傾かないように底が平らになるビニール袋がある。スーパーではたまにそうなっているものがある。発泡スチロールのトレイ入りの寿司や刺身を買った時にはそういう袋に入れてくれる。
それでも注意して持ち帰らねばトレイの端に刺身がにぎにぎしく雪崩を起こしていたりして、無残な思いで食べることになる。阪急の十三駅を下車するとすぐに喜八洲という和菓子屋がある。ここでぼた餅を買うようになったのは、乗り放題切符が売り出された頃の30年ほど前だ。乗り放題切符はその前からあったかもしれないが、筆者にはほかに何も用もない十三で途中下車しなければ買えないので、記憶の中では乗り放題切符と結びついている。大きくて風格のある古い店で、何となく江戸や明治時代の雰囲気がよい。それよりもいいのは、おいしくて安いことだ。さすが大阪なのだ。京都ではつんと澄まして量は半分か3分の1で、価格は倍だ。京都商法はとにかくごくわずかな量を限りなく高く売ることにある。それが上品と考えているのだ。大阪ではそれは通用しない。量が多くて安く、しかも他にはないおいしさでなければならない。駄菓子的なその雰囲気を京都は軽蔑するが、大阪はそんなことは気にしていない。喜八洲では10種類ほどを販売しているだろうか。筆者が買うのは決まってぼた餅だ。昔はもっと大きかったが、時代の推移とともに値はそのままに小さくするか、形はそのままで値上げするしかない。そのどちらも喜八洲は行なって来たはずだが、今は1個180円だ。これを2個食べると満腹になる。このぼた餅の3個入りを10、11、12日の3日間、買って帰った。この3日間、池田文庫という図書館に朝から閉館まで詰めて資料調べをしたことは先日書いた。寄り道をせず、自宅から図書館にまっすぐに行き、まっすぐに帰った。これを3日間やると、それなりに習慣づいて4日目も行きたくなったから不思議だ。サラリーマンはそのようにして長年勤務する。それはしんどいことだが、それなりの楽しみでもある。人間は習慣が好きなのだ。それをしている間はほかのことを考えずに済む。だが、実際は何事も3日で充分だ。3日間の池田通いは、3週間ほど前にメールで何度かやり取りし、ようやくこちらの目途がついた。当初2日で終えるつもりでいたが、余裕を持った3日がよかった。この3日で多くのことを考えた。おおげさかもしれないが、筆者にとっては夏休みの小旅行をした気分であった。日帰り出来る場所であるから、手間も費用もほとんどかからず目的を遂げられた。これが宿泊せねばならない遠方であれば、実際にもっと濃厚な旅行気分を味わうことになった。それはともかく、調べものの時間に限りがあるのに資料は多いから、3日ともトイレに立ったのは1回だけ、途中で水も飲まず、休憩も取らなかった。朝はトースト1枚であるからさすがに空腹になって午後3時頃には眩暈がしたが、それを越すと空腹感が消えて快適になって来る。これでは絶食も出来るかと思えた。5時少し前に作業を終え、駅に向かいながら、どこかで食べて帰ろうかという気も起らなかった。どうせ1時間20分ほどで自宅に着く。
ぼた餅の話に戻る。喜八洲の出店が宝塚方面のホーム半ばにある。宝塚線には1年に1回も乗らない。そのため、この出店で買うより改札を出た本店で買う方が圧倒的に多い。池田に行くには十三で乗り換えて宝塚線に乗る。乗り放題切符を買わなかったので、このホーム上の出店はぼた餅を買うにはありがたい。最初の池田行きの日、ちょうど出店の前あたりまで電車を待った。店には3人ほどの客が列を作っていた。ぼた餅を見ると3個入り480円だ。家内とふたりだけなのでそれでよい。2個入りもあるがこれではさびしい。朝買って図書館のロッカーに入れたままにしておくよりも、帰りがけに買った方が出来立ての品であろうし、荷が重くなくて済む。そのように考えて調べものをし、帰りに買い求めた。池田からの十三へ向かうと、電車は宝塚行きのホームには止まらず、便利なことに降りたホームのすぐ目の前が京都行きホームになっている。しかもすぐに特急が来るダイヤで、ほとんど待たずにそれに乗れる。だが、ぼた餅を買って帰らねばならない。それで半ばしぶしぶ、ホームの端の階段を下り、地下通路を歩いて朝と同じ宝塚行きのホームに上がる。そして売店まで歩くと、必ず3人ほどの客がいる。店員の手際がよいのですぐに順番が回って来るが、たまに数千円分も買う人があって、その間に京都行きホームには特急は準急が入っては去って行く。それはどうでもいい。今日筆者が書きたいのは、売り子の様子だ。20代半ばだろうか。背の高い、色白のちょっとした美人で、愛想もよい。