慣れないキーボードは使い勝手が悪く、結局深夜になって少しは暑さがましになった3階でブログを書き始める。深夜なのでステレオは鳴らさず、パソコンでYOUTUBEから音楽を流しながらの作業だ。
YOUTUBEがこれほど便利だとは思わなかった。これではCDの売り上げが激減するのはわかる。ザッパの妻ゲイルがYOUTUBEでFZの曲が無断でみられる状態に異を唱え、訴訟も辞さないかまえであるのは理解出来る。著作権がどう守られているのか、YOUTUBE側にすれば勝手に投稿する場を提供しているだけで、著作権については投稿者のモラルの問題で関知しないということなのだろう。また、これほどあらゆるCDやレコードの音源がそのまま無料で見放題の状態となれば、今さら削除することは物理的に不可能だ。筆者好みの夏向きの曲を検索すると、たちどころにヴァージョン違いの数曲が表示され、レコードやCDだけではわからなかった演奏を即座に聴くことが出来る。もはや海賊盤を買う必要はない。本もいずれはネットで読むことがあたりまえになると、家の中からCDや本が消え、物が少ないすっきりとした生活を送れるようになる。そのようになれば家具や衣類も少ない方がクールということになり、やがては肉体もない方がいいではないかという方向に進むかもしれない。物がなくなって精神だけが絶えず満足を求めて動き回っている図だ。この暑さでは何をする気にもなれず、日中はぐったりと横になって眠ったり考えたりして過ごす時間が多いから、精神だけが動いている状態はもう出現していると言ってよい。今日は1階のソファで寝そべってTVを見ている間に30分ほど眠ってしまった。その時に見た夢が面白かった。見知らぬ若い夫婦の家にお邪魔してTVを見ている。すると、奥さんが子どものためにDVDをかける。それはザッパのアルバム『THE MAN FROM UTOPIA』のジャケットをアニメ化したもので、漫画のザッパが上半身裸でステージの上でギターを抱えながら歌い踊っている。いつ発売されたのか、家に帰れば早速アマゾンに注文しようと思っている。自分が知らない間にザッパの新しい作品が発売されていることにショックを受けた夢だが、目覚めた途端、ノート・パソコンを開いて本当に注文しようかと思ったほどで、昼間に眠るとこのように夢と現実の区別がつかないことがままある。昼間から寝るのはよくないが、昨夜寝たのが深夜3時過ぎ、今朝起きたのが7時であるから、4時間弱の睡眠、これでは午後に眠たくなる。もっと早く寝ればいいものを、毎晩このブログを少しでも涼しくなってから書き始めるので仕方がない。3階にはクーラーを設置しておらず、窓からの自然クーラー頼りだ。2階の寝室にはさすがにクーラーはあるが、夜寝る時だけ使う。今日は昼間にクーラーをつけた2階でブログを書こうかと一瞬思った。だが、場所が変わると落ち着かない。最初に書いたようにいつもとは違うキーボードではキーを叩く速度が落ちるが、同じキーボードでもパソコンを設置する場所が違えば落ち着かない。
その落ち着かないことを意識的に試みた方がいいのではないかと思うことが多い。人間は本来怠惰に出来ている。そのため、慣れた状態が心地よい。その慣れからいいものが生まれる場合もあるいが、その反対も同じほどある。TVの長寿番組がそうだ。1000回や2000回、あるいは20年や30年続く番組があるが、たいてい面白くない。時代がどんどん変化しているのに、昔と同じような内容で面白いはずがない。そういう番組に出演しているタレントはそのことを自覚しないのだろうか。何チャンネルか知らないが、タモリが出る昼の番組がある。あれが始まると即座にほかの局に変える。番組が始まった途端、昔と同じテーマ曲を若者が歌い踊る様子を見るのが気恥ずかしくてたまらない。タモリがそのことに平気なのが、もはや時代が必要としている才能ではない。10年かもっと前にその番組を降りればよかった。そしてもっと違う番組を率いればよかった。そうならなかったとことに、安逸な方向に流れてしまったタモリを見るが、おそらく筆者と同じように考える人は少数派だ。相変わらずその番組は終わる気配がない。そのため、ここに書く筆者の意見に憤る人は多いはずだが、人の意見はさまざまであるべきだ。以前別のカテゴリーであるギタリストの曲を取り上げた。するとそのギタリストのファンが「アホ!」と書き込みをした。よほど返事を書き込んでやろうと思った。