尖り富士という表現はいかにも古臭いから、ここは国際的に通用するピラミッド型と呼ぶ方がわかりやすい。一昨日載せたそのピラミッド型の日影写真は、わが家から50メートルほど離れた範囲で撮影したものだ。
全部で8か所見を5分とかからない間に撮った。いつもはそれほど多くあることに気づかない。季節的かつ見かけた時間帯がちょうどよかった。以前に「にぎにぎ○○○○」という題名で何度か投稿した時、このピラミッド型影には気づかず、ピラミッド型日向の写真を1枚撮った。つまり、三角形の形に日が照っている地面を見つけた。ところが同じような写真がほかで見つけられそうになく、没にした。一昨日、日差しが強く、ピラミッド型の影が面白く見えた。これはブログに使えるかと思うと、次々に見つかった。この三角形の影は普通の家の切り妻屋根を連想させて珍しくない。だが、撮った8枚は、屋根には違いないが切り妻の影ではない。30分後には同じ形ではなくなるものだ。撮影時に影が左右対称になるように立ち位置を選んだが、投稿用にはさらに厳密に加工する必要がある。それをしながら、三角形の高さが少しずつ異なることに気づき、低い順に並べた。今日は高い方の4点を載せる。一昨日の4枚と連続写真にすると、入道雲ならぬ尖り富士影がもりもりと盛り上がって行くアニメになりそうだ。ともかく、4枚の写真を載せるには今夜は段落を4つは書かかねばならない。そんなに話題があるのかと思いながらともかく書き始める。今日は台風の影響で風が強い。1階の窓のカーテンが大きく揺れて風が入って来るが、涼しくない。台風到来を聞くともう秋が近いと思うが、今日から8月でお盆まで2週間ほどだ。去年も書いたが、暑くてたまらないと言いながらそれもすぐに終わる。それにしても筆者のブログは身近なところで話題を拾い、筆者の生活を表わしている。先日の小学校での夏祭りでは、ある自治会長はライン川下りの旅の感想を少し話してくれたし、わが自治会内のある組長は学校の先生で、比較的長期の旅に出ていると今日耳にした。家内はもうすぐ10日ほどの夏休みがあるので、ふたりで小旅行でも思わないでもないが、この暑さでは電車を降りた後の散策がとても耐えられない。疲れに行くようなことなら家にいた方がましと家内は言うし、また筆者が行きたい場所には関心がなさそうだ。半ば冗談、半ば本心で九州の博多に行こうかと言うと、かなり乗り気になった。筆者は福岡には行ったことがないので、一度は行ってみたい。また行けば会う人はある。これもどこまで本心なのか、大分まで船で行こうかと家内は言う。それもいいが、大分から福岡まで行くのが手間だ。結局どこにも行かないことになりそうだ。家のすぐ近くで尖り富士の日影かなと思いながらブログ用の写真と記事内容を調達することを、時間や金をかけずにアイデア勝負と自分を納得させるのであるから、家内がどこかへ気楽な旅をしたいと文句を言うのは当然だ。
時間と金のかからないことでしかも自分にとって意外な体験と言えば睡眠中の夢がある。ここ数日で飛び切り印象に強い夢をふたつ見た。そのひとつを書いておく。わが家の裏庭の向こうに小川があり、その向こうぎりぎりに家が建て込んだことは何度も書いた。梅が数本植わる畑であったのが、11軒の家に変化した。まだ1軒が建っていないが、もう年内には建って入居もあるだろう。夢はその小川向こうの土地についてだ。筆者は裏庭やそこからフェンスをくぐって小川沿いの幅60センチほどの土手によく出て雑草を引き抜く。2,3日に1回程度で、雨天がない今頃は毎日その小川沿いに出て小川から杓で水を汲み、2本の梅の苗木に5,6杯注ぐ。その行為をし始めてまだ10日ほどしか経っていないが、3日前の午睡で夢を見た。筆者はいつもどおりに裏庭に出て雑草を抜いている。すると小川向こうはコンクリートを流し込むような大工事中で、作業服を着た現場監督が向こう岸から笑顔で筆者にあいさつをする。「あのう、もう工事は終わりましたし、この背の高い塀も全部撤去させてもらいます。」 そう言うが早いか、即座に小川向こうの風景が眼前に広がる。そこには普通の白っぽい民家が立ちはだかっているはずなのに、小川はなくなり、裏庭の地面と同じ高さの広い湖に変わっている。向こうは山だ。そこまで1キロほどだろうか。鬱蒼とした樹木が山を埋め尽くし、湖面は静まり返っている。湖の深みは深い青緑色から想像出来るが、人を寄せつけない不気味さが漂っている。わが家の狭い裏庭の借景が一瞬にして、見通しの利く、人気のない湖と森と化し、ごそっとわが家がその湖に吸い込まれそうな気がする。そう感じて裏庭から早速台所に上がると、湖の水がひたひたとフェンスを越えて裏庭に入り込み、牡丹などの草花が全部水没してしまう。そこで目が覚めた。家内に言うと、地震の津波と関係があるのではないかとのこと。だがそうは思えない。それはいいとして、この夢で味わったぞっとした気分は、別の夢でもよく見る。