豊かで万人受けする内容を求めるのであれば共同制作した方がよい。特に映画はそうだろう。その中でも娯楽を旨とする映画はたくさんの人に見てもらうため、より客観的に製作する必要がある。
ビートルズが有名になった理由は、よく言われるようにジョン・レノンとポール・マッカートニーという対照的な性質のふたりが共同で作詞作曲したことが大きい。これが歌詞をすべてレノン、作曲がポールであったならば、世界的なバンドにはならなかったであろう。またこのふたりに加えて単独で作詞作曲したジョージ・ハリソンがいたことも、ビートルズの豊かさを増した。先日書いたフランス映画『北ホテル』の感想に、同作品の脚本がふたりの共同執筆であることについて触れた。それが珍しいのかと思っていたが、そうではないことが今日取り上げるアメリカ映画でわかった。ビリー・ワイルダー監督の作品で、脚本は彼とチャールズ・ブラケットが書いた。この作品を最後にふたりは仲違いし、以後しばらくワイルダーはひとりで脚本を書くが、その後またパートナーを見つける。ブラケットとワイルダーは大声を張り上げて取っ組み合いの喧嘩をしたそうだ。それはよりよい作品を生むための火花を散らし合いで、ビートルズ時代のジョンとポールを思えばよい。それほどに映画に命を賭けたワイルダーの考えが見事に表現されたこのが、この『サンセット大通り』だ。実はこの映画について、これも先日感想を書いたファスビンダーの『ヴェロニカ・フォスのあこがれ』のDVDの解説に少し触れてあった。それは『ヴェロニカ・フォス』と『サンセット大通り』の共通点と差異だ。先日右京図書館に『ヴェロニカ・フォス』を返却し、棚にたまたま『サンセット大通り』を見つけて借りた。昨日見て、筆者なりに比較したいことを思った。その前に話が少し変わるが、さきほどNHKで、確か去年も見た第2次世界大戦の記録映像のカラー版を見た。モノクロ・フィルムに色づけを行なった映像で、番組の最後でフランスとNHKが共同でその作業に当たったことがわかった。そう言えば去年、映像を撮影した当時の雑誌その他の資料をもとに建物や衣服などの色を調べ、最も妥当と思われる色を適用してカラー版を作って行く作業の様子を捉えたドキュメンタリーがあった。別のフィルムだったかもしれないが、そうして色づけのノウハウを確立し、歴史的な白黒フィルムから順次カラー版を作っているのだろう。極彩色と呼ぶには遠い控えめな色合いで、明らかに白黒に薄く色づけた感じだが、そのそこはかとない味わいが戦前戦中の古さを思わせてよい。それはさておき、その記録映像で最も生々しいのはヒトラーの姿や虐殺されたユダヤ人だ。編集したのはBBCだろうか。それともヨーロッパ諸国が共同したのか。もしそうだとすると、歴史認識がヨーロッパではどの国もいちおうは一致していて、戦前戦中のことはもう清算済みと言える。また、この記録映像は主に連合軍が欧州に上陸し、戦争が終結するまでのことに焦点を合わせ、日本への原爆投下とその被害の様子以外は日本軍のアジアへの侵出は描かれない。これはナチのユダヤ虐殺に比べて日本の動きはあまりひどくもなかったと連合軍から好意的に見られたためか。それともこの記録映像の編集にNHKが参画し、微妙に国の立場を主張したからか。
毎年8月になるとTVで戦争特集が組まれる。それはたとえば中国や韓国では日本とは違う考えのもとに製作され、ヨーロッパとは違った戦後の歴史認識の差によるトラブルの火種があるように思う。何が言いたいかと言えば、先ほどのNHKの特集番組のアジア版を、アジア全体で作り、共通した歴史認識を持つことの必要性だ。戦争はとっくに終わり、賠償もすべて問題なく決着しているかと言えば、未だに日本兵の遺骨は東南アジアに散らばっているし、戦争の清算は終わっていない。これがもう20年もすれば戦争に行った人はみな死に、戦争の記憶は風化が著しくなる。そして戦争で何も学ばなかったという事態も起こり得る。さて、今日はそんなことを書きたいのでない。まず、『ヴェロニカ・フォス』でおやっと思ったことだ。ヴェロニカはある精神科の女医によってモルヒネ漬けにされるが、同じように中毒にされる老夫婦が出て来る。その夫が腕をまくって番号の入れ墨を見せる場面がある。ナチによるホロコーストから逃れたはいいが、その辛い記憶から逃れるために麻薬中毒になったという設定だ。この老夫婦を登場させなくても映画は充分に筋が通ったと思うが、なぜファスビンダーはユダヤ人の話を含めたのだろう。また、そう思って見ると、女医の名前がマリアンヌ・カッツで、これも典型的なユダヤ人の名前であることに気づく。ユダヤの医師がホロコーストの生き残りから搾取していたという話には、悪意が感じられる。ファスビンダーは一時ユダヤ人を悪く描いていると抗議された。その映画を見ていないので何とも言えないが、ユダヤ人を意識していたことは確実だ。