こういう内容だ。「やっぱりあんたのような低能なファンしかつかないギタリストであることが明らかになったね。」 ま、そんなアホな書き込みをするアホを相手にすることもないので黙ったが、きっとそのアホは鬼の首を取った気分なのだろう。さまざまな意見があってよいのに、少数派と見ると寄ってたかって叩く。多数派に属している方が安逸であるし、正義と思い込むことが出来る。ネットではそういうことが起こりやすい。ネットで一番いやなのが、言葉使いの知らない低能連中だ。筆者が他人のブログをほとんど見ない理由はそこにある。信じられないほど偏見に満ちた内容が目立ち、それでいてそういう連中は同類とつながってやけに盛り上がっている。悪貨が良貨を駆逐する図はまさにネットのことだ。正直なところ、こうしてブログを続けていて一番恐れているのが、変な書き込みをする奴だ。今のところめったに書き込みもないので安心しているが、いつ何時どうなるかわからない。話を戻して、何事も長く続けるのはよいことばかりではなく、次第につまらないものに成り果てることを自戒しておく必要がある。このブログももういつやめて全部消去してもいい時期に来ていることを思う。何事も腹八分目がよい。惜しまれてやめるのが華だが、このブログは期待されていないからもとより華とは無縁だ。ともかく、このブログの最後の投稿に向けてどういうことを書いて行こうか、それを考え始めている。
以上まで書き終えて今日の題名をどうしようかと考えた。そこでMOに保存している画像を見て、何か適当なものを今日はアップしようと思う。今月はあまり展覧会について書かなかった。あまり見ていないのも理由だが、その理由は見たいと思わせるものがないことだ。展覧会について全カテゴリー中、最多数の投稿数になっているが、今後も似たようなものばかり見るのではもうほかのカテゴリーに重点を置いた方がいいかと考えないこともない。展覧会が面白くなくなって来ているのは、もうほとんど紹介されたものであるからだろう。世代が交代する10数年経てば、昔と同じ内容の展覧会をしても人は入るが、長年見続けて来た者には新鮮さがない。そう、筆者は新鮮さがほしいのだ。先のタモリの番組に代表される長寿番組はみなそれがない。MOに収めていた写真に、4月上旬だったと思うが、心斎橋筋商店街で見かけた『ツタンカーメン展』の吊り広告がある。同展は好評で、会期が7月中旬まで延長された。確か平日は大人2500円だった。見に行ってもいいかと思いながら行かなかった。「日本初公開」と謳っているが、筆者が中学生の時に大阪市立博物館で開催された。その時の図録は金色の表紙で今も持っている。展示された作品をよく記憶しているので、今回の展覧会は半世紀ぶりに近い珍しい機会ではあったが、行かなくてもいいかという思いが勝った。今は東京上野に巡回しているので、東京に行けば見られる、見るなら大阪で見た。それはいいとして、心斎橋の吊り広告は大々的なもので、かなり費用を要したであろう。それも大人2500円でしかも連日超満員となれば容易にペイ出来る。東京ではそのような宣伝の仕方をしているか知らないが、心斎橋の吊り広告では吉本のお笑い芸人を起用した。この拙い仮面顔のツタンカーメンといういかにも大阪的な宣伝が悪いとは言わないが、ファラオたちは墓の下でどう思っているだろう。人類は驚くべき差のある文化をいくつも作り出す。それもまたいい。エジプト文明はマンネリ化して滅びた。どの文明も長く続くといずれそうなり、新たな文明に取って変わる。それでいいのだ。そうそう、橋下市長が文楽を鑑賞し、人形使いの顔が見えることに違和感を覚え、また全体がいかにも古いと称した。これを無知ゆえの意見と笑うことは出来るが、完成した様式はそのまま保存というのが日本文化でもあって、文楽を橋下市長の望むように変えれば、それは新たな人形芝居となって、そのために新たな脚本や音楽が必要となる。そういう芸術運動が自然に湧き起こるのであればいいが、人形芝居はブーフーウーやひょうたん島にあったから、今さらまた何をどうするのかという思いが強い。また、文楽の人形使いが目障りと言うのであれば、大なり小なりどのような芸術にも奇妙な制約や様式がある。大げさな声を出して歌うオペラもそうで、やはり橋下市長は芸術に理解のない野暮天かと思うしかない。多忙とは思うが、橋下市長は吉本のお笑いを持ち上げ過ぎずに、もう少し謙虚に芸術分野の識者と話し会うべきだろう。