得たものだ。
同じように報道カメラマンはそういう危険に身を晒して戦場の写真を撮って来る。従軍画家もある意味では同じで、オットー・ディックスの作品に異様な迫力があるのはそのためだ。だが、大多数の人はそんな極限状態にではなく、のんびりと平和な場所で生活し、そこで写真を撮ったり、絵を描いたする。そういう平和な写真家や画家の作品が戦場に出かけて行く人のそれより迫力がなく、つまらないかとなれば、そうは言い切れない。平和であっても命を賭けて制作する人はある。それは本人がそう思っているだけの場合もあるが、何が何でも作品によって名を挙げ、それで人生を切り開いて行こうと思っている食うや食わずの貧困状態の人がある。そうした人の態度が「命を賭ける」ことと言えば大げさかもしれないが、その命は自分の生命ではなく、表現している分野を愛し、それを豊かにしたい熱意を思えばよい。写真が好きで好きでたまらず、その分野において今まで誰もなし得なかった仕事をやりたいという願望だ。それが「命を賭ける」ことと言える。だが、たとえば本展に応募する人は誰しもそう思っているだろう。となると、問題は写真に対する熱意の差ということになる。それに応じて作品の質が変わり、他者を感動させる割合も変化する。そのことがたとえば本展の応募作において判断され、当落が決められる。したがって、こうした写真の公募展は絵画や書道のそれと同じく、上位の賞を取る人はそれだけ思いが熱く、また才能も溢れているとひとまずみなしよい。にもかかわらず、筆者が面白いとは思わなかったのは、大半は大多数の写真に芸術性を認めておらず、また写真の公募展は歴史が浅く、まだ取るに足らないと考えているからだ。それが偏見であることは承知しているが、実際に本展を見て、立ち止まって記憶に留めたいと思った写真はなかった。チケットやチラシに取り上げられたのは一般公募で最高賞を獲得した写真で、「竜宮の入り口」という題名がついている。この写真を撮るための苦労はさまざまにあったろうが、まず思ったのは、これと全く同じ場所か、あるいはきわめてよく似た場所に俳優が数人立って撮った写真だ。それを最近ネットで見たが、韓国ドラマの一場面であったかもしれない。また筆者もこの写真と同じ角度で橋脚の列を見ることがよくある。河川の上に高速道路が走る大阪市内にはそういう場所がいくつかある。つまり珍しくない光景だ。ただし、この写真のように橋桁の列だけをうまく捉えることは不可能だ。そのためこの写真に写る同じ橋を被写体にし、しかも時間帯などを見極める必要がある。そうした技術的な労苦はさておき、筆者がこの写真に感激しないのは、今までに見たことのないものという気がしないからだ。そうなれば本展に限らず、どんな写真を見ても同じだろう。確かにそうだが、違うものがある。それは先に書いたように本当に生きるか死ぬかの状態に身を置いて撮影したものだ。その生々しさの前にはどんな技術的労苦も霞む。そして、生々しさとなれば、死を感じさせることで、死の間際に撮った、あるいは撮られた写真はどれも感動を呼ぶかもしれない。
ブログ用に筆者は写真を撮る。それはたまたま近くあったカメラで、自分の意思でこだわって購入したものではない。それほどに道具はどうでもよく、とにかくブログ用に500×360ピクセルサイズの写真が得られればよい。だが、どうせ撮るからにはこだわりがある。もちろんそれはカメラを持つ人すべてがそうで、撮りたいもを撮りたい角度で撮って公表したい媒体に載せる。筆者はブログというささやかで個人的な場所に載せるだけであるから、本展に応募していつかプロになりたいと思っている人とは全然命の賭け具合が違う。それは認めるが、筆者が自分の写真に命を賭けていないかとなればそれは違う。こだわりがあるし、そのこだわりこそが命だ。そのため、「命を賭ける」という点では本展に応募する人とさほど変わりはないと考える。そういう眼差しで本展を見たかと言えば、半分はそうだと言える。筆者は写真を普段着で思いつくまま撮る。写真とはそのようなものだと思っている。何しろ毎日ブログは書くし、そのための写真は耐えず用意しておかねばならない。それらの写真は自分の心が動いた証だが、その動きを他者がどれほど同じように感じるかは知らない。そんなことは考えずに好きな写真を載せる。本展に出品する人はどうだろう。自己の心が動き、そしてそのことを他者と分かち合いたいと考えているのではないか。