勅使河原宏の映画は『砂の女』を見ただけでほかにどういう作品があるのか知らなかったが、京都文化博物館で9月の7日まで無料で見られる映画のプログラムの中に今日取り上げる作品を見つけた。
昨日も書いたように、「モノノケのささやき-怪異と恐怖の映画特集」が開催中で、上映される8作のうち、『恋や恋なすな恋』と『おとし穴』の見ることにした。8作のすべてが「恐怖」に関係するとは限らないが、『おとし穴』は独特の恐怖があって、印象深かった。『恋や恋なすな恋』と同じ昭和37年の制作で、モノクロだがそれがまたよい。カラーで撮られていたならば恐怖は減少したかもしれない。九州の炭鉱を舞台としているので、その炭の黒色のイメージがモノクロ画面によく似合っている。また、画面中央に墨の円形染みがいきなり現われ、その周辺が紙の繊維によってじわじわと滲んで行きながら、つまり円形染みが画面いっぱいに拡大して行きながら、その染みの中に映像を映し込む技法があったが、勅使河原宏の前衛書道あってのそうしたアイデアは、斬新なものを生み出そうとする意識がよく伝わる。フィルム映像によってどういう見せ方が可能かという特撮は、無声映画時代にすでにあらゆることが試みられたから、もはや斬新さはないように思えるが、時代が変わって新たな才能が出現すればそれなりに目新しい画面が生まれる。ファスビンダーは『ヴェロニカ・フォスのあこがれ』の中で場面切り替えの際に、無声時代の映画でよく用いられた、画面が小さな円形に萎んで行く見せ方を採用した。それを専門用語でどう呼ぶのか知らないが、解説書には「アイリス」とあった。『ヴェロニカ・フォス』では「アイリス」だけではなく、「ワイパー」と呼ばれる、画面が斜めに順次消えて行く技法のほか、場面転換のたびに異なるそうしたさまざまな幾何学模様の切り替えを採用していた。「アイリス」ひとつに限ればよかったものを、多彩な形を採用することで無声映画時代とは違うことを示したかったのだろう。端的に言えばそれはマニエリスムだ。そこにはわざとらしさがある。その不自然さを楽しむのが芸術であると言ってもよいが、映画はその出発からしてマニエリスムに馴染む表現であった。それはともかく、ヨーロッパで生まれた映画が日本でどれほど新たな表現が可能になったかを考えると、前述した墨が滲み広がって行く内部に映像を捉える技法は、「アイリス」や「ワイパー」に属するアイデアとみなされがちだが、真っ白な画面に墨の拡散と同じ形と速度で映像が広がって行く様子は、おそらく欧米では誰も考えつかなかったもので、書道や水墨画とモノクロ映画のつながりを伝える点で大いに日本的独創として誇っていいものだろう。そうした技法は直接的には映画の物語とは関係のないと言う人もあろう。だが、それは間違いで、映像のすべてに監督の意図があることは、『ヴェロニカ・フォス』における「アイリス」と同じだ。むしろそうし細部に作品の本質が現われる。
さて正直に言うと、当日は急な豪雨に遭いながら、市内をさんざん歩いた後、ホールに着いた。そして疲れから映画が始まる30分を座席で眠り続けた。映画が始まってからも眠気が去らず、最初の15分ほどは半分は眠っていた。目覚めてからしっかりと見始めたが、それ以前の眠りながらも画面を追っていた部分がどうにも意味不明で、この映画の不気味さがなお増した。完全に目覚めてから見始めたのは、貧しい身なりの坑夫が泥沼と化した地面からむっくり起き上がる場面だ。それは立った状態から地面に倒れ込んだ様子を撮影したフィルムの逆回転だ。それは誰でもすぐにわかるし、目新しい手法ではないが、音がなく、速度を倍ほどに引き伸ばしてむっくり起き上がる様子は、即座にそれが死体の魂が蘇ったことであることがわかって気味が悪かった。眠気はいっぺんに吹き飛び、その気味悪さがその後ずっとこの映画を支配することを見届けた。映画が終わりに近づいた時以降終わってからも、坑夫が殺される前はどうであったかが気になり、眠気を振り払って見ればよかったと悔いたが、左隣り座っていた20代前半のカップルが「意味がよくわからん映画やねー」などと言葉を発したので、最初からしっかり見ても奇妙さは同じであったのだろう。ともかく、眠気半分で見た場面の記憶が途切れ途切れになっているは、坑夫が生きていた間は筆者の意識が半分なく、坑夫が殺されて以降、つまり死後の世界は意識が覚醒していたことであって、そのことにぞっとした。