ヌーヴェル・ヴァーグが10年ほど遅れて西ドイツに伝播したという。ファスビンダーは1945年生まれで、青年に達した頃、まだナチ時代以前のスタッフが映画界を牛耳っていた。
それに不満を抱いて自分たちの映画を作り始めたのがドイツのニュー・シネマで、当初はフランスの影響を受けた。先日右京図書館からファスビンダーのDVDを借りて、そのあまりの面白さに衝撃を受け、すぐに今日取り上げる作品のDVDを購入した。ファスビンダーのDVDは3枚ずつセットになって全5巻が発売されているが、中古でも1巻1万円はするので今すぐには購入する気になれない。図書館にあればよいが、京都や大阪はこの全5巻を置いていない。今日書くのは彼の処女作で、特典映像に本当の意味での処女作の短編が2作入っている。順序から言えば特典映像の2編を先に見るのがよい。例のごとく筆者は封入されている解説を読んで特典映像が入っていることを知り、また知ってからメニュー画面を表示させながらも特典映像をどうして見るのか、1分間ほどわからなかった。特典映像は1966年の18分の『都会の放浪者』、67年の9分の『小カオス』で、本編の『愛は死より冷酷』は88分、69年製作だ。どれもモノクロでファスビンダーが登場する。21歳から24歳までの作品で、映画好きの大学生が撮ったものという思いを誰しもまず抱くであろう。だが37歳の死を思えば、10歳ほど早熟であったとしていい加減で、実際これら3本は若さゆえの未熟な部分を感じさせるものの、すでにファスビンダーらしさが出ている。それは後年の作品を知っているからであって、何も知らずにこのDVDを見ると、たいていの人はさして感動もせず、すぐに忘れてしまうだろう。では、彼の処女作は独立して作品としてはあまり意味がないのか。そうでもあると言えるし、そうでもないのは、人はさまざまであるからだ。映画に限らず、作品に接する者は、その作品の創作業界とは何の関係もなしにただの娯楽ないし興味から見る人と、何らかの形で自分の創作に役立てようと勉強の意味もあって見る人とがある。筆者は映画に関しては業界とは何の関係もないが、自分の名前が出る創作に携わっている手前、映画も作り手側の思いをなるべくつかみたい。そのため、ファスビンダーの作品が気に入ったことは、作品づくりの巧みさもあるが、最奥で見つめている対象は作者だ。つまり、作品を見ながら作者を思う。これは作品と作者が同じと言っているのではない。作品を通じて空想出来る作者という意味だ。実際誰でもそうでしかあり得ない。そしてその作品から想像出来る作家像がそのまま作家と同一視されるし、またするしかない。話が変わるが、筆者が他人のブログをたまに見ながら、感心するもの、関心を抱くものがほとんどないのは、ブログから見える人柄がつまらないからだ。今日もそんなブログを見かけた。軽音楽について書いている人で投稿数は600ほど、訪問者数が70万近かった。訪問者数のカウンターを画面右上に目立つように掲示し、画面左には、それなりに手間をかけて書いているので勝手な引用などしないように云々と注意書きがあった。記事数は筆者のブログの4分の1、訪問者数は7倍であるから、筆者の30倍の人気という計算になる。ところがさっぱり面白くない文章どころか、嫌悪感を覚えた。当人に実際会ってみなければわからないが、何の興味もない人物とみなした。これは仕方がない。当人と会うことは不可能ではないにしても、会う必要もないし、また興味もないからだ。
『愛は死より冷酷』は1969年のベルリン映画祭のコンペに出品された。当時ファスビンダーの名前は演劇人として知られていた。その彼が初めて撮った長編ということで異例の注目を浴びたものの、上映後はブーイングの嵐であったという。それで劇場公開は第2作『出稼ぎ野郎』が歓迎された後となった。これは筆者が『自由の代償』を見て興味を抱き、他の作品を見たいと思ったことと同じだ。『愛は死より冷酷』やそれに先立つ短編2作が今はどう評価されているのか知らないが、『自由の代償』と同じほど面白く、改めて天才と言いたい。その面白さは、ファスビンダーが最初の作品から変わっていないことだ。処女作には後年開花するものが内蔵されるとはよく言われる。これはそうでもあるし、そうでない。まず本当の処女作が何であるかがわからない場合が多いし、処女作とはまるで違う作風を何度も取り代えて行く作家もいる。ファスビンダーの場合、幸いと言うべきか、処女作は後年作の胎児のようで、その成長ぶりはおそらく全作品を通じて赤ん坊が大人になるような形で俯瞰出来るだろう。