彼女はたったひとりで狭い箱の中に入り、筆者が知る限り、朝9時から夕方6時までそこでひとりで切り盛りしている。10、11、12日の3日とも、筆者はほぼ同じ夕刻に3個入りぼた餅を彼女から買った。500円玉をわたすと、傾かないように底が平らになるビニール袋に、細長い箱をひとつ素早く収めたかと思うと、両手でしかも笑顔で20円の釣りをくれる。それは彼女の注文さばきと同様、誰にもする機械的な動作だろう。それでもその雰囲気がよい。本店の方も彼女のそういう応対を知って店を任せているのではないか。筆者が感心したのは、彼女の手際よさと雰囲気のよさではあるが、それよりも、筆者のわずか3日の池田通いとは違って、来る日も来る日も確実におそらく8時間はそこで立ったまま10種ほどの商品を売っていることに感じ入った。筆者の前の客は、おはぎが売り切れというのでみたらし団子を買った。売り子はすかさず串に刺した真っ白な団子を右手の大きくて四角い電熱器に並べた。その両面をこんがりと焼き、たれに浸し、箱に入れて蓋をし、シールを貼って紐で括る。もちろんクーラーはなく、代わりに赤々と燃える電熱器が真横にあるので、彼女の額からは粒の汗だ。それが美しい。そんなものを見たのは久しぶりだ。感動した。みたらし団子の注文はいつあるかわからないので、常に電熱器は熱を放っている。他の注文をさばきながら、団子を焦がし過ぎてはならず、代金を計算し、絶えることのない客を相手にして行く。客はほとんどが電車に乗るので、商品を手わたすのは1秒を争う。そのことを彼女はよく心得ており、少しの無駄もない動きをする。それは茶道と同じだ。あるいは冷めた目で見れば機械だ。だが、機械から注文品が出て来るならば、筆者はわざわざあちこちのプラットホームを行き来しながら買いはしない。彼女の笑顔が見たく、またその手際を目の当たりにしたいのだ。
彼女の立ちっ放しの作業は、仕事であるから当然と言える。仕事とはそういうことだ。この何でもない当然のことが、筆者には応えた。筆者は池田の図書館に通って同じほどの時間を調べものに没頭したが、それはわずか3日だ。彼女はその何百倍もの日数を同じ場所で同じ作業に捧げる。筆者の生活がいかに気楽であるかを思った。いや、それもまた昔から自覚しているが、改めて彼女の姿から自分を思った。筆者はこの7,8年、本の執筆のために他の仕事をほとんどしていない。それはそれで大変なことかもしれない。何しろ収入がないのに莫大な経費がかかる。親からの財産があるわけでなく、宝くじを買うわけでもない。いったいどのようにして食べて来ているのか自分でもさっぱりわからない、あるいはそのことを真剣に考えようとしない極楽気楽トンボだ。それを家内に言うと、「わたくしが毎日いやでも働いている」と言う。それは十三駅プラットホーム上の喜八洲店の売り子と同じなのだ。仕事とはそういうことなのだ。つまり、筆者は仕事をしていない。何年も費やしながら本が出版されないのは、傍から見ると遊んでいるとしか思えないし、実際そのとおりだ。しかもその遊びは家内がまともに仕事していることで支えられている。家内はよく筆者に冗談で「アルバイトでもしに行ったら」と言う。だが、60になればそれも難しい。それに筆者にはそんな気は毛頭ない。ここまで遊んで生きて来られたからにはこのまま行くしかない。そう思いながらも、それなりに新たにやりたいことはいくつもある。しかもそのどれもが収入には結びつかないどころか、逆に大金が必要だ。にもかかわらず、本当にそれを実行するつもりでいる。そういう筆者を見ながら、家内のことがかわいそうだと今までよく言われたことがある。以前にも書いたが、そのことを家内に言うと悲しい顔をした。いやならとっくに逃げ出しているし、家内にしてもここまで来たからには筆者に好きなだけ好きなようにしろという気持ちだ。それは夫婦として一緒に暮らす者の役目であると考えているのだろう。となれば、筆者は喜八洲店の売り子を見て感心している場合ではなく、家内に感謝すべきだ。そのことを、若くて健気な様子の売り子を見て気づくところがいかにも筆者らしい。もちろん真っ先に彼女のことは家内に言ったが、ぼた餅をふたりで分けて食べながら筆者の思いはふたたび終日狭い中で動き続けている彼女に飛んだ。そしてこんなことを思った。彼女は数年かもっとしてそこを去る。そして家庭に収まって子を作り、おばあさんになって十三駅プラットホームの喜八洲を見つめる時が来る。一方、筆者がこんなところで彼女のことを思いながら書いていることを夢にも思わない。汗して働く彼女に、そして懸命に仕事をしている人すべてに、にぎにぎしくぼた餅が並んだような豪華な幸福が来ますように。