敗戦を迎えた8月にこのような映画、しかも名作を見るのはいいことだ。5月に右京図書館から借りたロベルト・ロッセリーニ監督の『無防備都市』のDVDを見た感想を書いた。
先日同じ棚に今日取り上げる作品『戦火のかなた』を見つけた。DVDの棚に洋画がごくわずかだ。人気作品は貸し出し中と見えて、そのような状態にあるのだろう。ファスビンダーのまだ見ていないDVDは2点とも貸出中で、1点は予約者がひとりいた。もう1点は予約者なしだが、返却は10日ほど先のことだ。ところが山科の醍醐図書館にも同じDVDがあって、それは誰も借りていないのでそっちを右京図書館に持って来ると係員が言った。2枚借りるのに図書館に2度往復するのは手間なので、醍醐から取り寄せずに、右京の貸出中の2点が揃ってからでよいと言うと、係員はきょとんとしながらこう言った。「それは出来ないんです。貸出の予約をすると、その時点で市内の全図書館に在庫を確認し、どこからでもすぐに取り寄せることになっています。」 毎日市内各地の図書館を数台の車がそうしたサービスのために走り回っていて、その係員の仕事をなるべく多く作るためにそのようなことをしているのだろう。幸いと言うか生憎と言うべきか、筆者が予約した時点では、醍醐にあるファスビンダーのたった1枚のDVDは借り手なしの状態で、それが即座に図書移動担当員の手にわたり、次の右京図書館への便に加えられた。帰宅して2日後に図書館からメールがあった。その日を含めて6日以内に取りに来いと言う。ところが1回に借りられるのはCDを含めて2点で、CDはまだまともに聴いておらず、DVDを見ようと決めた。それが『戦火のかなた』だ。これを返却すればもう1点借りられる資格が出来る。それはともかく、今日は半ば無理して『戦火のかなた』を見た。2時間少々あるので見ようと決心するのに覚悟が必要だ。ところがオムニバス形式で、6話が収録されている。1話当たり35分程度は、冗漫さが極力削られもしてちょうどよい。どの話も最初に戦争当時のニュース映像を使用しているのだろう。この映画は1946年の製作で、描かれているのは戦争が終わる数か月前の1944年だ。原題の「PAISA’」はイタリア系アメリカ人が同胞のイタリア人を呼びかける際の言葉という。俳優を使ってのロケは、戦争中とほとんど同じ廃墟がまだまだ各地に残っていたはずで、各話最初のニュース用映像と違和感なくつなげることが出来たと思える。どれも実話を元にした話であろう。戦争ならではのドラマがイタリア各地に無数にあったことをほのめかし、俳優の演技にもかかわらず、ドキュメンタリーに見える。新藤兼人の『原爆の子』や『第五福竜丸』の手法はこのロッセリーニから学んだものではないかと思うが、新藤はロッセリーニより6歳下で、『無防備都市』や『戦火のかなた』から感化されたことはあり得る。『戦火のかなた』はイタリアでは当初人気がなく、アメリカで火がついた。日本で公開された時は、イタリア各地を解放する連合軍、中でもアメリカ兵の描き方が好ましくないとの理由で24分ほどカットされた。どの箇所に相当するかは不明らしいが、その全体の5分の1ほどがカットされた版でも日本では大人気を獲得したそうだ。
作品の最初にライオンが吠える映像があって、配給がアメリカのメトロ・ゴールドウィン・メイヤーであることがわかる。アメリカで最初に人気を得たことは、アメリカの兵隊がイタリア全土をナチやファシストの手から奪還したことが物語の核となっているからだろう。そしてイタリアで不評であったのは、ファシストとパルチザンとの戦いなど、同国人同士で殺し合った記憶が生々しく、全国民がまだ連合軍大歓迎と諸手を挙げて歓迎するムードにはなっていなかったではないだろうか。最初に「敗戦」という言葉を使ったが、日本はドイツ、イタリアと三国協定を結んでいたから、イタリアもまた敗戦と呼ぶにふさわしい状態であったと思いがちだが、この映画を見る限り、事情が簡単ではないことがわかる。