巨大な下水土木工事の内部にいる夢や、かつて住んだ町の大部分が見慣れない別の町に変化してしまっている様子、あるいは歩き慣れた道を行くと、そこにあったはずの自分の家がないといった夢だ。夢から覚めて最初に気づいたのは、裏庭の合歓木で激しく鳴く蝉だ。去年の秋、隣家の裏庭を掃除していると、7,8個の蝉の抜け殻を見つけた。それを捨てずに隣家の流し台の上に固め置きしてそのままにしている。そのことを次に思い出した。蝉は7,8年も暗い土中で夢を見続け、地上に出てからは太陽の眩しさに狂喜しながら、1週間かそこらで寿命が尽きる。そんな蝉の個々の生活など、人間は誰も気にしていないが、蝉の抜け殻はせめてもの蝉が生きた証に思える。それがなければ蝉が庭でかつて鳴いたことを誰も記憶しない。蝉の抜け殻は、蝉は残そうと思ったものではないだろう。したがって、それを見つめながら蝉を思い出すのは人間の感傷に過ぎない。であるならば、意識して残すこうしたブログや芸術作品というものは、感傷という人間だけが持っている、いわば何の役にも立たない意識の痙攣であって、潔さとは正反対のものだ。一方でこうも思う。蝉も夢を見るとして、蝉はそれを筆者のように書き留めることをしない。であるから、せめて人間が書き留めるのだという考えも成り立つ。仕切り直すと、まず裏庭の向こうが一変した夢を見た。目覚めて蝉の声からその抜け殻を想起した。夢の記録は蝉の抜け殻のようなもので、気に留める人もあればそのまま誰の目に留まらずに消え去ることもある。夢の記録をなぜ蝉の抜け殻と比べるか。それはどちらも過去の遺物の点で通じている。過去は遺物で価値を認めるだけの人のものだが、人間は頭が大きくなったので、より過去のことを覚えておくようになった。それらの過去はほとんど無意味で無価値であっても、忘れ得ない場合があるというのが人間で、それは筆者が蝉の抜け殻を捨てずにひとまず固め置いている行為からもわかる。
忘れ得ないガラクタ的記憶を書いておく。今日は図書館に行った。いつも返却と同時に借りる。2週に1回行くが、ここしばらくは毎回1日ずれて水曜日になっている。自宅のパソコンで調べると、ファスビンダーのDVDでまだ見ていないものが2枚所蔵されている。それを画面から予約しようと思い、パスワードを入力すると、10ほど試してもうまく行かない。忘れてしまったかと思う反面、登録していない可能性が大であることに気づいた。図書館で確認するとやはりそうであった。早速登録を済まし、ファスビンダーのDVDを予約した。1枚は予約者がひとりあって、筆者が見るのは早くて3週間ほど先か。全作品を順に見たいのは山々でも、一、二度しか見ないものに6,7万円は出しづらい。予約すれば購入してもらえるのだろうか。それを今度訊ねてみようか。今日は初めてCDを1枚借りた。クラシックの棚を見ると、誰もが知るような有名な盤が多く、借りる気があまり起こらない。借りてはCD-Rに焼くという人も多いだろう。筆者はその気はない。本物がほしいことと、コピーしてもさほど聴かないと思うからだ。それに本物のCDにコピーが混じっている状態を好まず、CD-Rは全部まとめて別に収納している。それはいいとして、CD棚の際に置かれているストゥールに、半ズボン姿の50代の日焼けした男性が座っていて、筆者と目が合った。中小企業の経営者でスポーツマンでありながらクラシックも聴くという雰囲気だ。実際にそういう人であれば、CDは最低でも1000枚は所有しているのが普通であるから、わざわざ図書館に来るだろうか。そのため、その男性の姿はどことなく場違いであったが、ちょっと暇が出来たので、涼みがてらに近くから来たのかもしれない。そう思って同館のあちこちを眺め回すと、中高年が多く、何をするでもなくのんびりと座っている。筆者の右京図書館通いは見たいDVDが底をつけばやめる。のんびり時間をつぶすために自転車で30分近いところまで行く気はない。自転車で20分のところに西京図書館があって、20年前はよく通ったが、近くにあった古書店がなくなってから行かなくなった。右京図書館に行くほかの楽しみがあればいいのに、途中の道は見るべきものがない。自動車を避けるのが危ないだけの道で、帰りは別のもっと安全な道を通る。すなわち天神川通りを南下して四条通りに出て、そこを西進して松尾橋に至る。途中でトモイチとムーギョがあるので買い物を済ます。そうそう、2週間ほど前、ムーギョの若い女性店員がひとりを残して4,5人の姿が見えなくなった。ほかの女性が入って来たかと言えば、そうでもあるし、そうでもない。誰とも顔馴染みになって冗談を交わす間にまではならなかったので、数年の間見慣れた顔がいなくなってもさほどさびしくはないが、何でも刻一刻と変化して行くことを実感し、そのことに日向の部分が少しずつ影に浸食されて行く様子を重ねる。