そのためにたとえば最優秀賞をもらう作品が毎回ある。それは作者の感動が他者に伝わるからこそだ。それがプロというものだ。筆者は自分の写真を他者に感動してもらえなくてもかまわないにもかかわらず、自分の心が動いた証としてとにかくブログに載せておきたいと思うから、簡単に言えばアマチュアの最たるものだ。そういう人間が本展のことを面白くないなどと言うと、真面目に真剣に写真を撮っている人から嘲笑されるが、それでも筆者は考えを曲げないだろう。それは写真ではなくほかの造形表現に命を賭けることを知っているからで、結局は写真はシャッターを押せば何か写ってしまうという便利だがそれだけに安易な表現手段で個性をかもし出すには絵画と比べるとはるかに劣ると思う。では絵画展が写真展より断然面白いかと言えばそうとも言い切れないところがある。絵画展でもきわめて退屈なものはある。そうなると優れた才能が何より大切ということになりそうだ。それは本展で言えばプロの写真だ。今チラシを見ながら、それなりに記憶に強く残っている作品があることを知る。それはプロのものではない。銀賞を取った「昆虫の日常と人間の日常」で4枚組だ。これは1枚の写真にクローズアップされた昆虫と、その背後に人間が写る。近景が昆虫で、そこに焦点が合っているが、人間の様子もよくわかる。それに双方をつなぎ、また取り巻く自然がよい。ブリューゲルの「イカロスの墜落」を思わせるところがあって、世界は人間が知らないところでそれなりに動いている存在があることを再確認させてくれる。
だが、このようによく覚えている写真は稀で、ほとんどは数秒見たかどうかだ。500点かもっと並ぶとなると、ベルトコンヴェアーのように見流して行くしかない。筆者のようにブロク用の小さな写真で充分と思っている向きにはなおさらだ。それにこうした団体展は大勢が個の存在を相殺し合うところがある。出品者各自の個展に行くと、もっとその個性が際立ち、同じ1点が他の作と共鳴し合って別の魅力が見えて来るだろう。そう思うので、団体公募展はどれも面白くない。作家たるべきもの、個展を開催すべきだ。それは公募展でトップになりたいとの思いとは違い、他者との優劣を判断されずに自分の世界を凝視してほしいという願いであって、命を賭けることの質が違う。後者は前者と違って他者の目をあまり意識せず、自己の目を見つめる行為だ。それは案外筆者がブログに写真を載せることに近い。写真は自己の目を通じてその眼前に広がるものを捉えるが、それは自己の内部を見つめることだ。自己の内部を見つめるならば、他者を見る必要はない。混合の度合いが強過ぎて何に焦点を合わせればよいかわからない公募展ではなおさら自己は見えにくい。あるいはそれは筆者がもはや齢を取り過ぎたためだろう。さて、ブログ用に撮りためている写真の中から今日は2,3載せておく。まず最初は桜の林で撮ったもの。温泉が計画されていない方の桜の林で、「駅前の変化」のカテゴリーによく載せる、ある角度の写真を撮る際に立つ草むらだ。先月、桜の老木の下にクローヴァーが繁茂していた。それをいつも踏んで写真を撮るが、踏むのが惜しい緑の絨毯で、そそくさと撮ってすぐにそこを去る。その緑の絨毯は今月に入って植生が変化し、また土の地肌が一部見えて来たがそうなると美しくない。筆者が撮ったのは、クローヴァー以外に何種あるのか、多くの小さな植物が密生している様子がごろりと横になると楽しい気にさせたからだ。その面積は畳数枚分もない。林の総面積からするとごくわずかだ。そのためによけいに美しく思える。何の変哲もない緑一色の世界で、写真にはならない被写体だろう。公募展に出すと真っ先に落選どころか、審査員に憤慨される。それはよくわかっているが、筆者には大切な記憶だ。だが、この写真は本当は実物と同じ大きさで見てほしい。500×360ピクセルでは細部がわからず、筆者の思いとは違う。2枚目の写真は昨日書いた嵐山小学校の講堂の中に迷い込んだ野鳥だ。写真左下隅の明るい部分が開かれた窓で、そこから侵入して来た。高価なカメラなら、もっとズームして鳥の種類の同定が可能なほどに捉えることが出来たが、筆者の目にはこのように小さく、またぼけて見えた。次の写真は岡崎に行く途中で見かけたもので、道に面した古い家に飾ってあった。猿が人に進化して行く様子を木材で表現し、ガラス窓の桟に張りつけてあった。最後は平凡過ぎるが、毎日がそうなので仕方がない。やや黒く見える雲は案の定発達して2時間後に雷雨をもたらした。