ファシストが連合軍上陸までイタリア全土を思想的にまとめていたかと言えばそうではなく、ムッソリーニはパルチザンによって処刑される。1945年4月のことだ。この映画はその前年までを描き、パルチザンがナチによって処刑される話が最後に置かれる。イタリアのパルチザンはこの映画でも明確に記されるように「PARTIGIANO」と呼ばれ、ファシズムに抵抗した市民を指すが、太平洋戦争中の日本が全体主義に染まっていたとして、それに反旗を翻して戦った市民が皆無であったならば、この映画の理解は少々困難になりはしまいか。知識人の間にはそういうことへの反省から戦後は一気に民主主義万歳と思想を転換した者が目立ったということになるが、戦後すぐにロッセリーニの映画を見た人がこの映画のどこに感動したかは、アメリカとは大いに事情が違うだろう。前述のようにこの映画は、イタリア国民がアメリカ兵を待ちに待った存在として描いている。また進駐軍を大歓迎したのは、この映画に描かれるイタリアも敗戦直後の日本も同じであったが、日本はアメリカに完敗したという気持ちの裏返しの絶賛で、そのことが現在もなおアメリカには絶対にかなわないという下僕的な卑下とも言える思いの源になっている気がする。つまり、表向きはすっかりアメリカ式を見習うようになった。一方、イタリアにファシストに対抗する勢力があったことは、戦後にも微妙な影を落としているし、またその一枚岩ではない部分が国の独自性という強みにもなっている部分があるだろう。もちろん、占領された日本がすっかりそれまでの自国の文化を忘れたのではないことは明らかだが、たとえば戦後にこのロッセリーニの映画に触れ、これからの日本は今までと同じように全体主義を盲信しないと覚悟を決めた人たちがどれほどいたかとなると、さして何も変わっていないのではないか。そのため、この映画に感動する場面というのは、アメリカやイタリアの人たちとは微妙に違うだろう。
全6話を順に書くと、1「シチリア」、2「ナポリ」、3「ローマ」、4「フィレンツェ」、5「修道院」、6「ポー川流域」で、シチリアから北上した連合軍によるイタリア解放こぼれ話となっている。各話とも俳優が違い、アメリカ兵やドイツ兵が登場する。1「シチリア」は漁民の若い女の悲劇だ。アメリカ兵たちは海際の古い石造りの塔に到達し、そこから先へと偵察に向かう。その道案内に若い女を狩り出す。彼女がアメリカ兵に向かって、「男はどの国も同じで、鉄砲を持って威張っている」と非難する場面がある。戦争がなければ美しい浜辺で家族が慎ましくも幸福に暮らしていた。それがドイツ兵と連合軍が戦う場所になってしまって一変した。戦争でいつも困るのは一般人だ。アメリカ兵は数人が偵察に行き、ひとりの兵を若い女と残すが、ふたりは言葉が通じない。女がしきりに帰ると言うのを兵はなだめすかす。兵は自分の故郷も同じような田舎であることを言い、女は打ち解け始める。夜闇の中、兵が自分の姉やその子どもの写真を見せようとライターを灯した瞬間、一発の銃声に倒れる。ドイツ兵が見つけて発砲したのだ。塔にやって来たドイツ兵たちは女を見つけ、その夜は慰み物にしようと考える。女はそれまでの間に撃たれたアメリカ兵を敷き藁に寝かしていたが、アメリカ兵はドイツ兵が来たことを悟って逃げようとし、そこで息絶えた。それを知った女は涙を拭きながらその兵士の銃を取り、ドイツ兵を撃つ。その銃声を遠くで聞いたアメリカ兵たちはすぐに塔に戻る。そして待たせておいた仲間の死を見て、それが一緒に留まらせた女の仕業と思い込み、女を打ち殺す。この場面は、大きな石で埋まる海岸に横たわる姿を崖の上から見下ろすアメリカ兵たちによって暗示される。戦争は兵士たちの戦いに終わらない。