どのように、またどの程度であったかはわからないが、重くのしかかる問題であったはずで、また無視することは出来ないし、扱うにしてもどうすべきかという微妙な葛藤があったように思う。これがもう少し後の世代ではかなり違ったか。あるいはネオ・ナチの登場を思えば、ユダヤ人に対する複雑な感情はファスビンダーの時代から今に至るまでドイツの若者の間では変化がさほどないか。それはともかく、ファスビンダーがナチのユダヤ人に対する行為を素直に認めて、贖罪の意図から映画を撮らなかったのは、ヒトラー譲りの混じり気のないドイツという国の優位性を誇りたかったことよりも、そういう映画を撮ると嘘っぽくなる、すなわち面白くないことを思ったからであろう。また、そういう映画はユダヤ系の監督が撮るべきで実際そうなっているし、そういう監督の前にあって最初からどこか負けてしまっている立場をファスビンダーは感じていたのではないだろうか。父た兄世代がユダヤ人に対して悪いことをしたという拭いようのない罪の意識だ。かといってユダヤ人に全面的に優しい思いを抱いたかと言えば全くその反対に、かえって悪意を漏らす。そう考えると、ファスビンダーが早々と世を去ったのがわかるような気がする。だがそれは敗北ではない。どういう立場にあってもそれに全身を投ずることこそが成功であり、彼は紛れなくそのひとりとなった。
とはいえ、ファスビンダーの世代の映画が、戦前を知る監督よりも圧倒的に困難であったことが想像出来る。そのことは別の形で『サンセット大通り』に出て来る。この映画をファスビンダーが見て衝撃を受け、長らく心の底に沈殿させた思いを、どうにか新しい素材との遭遇で新たな作品を生んだのが『ヴェロニカ・フォス』だ。だが、面白さの点では『サンセット大通り』が数倍優れている。規模が豪華で愉快さがあり、怪奇もふんだんでエロティシズムやロマンスも忘れず、推理ドラマとしても格別、とにかく映画のあらゆる面白さがすべて詰まっている。DVDには特典映像が収められる。異例なことに、映画の全編をもう一度そのまま映し出しながら、アメリカ人の評論家が場面ごとに解説を述べる。大部分は映画を見ながら誰でも感じることだが、裏話的な部分はこの映画のすごさを知るためには欠かせない。あまりにその内容は多岐にわたるが、ひとつふたつ書いておく。まず、映画の冒頭は完成当時の1949年の試写会では違った。それは最初にまず種あかしをしておくという手法で、死体が死体置き場で会話する場面であった。死体が話し合うのはセンスの悪い漫画を思わせ、会場では失笑が大きかった。そのことに自信家のワイルダーはひどく落ち込み、冒頭の部分を撮り直した。その結果サスペンスの要素が一気に増し、ほとんど映画の最後まで観客は真実がわからないままとなって、格段に面白くなった。天才的な仕事をそれまでして来たワイルダーにしてこれだ。脚本を共同で書くことは、作品を客観的に冷静に見つめて、より多くの人に感動してもらうためだ。そのようにして『サンセット大通り』を書き、そして撮ったのに、それでも完璧ではなかった。筆者が『ヴェロニカ・フォス』に辛口の点数をつけるのもそこだ。作品を何度も磨き上げることをファスビンダーは知っていた。であるからこそ、『ヴェロニカ・フォス』は最後の場面は大きくカットされた。それは成功しているが、まだ推敲が足りなかった、あるいは脚本に問題があったのではないか。『サンセット大通り』と『ヴェロニカ・フォス』は往年の女優を主人公とし、彼女が新たな作品に出演したがる点で共通する。映画の中に映画を撮る監督が登場するのも同じだ。違うのは、麻薬中毒の点だ。だが、この映画業界の暗黒部分の暴露は、同じくハリウッドの映画界の内幕を晒したと一部非難を浴びた『サンセット大通り』に学んだものと言ってよい。となれば、ファスビンダーはハリウッド映画、ワイルダーの作品の前に屈服し尽くしたのであろうか。
ワイルダーはユダヤ系で、1906年生まれ、2002年に亡くなった。ファスビンダーの生涯はすっぽりその間に収まる。ワイルダーは脚本家として出発し、やがて監督も手がけ、ベルリンのUFA社では成功を収めながらナチの台頭を機にアメリカにわたった。ごく簡単なこの紹介だけでも桁違いの苦労人でまた仕事人であったことが想像出来る。ワイルダーは競争が熾烈なハリウッドを好んだ。そこで腕に磨きをかけ、大ヒット作をたくさん放ったから、その才能と作品は戦後世代のファスビンダーには足元にも及ばないものであったと言ってよい。そうそう、前段で書くつもりであったことは、『サンセット大通り』の主人公は無声映画で名を馳せた実際の女優が演じているが、彼女は最近の映画は昔に比べて小粒になったと言う。それはワイルダーの思いでもあったろう。「若い俳優を次々に使い捨てにして行く」というセリフもある。これは60年経った今ではもっと加速化している。つまり、今の映画はさらに小粒になり、もはや名画などと呼べるものが存在し得なくなった。