溝口と検索画面に打ち込めば自動的に溝口健二の名が最初に出て来る。溝口姓で最大の有名人だ。筆者は映画ファンではないうえ、邦画はほとんど見ないので溝口監督の凄さがわからない。
だが、非常に厳しい仕事への態度は有名で、俳優たちが恐れていたことくらいは知っている。代表作と言ってよい『雨月物語』はまだ見ていないが、何年か前に田中絹代主演の『夜の女たち』をたまたま京都文化博物館の映像ホールで見た。大阪の天王寺、阿倍野が舞台になっていて、田中の演技は強く印象に残ったが、それまで抱いていた田中のイメージと違うことに驚いた。『夜の女たち』は1948年の製作で、WIKIPEDIAによれば戦後最も高い評価を受けていた頃だ。その勢いから日米親善芸術使節として1950年に渡米するが、帰国した際の姿や言動から人気を失なう。それが見事に復活するのは2年後の溝口作品に出演してからだ。つまり、溝口監督は田中の人気失墜前から起用し、ふたたび大女優の座に押し上げたことから、田中とは縁が深かった。今日取り上げる映画は家内と一緒に昨日京都文化博物館で見た。新藤兼人監督の昭和50年(1975)の150分のカラー作品で、新藤が39人の映画人にインタヴューした映像をつないだものだ。溝口が亡くなって19年経っていた。とにかく言葉の連続で、ちょっと油断すると聞き逃してしまう。それもあって家内はもう一度見たいと言っている。新藤は30歳頃に溝口監督の作品に美術で参加し、当初は反発する。だが、出来上がった映画の素晴らしさに感銘を受け、密かに書いていた脚本を見せるも酷評を受ける。それから奮発し、さらに精進してデビュー作の『愛妻物語』を書き、自ら監督を務める。新藤にとっては溝口は大の恩人で、溝口の誕生から死までを、生き証人への聞き取りを通じて映画にすることを義務と考えたのであろう。この映画のために取材した50時間以上の録音テープから本も書いたという。そこには映画では盛り切れなかった内容も含むだろう。この映画の面白さは、日本映画の歴史と溝口のことがわかる点で、また39人の表情や声、発言内容も見ものだ。それに、今では変わってしまった京都市内各地も懐かしい。今回この映画の宣伝用の写真は、田中絹代が新藤の背中越しに映ったものが使われた。また映画の最初に登場する名前の初めが田中だ。その名前の順序はインタヴュー順と注釈されていたと思うが、新藤が真っ先に田中に溝口の思い出を聞き出したのは、この映画の一番の見どころともなっている。画面いっぱいに映る田中の顔は、快活でよどみなく話しはするが、細かい皺が目立つ老人で、当時66歳、亡くなる2年前であった。新藤63歳でよくぞ当時撮影したものと思う。もう少し遅れていると田中の生の声が聞けず、この映画は深みがうんと減少した。もっとも収録に2年を要したというから、田中は64歳であったかもしれない。また、この映画での田中は頬が落ち気味で、いつか家内が年配の男性から田中絹代に似ていると言われたことを納得させた。パッと見は確かに似た雰囲気だ。
映画の最初、溝口がインタヴューされる声が聞こえる。もちろん新藤ではない。溝口は1956年に亡くなっている。その数年前か、『雨月物語』頃ではないだろうか。そのインタヴュー映像があってもいいが、声だけでも貴重だ。というのは、溝口の写真はさほど残っていないのか、この映画ではインタヴューされる39人がもっぱら映り、ほとんど溝口の顔は出て来ないからだ。最初に黒いデス・マスクが映った。それは眼鏡を外し、溝口だとはわからない。また、そもそも溝口はあまり特徴のない平凡な顔で、鬼才や天才のイメージはない。監督は映画の裏方であるからそれでいいのだろう。そのような平凡な風貌の男が完璧主義者で作品に常識外れなほどに厳しかったことが面白い。芸術家は身なり恰好も大切だが、それを気にし過ぎるのはだいたい凡庸な人だ。お洒落など芸術家でなくても出来る。表向きは目立たないが、内面は常識人には及ばない狂気を秘めているのがだいたい天才、鬼才というものだ。溝口はそういうタイプだろう。生前の溝口が話す内容に中に、女を描く作品が多いのはなぜかという質問に答えて、男を専門に撮る監督がいたので、ならば女ということでお鉢が回って来たと語っていたが、実はそうでもないことが少しずつ明らかにされる。それはまず、溝口は女や酒が好きであるとの意見だ。若い頃に身近にいた人の発言であるだけに正確であろう。女や酒が好きというのは平凡な男ということだ。この意見の次に、溝口が情痴事件を起こしたことが紹介された。溝口は東京本郷生まれで、白髭橋少し上流にあった日活の向島撮影所で映画を撮っていたが、関東大震災によって同撮影所は倒壊、日活は京都大将軍に移転した。京都に来た溝口は風呂屋の2階を借りて男優とひとつの布団に寝たりの生活であった。そうこうしている間に仲のよかった女に背中を切られた。大正末期、20代後半のことだ。この事件の後しばらく映画会社から謹慎処分を食らう。まだまだ若い20代後半ではそういうことはあるものだ。事件の際、溝口は大いに慌てて刃物から逃げ回ったそうで、そこに人間らしさを見るとある人が語っていた。俗っぽさを持ち合わせた人柄であったからこそ、その後人間を洞察力豊かに描くことが出来たという考えだ。またこの事件があって女を描く映画に向かったとも考えられる。どういう理由で切られたかは明らかにされなかったが、おそらく浮気か別れ話を持ち出したからであろう。性に奔放であったとしても、当時は赤線があったから、女遊びは珍しくなかった。映画監督になるのであれば、若い頃にそんな情痴事件のひとつやふたつを起こしておいた方がよいのかもしれない。そんな溝口が所帯を持つ。それは銭湯の2階を借りていた時に仲がよかった先の男優の恋人の友人だ。これは身近な女から適当に見つけたという感じが強い。妻はやがて脳が冒されて入院する。そのことを溝口は自分のせいであると悔いていたが、血液検査からは溝口のせいではないことがわかった。ここは映画ではぼかされていたが、溝口が女遊びで梅毒に罹り、それが妻に伝染したと思っていたという意味だろう。