一般人がほんのわずかな行為によって命取りになり、また誤解によって殺されることもある。この映画の面白さはそうしたドラマ性の描写にあるのは言うまでもないが、それと同じほど見応えがあるのは現地ロケで、イタリア各地を観光する気分も味わえる。その点もアメリカで人気が出た理由ではないだろうか。戦争が終わって間もない国土を映すから、たとえば4「フィレンツェ」では現在とは違う様子が見られて貴重だ。たとえばウフィツィ美術館内がしばし映り、いくつかの大きな彫刻が木材で梱包されている様子が見える。また、ポンテ・ヴェッキオ以外の橋はすべてドイツ軍が破壊したと語られ、ポンテ・ヴェッキオを見下ろす場面があるのも生々しい。だが、撮影当時はもう同橋以外の橋も仮復旧されていたかもしれず、フィレンツェは現在までほとんど変化はないと考えていいので、現在と異なるのはせいぜい車が路上に見られず、代わって戦車や軍用車が走ることだ。そのため、広場はキリコが感じ入ったような、これぞイタリアの憂愁といった趣を漂わせている。モノクロ作品であるだけにかえってその光と影の対照が鮮やかだ。
2「ナポリ」は寡婦や子どもだらけの貧しい街が舞台となる。戦争で真っ先に犠牲になるのは女と子どもだ。その点で1「シチリア」に続けてこの2の物語を置くのは正しい。この話でもアメリカ兵が登場する。ただし、ひとりの黒人兵で軍の警察(MP)だ。彼は故郷に帰りたいとブルースを歌いながら、その故郷にある家は掘立小屋のような貧しさで、そんなところには帰りたくないとも思っている。日本の進駐軍がこの映画をカットしたのはそういった部分であるだろう。勝利したアメリカ兵士の家が今にも崩れ落ちそうであると表現されてはたまらない。これはロッセリーニが黒人の置かれている境遇に同情し、また想像したのだが、当時の黒人の自国での地位はそのようなものであったろう。それにしてもロッセリーニの巧みな技術は、このナポリを描く話に黒人を登場させたことによく表われている。黒人兵は昼間から酔っ払いながら瓦礫が残る街をふらついている。そこら中に10歳になるかならないかの子どもが粗末な身なりでたむろし、道に落ちているタバコを吸ったりしながらその日暮らしをしている。そして、わずかでも隙を見つけると相手につけ込み、奪える物は奪う。その大人顔負けの逞しさは戦後の日本でも同じであった。黒人兵は眠っている間にある男子から革靴を脱がされて奪われる。3日後、黒人兵はジープで走っていると、眼前を走るトラックの荷台に男の子が乗って荷を奪おうとしている。車を停めさせ、男子をつかまえて尋問すると、3日前に自分の靴を盗んだ子とわかる。ジープに乗せて靴を取り返しに家に向かうと、そこは雨は凌げるものの、広い廃墟で、多くの母子が住んでいる。男子は靴を持って来たがサイズが合わない。親に合わせろと詰め寄ると、その子は爆弾で両親が死んだことを言う。茫然として兵士は靴を落とし、そこを去る。このようにあらすじを書けばありきたりの話に思えるだろうが、どの場面も印象深いのはさすがだ。特に兵士が男の子と出会って生演奏つきの人形劇を見に行く場面は、話の筋とは直接の関係がないだけにより現実感がある。戦争直後のナポリでは火吹き芸人やそうした劇など、人を楽しませて金を得る仕事がたくさんあったのだろう。人形劇の場面は、狭い小屋に大勢の大人が詰め込んでいる様子がいかにも戦後の解放感を見せ、ほかにさして娯楽がなかったこともうかがわせて興味深い。劇は「狂えるオルランド」のはずだ。ヴァイオリンとピアノの伴奏がオルランドがイスラム兵と戦う場面ではオッフェンバックの「天国と地獄」を奏でるはちゃめちゃ具合で、ついには黒人兵は興に乗って舞台に駆け上がり、大騒ぎを引き起こしてしまう。陽気はいいが、空気を読めないこういう黒人兵の描き方は、今では差別的と見る向きもあるだろう。