つまり、筆者はかえってこの作品を理想的な形で見たのかもしれない。半ば眠りながら見た最初の方は、井川比佐志演ずる坑夫が小学2,3年生くらいの男子と一緒に旅をする場面から始まる。夜逃げと言った方がいい。誰かに追われているような恐怖心を抱きながらの逃走で、線路の上を歩いたり、各地を転々とする。生活が苦しいことは明らかだが、やがてどこかの小さな炭坑に仕事を見つけて、泥にまみれながら穴に潜って泥を掻き出す場面がある。小さな現場を転々としながら収入を得ていたのだろう。北九州の炭田の当時の様子は、この映画を見る限り、不況にあえいでいたことがわかる。日本はその後石油エネルギーに頼り、原油価格の高騰から原子力に舵を切った。その挙句の昨年の福島原発事故だ。それを背景にまた新たな映画が撮られるべきだが、その才能はあるだろうか。この映画の原作はノーベル賞をもらってもよかったほどの安部公房が書いた。それは最初にTVドラマ「煉獄」に用いられたが、同名の小説があるのかどうか知らない。あるいは戯曲かもしれない。文化博物館で配布される資料によれば、勅使河原宏は父のアシスタントとして渡米した後、「煉獄」を見て映画化を思い立ったとある。それは前衛と前衛との出会いだが、勅使河原宏が「煉獄」に関心を抱いた部分はどこだろう。この映画は労働争議を苦々しく思う会社幹部が新旧の組合を憎しみ合うように仕向け、殺し合いの果ての双方が犠牲になることを描いていて、社会の暗部をえぐり出すものとなっている。当時はこうした社会派の色合いを帯びた作品は少なくなかったと思うが、安部が一時染まった共産主義に前衛活花の家元二代目の勅使河原宏も同調したかと言えば、さてどうなのだろう。この映画は社会批判よりも美意識の方が目立っている。また、音楽は武満徹が監督となって、ジョン・ケージが発明したプリペイド・ピアノによる演奏を用いたが、そのこもったような、またさまざまな打楽器の集合体であるような奇妙な音色は、不気味な映像によく似合っていた。
話を戻す。半ば眠りながら見た部分はネットで調べるとおおよその展開がわかる。泥まみれになりながら掘っていた穴は、人のよい百姓をだましてのことで、そうして食事にありついていた。掘っても出て来るのは泥で、とても炭坑に見えない。筆者は記憶にないが、井川は息子のほかにもうひとりの同世代の男と一緒にそこを逃げ出し、まともに働くには組合のある職場がいいと考え、バスに乗って港湾作業員になる。そこからまた炭坑に向かうが、閉山して人の住まない小さな長屋が整然と建ち並ぶ村に着く。その外れに掘っ建て小屋並みの駄菓子屋が一軒営業中で、そこに女がひとり暮らしている。井川がその村を歩いていると、背後に迫った男にいきなり刺され、泥の中で死に絶える。その様子を息子と、そして駄菓子屋の女が見ていた。このあたりから筆者は睡魔から脱した。殺人者は田中邦衛が演じるが正体が明かされず、無表情のまま最後までセリフを発しないので、なおさら不気味だ。田中は井川の息子の存在には気づかないが、女が見ていたことを知って札束をわたして口止めをする。思わぬ大金が転がり込んだので女は早速家を出ようと決心するが、警官がやって来て、体を求められ、それに応じてしまう。一方井川は死体から霊となってさまようが、村には人がいないはずが、たくさんの人が家と家の間の地道に散らばっていて無言でさまざまな作業をしている様子が見える。彼らもまた亡霊だ。井川は自分が殺された事情を知ろうとするが、自分の姿は生きている者には見えず、また声も聞こえない。生きている息子とも意志を通わせることが出来ないが、息子は空腹を抱え、駄菓子屋の商品をポケットいっぱいに詰め込むことに余念がなく、また草むらの陰からその後の出来事を目撃する。井川は息子に危険が及ぶことを心配せず、また息子も父の死体をまじまじと見るだけで悲しまない。このドライさがまた不気味だが、この映画は親子の情愛を描くものではなく、総じて殺伐とした人間関係を描いている。村の警官が駄菓子屋の女を犯す場面もそうであるし、駄菓子屋の女は得た大金を束の間にまた田中に奪い返され、しかも殺されてしまう場面もそうだ。動き回る井川はやがて自分と同じ顔をした組合員に遭遇する。