筆者は『ベルリン・アレクサンダー広場』以外はまだ2作しか見ていないが、それでもそう感じさせるほどにこのDVDの初期3編は『自由の代償』に通じる部分が多い。このことは、まだ見ていない他の作がおおよそ想像出来るのでもう興味を失ったといったように否定的に見るのではない。そういう見方も多少は出来るが、それより圧倒的にファスビンダーが処女作からその後どのように物語を紡ぎ、どう描いたかという関心の方が大きい。これは彼の人柄をもっと知りたいという思いだ。そう思わせるのでなければ、さっさと興味を失って他の監督の作品を見る。さて、『愛は死より冷酷』その他2作は筆者がビートルズに夢中であった時代とぴたり重なる。そのため、当時の日本の雰囲気と比べることが出来る。街中の風景、建物や空き地、道路、自動車、ファッション、そして登場人物がやたらとタバコを吸うことなど、いかにも60年代半ばかから末期までの空気で、日独の差が見える。また、半世紀前の街路は作品の中で通りの名前と番地が言われるので、時間をかければGOOGLE EARTHによって現在の同じ場所の様変わり具合を確認することも出来るが、おそらく日本の街がすっかり変貌したのと同じで、今ではファスビンダーが見た風景はないに違いない。その「今はない過去」を今は亡きファスビンダーとだぶらせながら、彼のことを忘却の彼方に追いやるというのではなく、全くその反対に、彼が生き生きと映画の中で動いている実感から、今はないであろう街並みもそのまままだある気がして来る。その一方ですべては幻で、その最たるものが映画であることを知っていて、その一種の悲しい事実と対峙する形でファスビンダーが映画を撮り、そこに自分を写し込み、そういう形で生きたことを思うと、彼のことがいとおしく、また自分の人生、そして人類全体もそうである気になる。
『都会の放浪者』は題名のとおり、ひとりの中年の浮浪者が主役だ。これはファスビンダーが演じず、彼は最後の方で街中のトイレに入るところで少しだけ姿を見せる。浮浪者は汚れたジャケットにズボン、そして鞄を持っている。仕事はなく、おそらく住む家もない。ある人物を訪ねるが、相手にされず、ドアの前で童謡のような歌を歌う。その内容は、日本はヨーロッパが何でも大きいのとは違って、すべてが小さいというもので、物語の筋とは何の関係もない。そのためになおさら印象に深い。またファスビンダーが日本に多少の興味を持っていたかと思わせる点で興味深い。男は歌いながら笑顔を見せる。それはこの短編では唯一のそれで、男の孤独がよけいに伝わる。筆者はバスの中や街中で同じような人が歌っている姿を見かける。60年代半ばの西ドイツも同じであったのだろう。さて、男は街中を公園で一丁の拳銃を見つけ、鞄に収める。それで自殺出来ることを思い、やがて落ち葉が降り積もったたくさん並ぶテーブルのひとつに着いてパンを食べ始める。すると、どこからともなくウェイトレスが現われ、男に接近するような素振りで通り過ぎ、2人組の男に合図をする。2人組は男から拳銃を奪い、男を茶化しながら去る。男は地面に横たわったまま泣く。貧しい者が身分不相応な物を手に入れると簡単に奪われ、しかも望みを達しえないことを描く。これは『自由の代償』に拡張される。『小カオス』(Die Kleine Chaos)は題名が映画のちょっとした入れ子状のような面白さを表わしている。「小」は短編の意味だろう。映画を撮るには製作費をどう捻出するかの問題がまず立ちはだかる。ファスビンダーはそれを演劇仲間に演じさせることで合理化を図った。彼自身が登場するのも俳優に支払うギャラを減らす意味があったに違いない。そういう映画への強い思いがそのままこの短編の結末で明らかにされるところが、洒落ていて楽しい。だが、大半の場面はそうではなく、暴力を主題にしている。それはこうだ。金のない若い男と中年男、そして若い女が交代で中年の女を訪問して新聞雑誌を売りつけようとする。取り合ってもらえないので、ファスビンダーが演じる若者がふたりに一儲けしようと提案する。それは銃で女を脅し、金を強奪することだ。女が扉を半分開けた中に3人は押し入り、暴力を振るって女を黙らせる。若い男は金のありかを教えろと言いながら、壁に貼ってあるモリジアニの裸婦の複製画をライターで燃やしたりする。そして若い女に音楽をかけろと命じる。女はLPを1枚ずつ繰りながらどれがいいと訊くが、若い男はヴァグナーと言う。そして女がかけたレコードはベートーヴェンの「皇帝」だが、男はそれでいいと言う。