順に各話を説明するとまだ2時間ほどかかりそうなので、5「修道院」について書くことで終えよう。これは丘陵地帯の500年前に建った修道院を訪問する3名のアメリカ従軍司祭の話で、筆者は最も面白かった。神父が戦争の際にどう行動したかは、『無防備都市』で描かれたが、ここはその続編ではなく、戦争とは無縁の永遠の時が流れる修道院が舞台だ。ところで、映画に宗教的なことを描くのは日本ではどうだろう。新藤兼人の『原爆の子』は被爆して余命が少ない少女が尼僧院に保護されている場面があった。『原爆の子』に仏教寺院が映らないのにキリスト教が取り上げられたのは、監督の意図を汲むべきだろう。そのきっかけがロッセリーニの『無防備都市』やその翌年公開のこの映画にあるとは言わないが、戦争という非常事態を超えて変わらず存在する宗教を考えるならば、キリスト教は仏教よりも立派ではなかったという気がする。前述のことに引き続いて言うならば、戦時中の日本の仏教は戦争続行に加担こそすれ、反対を唱えなかった。その全体主義は1億総玉砕の寸前まで行った。その頃と今とでは何がどう違ったであろう。全く変化しなかったと見るべきで、相変わらずキリスト教は日本には根を張ることがあまり出来ないでいる。その最初の原因は仏教界が阻止したからだが、今なおたとえば京都では仏教界が多大な力を誇示し、政治はおうかがいを立てる始末だ。話が脱線した。さて、修道院は戦争とは一応は無縁の状態で解放の日を迎えた。その日、3人のアメリカの司祭がやって来る。修道院で飼っていた鶏は村人が戦火を恐れて預けたもので、早速引き取りに来る始末で、修道院にはジャガイモひとつなく、3人に一泊してもらうのはいいが、食べさせるものがない。それでもどうにかもてなしを考えていると、村人が鶏などの食糧をわずかながらも持参してくれる。3人のアメリカ兵のうち、カトリックの司祭はとてもでっぷりとした、いかにも栄養満点な大食漢を思わせるが、修道院が500年も前から同じたたずまいで同じ生活を続けて来ていることに感銘を受けるところ、良識のある人物だ。そして、その司祭は修道僧たちが食糧不足に陥っていることを思ったのか、持参した食糧の缶詰を分け与える。それを見た老僧たちは奇跡だと喜んで台所で食事の用意をする。一方、3人の兵士のうちふたりが、ルーテル派プロテスタントとユダヤ教徒であることがわかる。早速修道院長の神父はそのことに難色を示し、アメリカ兵の司祭になぜ改宗を勧めなかったのかと詰め寄る。司祭も黙ってはいない。自分は確かにカトリック信者でそれが一番だと思っているが、どんな宗教も自分たちが正しいと確信しているし、このふたりは友人であると返す。そして食事の時間が来る。食事中は全員黙るべしと神父から言われた司祭だが、自分たち3人以外、誰も食べようとしないので、そのことを神父に訊く。すると、「神からふたつの迷える魂を任されたが、身にあまることなので、せめて断食の行によって補佐をする」との返事。つまり、プロテスタントとユダヤ教徒を暗に非難し、改宗させたい思いなのだ。司祭はせっかくの食材で作った料理が自分たち3人分しかないことを知って立ち上がり、次のように話す。「戦争によって忘れていたものをここで得た。それは心の平安で、ほかにも謙虚さ、単純さ、信仰深さという貴重なものを得た。善意の人たちに平安あれ。」 10歳の時に修道院に入りたいと思い、25歳になっている僧が登場する。それをアメリカ兵のふたりは理解出来ない行為と茶化すが、女性を生涯知ることなく神にすべてを捧げる人生があってよいし、それを価値観の違う人物が非難することは出来ない。日本の仏教では妻帯しなかった禅宗でも今は一般人と同様の家庭を持つ。それはカトリックがプロテスタントやユダヤ教徒に対して言う「迷える魂」でなければいいが、食糧が底をついていても、そのわずかなものを分け与えようとする神父の行動の前で、どれほどの日本の僧侶が恥じ入らないで済むだろう。