ワイルダーがそれをどう意見するかは知らないが、『サンセット大通り』を見る限り、映画は無声時代が天で、それ以降は凋落の一途であったと言いたいかのようだ。またそのことをファスビンダーがどう考えたかと思う。おそらく彼も同じ意見で、映画の今後にあまり希望を抱いていなかったのではないか。それは彼の全作品を見てから判断すべきことで、ここではこれ以上は書かない方がよい。ワイルダーは『ヴェロニカ・フォス』を見ることが出来た。見たとしてそれを『サンセット大通り』の亜流と考えたか。また、戦後のドイツの若い才能が、ユダヤ問題をどう思っているのか、微妙なその点を吟味したかもしれないし、吟味したとして、同情したか。ファスビンダーはワイルダーとは違った意味での大きな困難に対峙しながら映画を撮った。ユそれはダヤ人に負い目があることや、マーケットの規模の差、また大方の脚本内容はもう書かれてしまっているという絶望感のようなものだ。だが、若い世代は新しい時代に沿った新しい内容の作品を生むことが出来るし、それがいかに小粒であってもそれはそれで作品への愛を示し、創作であることには変わりがない。その意味で『ヴェロニカ・フォス』は『サンセット大通り』にはない価値を持つ。
『サンセット大通り』は無声映画へのオマージュと言ってよい。おおげさな身振りやセリフは、舞台劇めく。それは主人公の女優ノーマが自分を主役にした脚本を書いていて、それがサロメを題材にしていることに適合している。そしてこの映画は、自分になびかないヨハネの首をはね、それに接吻するサロメの物語そのままに、若い男をはべらせながら、最後には彼を撃ち殺すことで、古典を下敷きにした安定感のある筋運びとなっている。そのことは、特典映像は全体を3部に分けて解説していることにも表われている。また舞台劇、無声映画、そしてその後にトーキーの本作が位置している「伝統的つながり」を、監督も俳優もしっかりと把握している強固さといったようなものが伝わる。そういう歴史はヨーロッパが培った。となればそこに残って映画を撮ったファスビンダーは、ワイルダー以上に映画の歴史を意識した斬新でしかも古典的な作品を撮ってしかるべきであった。にもかかわらず、それがナチによって無残な形になったという忸怩たる思いがあったのではないか。話を戻して、『サンセット大通り』のもうひとりの主役である若い男ジョーは、多分にワイルダーの自画像的なところがある。彼はベルリン時代、食うに困ってジゴロのような生活をしたことがあった。それはこの映画に活かされている。ジョーは売れない脚本家で、借金のために車が差し押さえられそうになる。取り立て屋とのカー・チェイスの挙句、ハリウッドのサンセット大通りの外れにある大きな幽霊屋敷の敷地内の駐車場に車を停める。そこは映画界から離れて20年になる50歳のノーマが、かつて夫で映画監督でもあった老人マックスを執事としてひっそりと暮らしている。屋敷は石油王のポール・ゲティの最初の奥さんのかつての所有で、彼女は映画通でもあった。ノーマは絶えず自分をかつての同朋であった監督に起用してほしいと打診しているが、もはや忘れ去られた存在だ。それは「サンセット(日没)」という映画の題名にも暗示されている。このように、この映画は現実と事実を符合させいる箇所がたくさんあって、ノーマ演じるグロリア・スワンソンは、マックス演じるエリッヒ・フォン・シュトロハイムがかつて監督をしていた頃に出演していた。また、その頃にシュトロハイムが撮った無声映画のノーマが出る場面を、屋敷内のスクリーンにマックスが映写する場面があるなど、裏事情を知ってもう一度見るとなお面白い。ワイルダーはシュトロハイムを尊敬したそうで、かつて映画監督であったシュトロハイムがB級映画の俳優になり下がるなどの様子を見て来たワイルダーは、彼の監督としての雄姿をせめて自作の中にとどめたく思ったのであろう。この映画の最後は、警官たちに取り囲まれたスワンソンが、サロメを狂気の表情で演じながら階段を下り、またその様子をニュース映画記者たちのカメラを指揮して撮影させるシュトロハイムの姿だ。特にシュトロハイムは顔つきががらりと変わって監督らしくなることに驚く。それは演技の卓抜さだが、それとは別に、ごくわずかな小さな場面であっても、自分が指揮して映像を撮影する、しかもかつて自分が盛んに撮った女優であるという思いがみなぎっている。それは時代遅れになって世間からは忘れ去られた者たちの悲しい物語ではあるが、そういう存在に今一度光を当てたワイルダーは、限りなく過去の作品や俳優、監督に敬意を表していた。それをファスビンダーは痛いほど感じたに違いない。そして彼の思いはそのまま『ヴェロニカ・フォス』に写し取られた。そこには、ユダヤ系の監督への思いを越えて、戦前のドイツ映画の栄光を誇りたい思いがある。その点はワイルダーも同じであったろう。