音楽で銃声を消すのかと思いきや、そうではなく、男は机の引き出しからすぐに小さな金庫を見つける。金を数えながら、中年男と若い女に分け前で何を買うのかと訊く。その答えは言わば生活費だが、中年男は若い男に同じことを訊き返す。すると「映画!」と答え、すぐに場面が変わって建物の外に停めてあった自動車に乗って逃走し、それを追いかけるパトカーのサイレンの音が聞こえるところで幕となる。サイレンの音は3人の悪行が失敗に終わることを予感させる。この短編で面白いのは、強盗になってまでも映画を楽しみたいというファスビンダーが演じる若者で、また彼が大きな金を儲けるのに映画がいいと考えていることだ。まさにこの映画のとおり、ファスビンダーはその後映画にのめり込み、有名になって大金も動かした。この一発大きく当てるとの思いは、『自由の代償』ではサーカス団員のフランツがロトを趣味にしていることにつながっている。ファスビンダーにとっては映画作りは宝くじを当てるようなものであったかもしれない。映画はそれよりはるかに確率がよいが、努力を重ねる必要があった。
『愛は死より冷酷』は原題を英訳すれば「LOVE IS COLDER THAN DEATH」で、愛と死が比べられている。この映画はファスビンダー演じるチンピラでポン引きのフランツと、彼を愛する娼婦ヨアンナ、そしてフランツが友人とみなしたヤクザのブルーノの3人が主役で、『小カオス』に着想がある。ヨアンナはハンナ・シグラが演じる。彼女はファスビンダーの2歳上だ。小柄なグラマーで素っ裸になる場面もある。フランツにぞっこんで、子どもを産んで家も買い、普通の生活を送りたいと望んでいる。この映画の題名の「愛」はヨアンナのフランツに対するそれだ。だが、フランツはヨアンナと平凡な家庭を持つことに夢を持っていないように描かれる。それはほのかな形ではあるが、ブルーノを友人とみなし、ヨアンナに対しブルーノに肉体も捧げるように仕向けることからわかるように、男色好みでもあるからだろう。フランツは皮ジャンパーを着て、まるで『自由の代償』のフランツと同一人物に見える。一方、ブルーノは隙のないダンディで、どこかアラン・ドロンを思わせる甘いマスクで、『自由の代償』のオイゲンを連想させる。フランツはヨアンナからは満たされない思いをブルーノに見つけようとしたのだろう。この奇妙な3人の同居がヨアンナには耐えられず、ブルーノのどこにも魅力を感じないとフランツに言う。ヨアンナは毎晩男を変えて寝る商売をしながら、魂はフランツにだけわたしているという設定だ。このことは映画の最後で効いて来る。さて、順に話すことにしよう。フランツはある部屋に幽閉されて、ヤクザ組織から仲間になれと勧誘を受けている。この場面は真っ白な壁を背後に演じられる。その様式性は演劇で培ったものだろう。また画面に人や物をどう収めるかは絵画のように巧みに構成されていて、ファスビンダーが美術にもそうとう造詣が深かったことをうかがわせる。この美術的なことはカラー作品の『自由の代償』ではもっと複雑になる。また、わずかな個性的なものだけで見せようという態度は、セリフにも表われている。どれも短いがそれだけに印象深い。さらに、カメラの長回しが多く、各場面は絵画のように記憶に刻まれる。ブルーノが初めて登場する場面では、正面から顔を大きく捉え、全く身動きせず、瞬きも一切なしのまま1分かそれ以上同じ場面が続く。そのことにどれほどの意味があるのかと、ごく普通の映画を見慣れている人は思うかもしれない。だが、映画は筋の展開だけが見どころではない。映画はある結末に向かって何事も収斂して行くが、その間にはその収斂具合とはほとんど無関係の場面があってよい。その一見意味不明な場面が全体を豊かにする。人生もまたあるひとつの事柄に向かってすべてのことが意味を持っているのではない。そのあるひとつの事柄とは言うなれば死だが、末期癌を宣告されたのでもない限り、誰も死など意識せず、そこに向かって人生を過ごそうなどとは思わない。死は明らかであっても、生きている間はむしろ死など考えない。この映画は結末から逆に見れば、無駄で無意味な場面が多いが、その無意味らしい場面がかえって印象深い。それはなぜか。そこにまだ若かった監督の「ちょっと気取って実験してみました」という思いを見るべきか、あるいは成熟した技法を見るべきかは、まだ多くの作品を見ていないのでわからないが、処女作にしてすでに今までにない自由な映画を作ろうとしていた意気込みは伝わるし、それは成功している。