井川の息子は彼を見て逃げ出すが、それは死んだはずの父が生き返ったと思って驚いたからだ。炭坑では組合が分裂し、対立しているために、容易に相手の組合を信用していないが、記者の不審な動きから何らかの策略を感じた井川そっくりな組合員は対立する組合員に電話をして話し合おうと提案する。というのは、井川を殺した犯人は駄菓子屋の女の偽証によって、耳元に禿げのある男という情報が記者がつかんでいることを知ったからだ。そうして秘かにふたりの組合員は村の外れで落ち合うが、もともと信頼関係がないこともあって、ふたりはとうとう喧嘩を始める。それは誰しも気づくように、井川が殺されたのと同じ場所だ。井川を刺し殺した刃物が落ちていて、それを拾って刺した組合員は結局その刃物で刺し返されて死ぬ。つまり、井川は同じ形で二度死ぬ。またこれは筆者が眠っていたのでわからないが、喧嘩から殺し合いになった相手の組合員は、映画の最初で一緒に逃げ回った男と同じ顔をしているのだろうか。
『おとし穴』という題名は人が人を陥れる「罠」の意味に捉えてよいが、「穴」の言葉は、この映画の舞台となった炭鉱における無数に穿たれるトンネルのイメージとつながる。「煉獄」よりもわかりやすい題名でよい。勅使河原宏の長編映画としては最初の作で、またATG初の作品でもあって、監督の意気込みが俳優たちが共有し、また作品の意図をよく理解した演技をした。個性派が登場し、井川のほかは田中邦衛、佐藤慶、また女性としては駄菓子屋の店主を演じる佐々木すみ江が迫力を見せた。井川の汚れ役、食いはぐれた肉体労働者としての演技は、半裸体で見せる筋肉のつき具合からしてなかなか適役であった。自分の言うことに誰も耳を貸さないもどかしさ、その頼りない表情は哀れさを催すよりもどこか滑稽で、恐怖の裏に間抜けた愚かさが張りついている。それは人間の死そのものであるかもしれない。「死は悲しみ」と言うが、葬式では笑顔を見せる人も多い。そのように死者はすぐに忘れ去られる。井川を見ているとそうだ。彼は自分の子どもからも悲しまれない。生前よりも惨めな姿でおろおろと放浪するばかりだ。それは殺された駄菓子屋の女も同じで、自分を殺した謎の男が乗るスクーターを、下着姿のまま草原の中をどこまでも声を張り上げながら追って行く場面がある。そのおかしくも悲しい姿に誰も気づかない。虫けらのように死んで行く貧しい者には死後の平安もない。生きている時と同じ境遇のままであり、さらに悪いことには自分の言うことは誰にも聞こえない。この映画は夏場の事件を扱っている。それは井川の泥まみれや佐々木の下着姿での汗だくになりながらのセックス・シーン、あるいは記者である佐藤慶のサングラスや涼しげな半袖のシャツ、また謎の男で権力者の回し者らしき田中邦衛の夏向きの汚れのないスーツなどに、よく表現されていた。まさか夏場であるので恐怖映画はもって来いと考えられたのもないだろうが、井川ともうひとり死ぬ人物はともに坑夫で、穴に潜って汚れ仕事をする点で共通し、一方ではこのふたりに代表される貧しい存在の上に君臨する権力者が汚れひとつない身なりをし、汚れ仕事をする者を罠にはめる。お化けの出る恐怖映画よりも恐ろしい現実をにおわせている点で、衣服の汚れが目立つ夏場はより効果的であった。最後の場面は無人の村の家並みを全速力で走る井川の息子を、50メートルか100メートルほど先に捉えながら同じ速度で移動撮影したものだ。長屋の棟と棟の間の道路が見えた時に限り、遠くに走る子どもの姿が見え、これはカメラの移動速度を何度も調整して成功した映像だろう。脱兎のごとく逃げ出した息子は、長屋の家並みを過ぎて村を後にする。豆粒のように小さくなった行くその姿を遠くから映して映画は終わる。猫だけが事件の一部始終を見ていたという物語があったように思うが、この映画では子どもがすべてを目撃し、忌々しい現場から去る。その果てに子どの未来がどう開けているか。わずかに救いがあるかのような気にさせるが、現実を思えば暗澹たる境遇しかない。だが、そこまでをこの映画が暗示しているのではない。昭和はよかったという声があるが、こういう映画が撮られたところ、社会の暗部が絶大であったようであるし、むしろそういうことを今は告発する作品も減り、人々はおとし穴をそうとは感じなくなってしまったのかもしれない。昔より現在の方が恐ろしいと言うべきか。