話を戻して、フランツに暴行を加えるヤクザは、自分たちの仲間になれば弁護士もいるし、人脈も出来るなどとよいことを並べる。フランツはその誘いを拒否し、拷問を受けるが、意志を曲げない。それは自由でいたいからだ。ここでも『自由の代償』を思い出す。そこでは名前も同じフランツがサーカス団からひとり身となった。このひとりで自由に生きるという考えは、映画界で自分たちの仲間だけで作品を撮るというファスビンダーの思いにだぶっているのだろう。言うことを聞かないフランツはついに解放される。その前にブルーノが部屋に現われ、フランツは自分と同じようにヤクザから誘いを受けていると思込む。拷問部屋から出て来たブルーノに、フランツは自分のミュンヘンの住所を伝える。場面が変わって電車の中、ブルーノは若い女と向かい同士で座っている。この場面は5分ほど続く。抽象的な描き方で、ふたりに何が起こったかは見る者の想像に委ねられる。女は肩をはだける。おそらくブルーノの体がほしいのだろう。実際彼は女に何がほしいのかと訊く場面がある。そしてブルーノは15で父親を殺し、その後も人殺しをしたことを女に話す。そのことを女は表情を変えずに聞く。ブルーノは女が見ている前で、バッグの中から現金を抜き取る。そして、ひとりで駅舎の外に出てタクシーを拾う。フランツの住家に向かうが、いない。そこは娼婦が住んでいて、ブルーノはフランツの女ヨアンナのことを訊く。そして夜の街を車で走り、街角に立つ娼婦の中から彼女を探す。ついにある女からヨアンナの住所を聞き出し、そこに向かう。場面が変わって、ヨアンナは服を脱ぎながらフランツに当夜の稼ぎをわた。フランツはその中から紙幣1枚を放り投げ、ヨアンナはそれをバッグに収める。そこでドアをノックする者がある。危険を察知したフランツは扉の陰に隠れ、入って来たブルーノの手を挙げさせ、武器を持っていないことを確認するが、ブルーノと知ってヨアンナに紹介する。そしてすぐに、フランツはあるトルコ人が殺され、自分がその犯人と思われ、トルコ人の弟から狙われていることを言う。ブルーノは先手を打とうと言い、ヨアンナを交えた3人で行動を始める。少ないセリフであるので、二度見ればなおさらセリフの重みが理解出来るが、再会したフランツとブルーノを見ながら、ヨアンナが本能で何を察知したかを考えると面白い。それは、フランツは信用出来るが、ブルーノは一見して人殺しであるという直感だが、フランツはブルーノに対して魅力を感じている。このずれが、フランツとヨアンナの仲がこの映画の結末以降どう展開するかを予想させる。ブルーノの意見にしたがって3人はトルコ人の弟を殺すが、その際ブルーノは喫茶店の若い女性店員も射殺する。フランツは逮捕され、尋問を受けるが、銃のありかを言わず、しらを切り、一晩で釈放される。刑事はヨアンナやフランツをよく知っていて、人殺しをするような人間ではないと確信しているようだ。その後3人は逃走資金を得るために銀行強盗を企てるが、やがて映画を見る者だけにブルーノがヤクザの組織から雇われ、フランツを仲間に引き入れるために派遣された人物であり、またヨアンナは邪魔者であるので、別の男に殺させる計画を立てる。ブルーノの危険な提案に尻込みしたヨアンナは事前に警察に連絡し、銀行の前に来てほしいことを伝える。結局銀行強盗は未然に防がれ、ブルーノは刑事に発砲されて息絶える。そのまま車で逃げればいいものを、フランツはブルーノを後部座席に引き入れてから3人で銀行前から去る。追って来る刑事の車をバックミラーで見ながら、フランツはヨアンナにブルーノが死んだかどうかを訊ね、死んだと聞いて車から放り出す。そして車を走らせながらヨアンナは警察に電話したことを伝える。フランツはヨアンナに「淫売」と一言だけ吐き、車が走り去る場面で終わる。ここはどう読み解くべきか。「淫売」と言い放つや否や、カメラは田舎道の路肩を映す。それはブルーノが車から放り出された場面を思わせる。実際はそのままふたりで去るようだが、フランツの思いはヨアンナを捨てることにあるだろう。ファスビンダーは、ヨアンナのフランツへの愛はブルーノが死ぬことを何とも思わないほど冷酷なものであると言いたかったのだろうか。一方、フランツは撃たれたブルーノを車に乗せるし、また殺人が出来ない男であるから、人間への愛情を知る男とみなしてよいが、それはヨアンナほどには冷酷でない、つまり強靭ではないという意味か。ファスビンダーとハンナ・シグラは一時期愛し合ったが、この映画から予想出来るように、平凡で幸福な家庭を持つことはなかった。