溝口には子はなかった。この映画からはそう読み取れる。そして妻が入院したので、家庭的にはさびしかった。それが映画に没入した理由にもなった。女優が語っていた。彼女は自分が一番にセット入りしたと思っていたが、すでに暗い中、溝口は座っていた。誰よりも早くセット入りし、また昼食時でもセットから出ず、小便は尿瓶にした。セットから一時出ることで気分が削がれることを恐れたのだ。こうしたエピソードは豊富にある。一番驚いたのは、伏見の酒蔵のある付近での撮影だ。蔵の前に疏水が流れていて、その風景が気に入った溝口は、そこに帆かけ船を二艘浮かべ、堤に茶屋を建ててワンカットを撮ろうとした。道路を占拠するので警察に願いを出す。1日限りで深夜から朝9時までならOKということで、早速5,60人の美術係を動員して船や茶屋を大工仕事で用意した。ところがいざ撮影となるとほんの少し茶屋の位置が気に入らない。そこでまた同じ美術係を呼んでセットの建て直しだ。ワンカットにどれほどの労力と製作費がかかっているかと思えば、ぼんやりと映画を見てはならない。だが、ぼんやり見ても迫力は感じる。それを溝口はよくわかっていた。俳優にも完璧を求めたのは言うまでもなく、もう出演したくないと根を上げた人も少なくなかった。中村雁治郎が語っていた。何度演技しても溝口はよしと言わない。その理由を訊ねると、目の動きが駄目との返事。そこまで言う監督はいなかったとのことで、その後雁治郎は別の監督の作品に出演して、自分ではあまりよいと思えない演技にOKが出されたことを引き合いに出していた。俳優たちの溝口評はみなそれから推して知るべしで、その仕事の鬼と化していたことが名作を生む条件であったという見方がなされている。何をそこまでおおげさなと思う人は多いだろう。『雨月物語』をヴェネツィア国際映画祭に持って行った際、田中絹代と脚本家が同行した。田中が語るには、ルーヴルの「モナリザ」を見た時、溝口は涙を流し、またゴッホのように発狂するほどでなければ名作は生まれないと話した。それだけ真剣で、本物とは何かを考え続けていた。その一例は田中の語りからも明らかだ。『浪花女』だろうか、文楽を取り上げた作品で溝口は田中に文楽のための専門書を何冊も読ませ、1か月ほど毎日大阪まで文楽を見に行かせたそうだ。田中は文楽の専門的なことには歯が立たないが、芸としては俳優も文楽も同じで、そこでようやくどう演ずればいいかを悟ったという。溝口は口先だけのセリフでは真実味が出ず、それは必ず映画を見る者に伝わると考えた。芸とは片手間に出来るものではない。全生涯を費やしてどうにかましなものを生み出し得るかどうかだ。そういう信念を溝口と一緒に仕事をする者は共有した。そのひとりが田中であり、この映画のためにインタヴューを受けた人たちだ。
田中の出番が一番多かったように思う。そうでなくても新藤の狙いは田中の本意を聞き出すことにあった。その意味でこの映画は田中が主演だ。女を描いた溝口であるから、弟子の新藤がそう描くのは本望であったろう。新藤は田中にずばり切り込む。それははにかみ屋の溝口が田中を密かに愛していたということだ。これに対し田中は、溝口は映画を離れれば冗談も言わず、少しも面白くない人で、自分(田中)を演じさせたその役柄に惚れ込んでいたのだろうと応えた。溝口の完全な片思いであったということになる。田中は溝口の11歳下で、溝口は小柄でしかもどんな役でもこなす田中をいとおしく思ったことは充分想像出来る。田中もまた、監督のあまりに真剣な様子に接し、この人物をどうにか世界に認められる存在にしてやりたいとの一念で演じたと語っていた。それは田中もまた映画の中で溝口を愛したことであって、現実に愛したことと同義だ。映画を除いては田中も溝口も存在しなかったも同然で、その映画の中でふたりがこのように真剣勝負を繰り広げ、お互い納得の行く仕事が出来たことは、ほかに望むことは何もなかったと言ってよい。この溝口と田中の関係は、新藤と乙羽の関係と似る。後者はもっと進んで結婚を選んだが、溝口と田中が結婚したならば、夫婦関係はあまり長く持続しなかったのではあるまいか。それほどに両者は我が強い。ヴェネツィア国際映画祭に行った際のカラー写真が何枚も映った。それは田中から提供を受けたものだろう。そこに映る田中と溝口は夫婦に見えた。肉体関係があったにしろなかったにしろ、それはどうでもよい。ふたりが火花を散らし、お互い大きな存在と認識していたことが重要だ。男女のそういう関係はめったに起こるものではない。最後に書いておくと、明治生まれの溝口には官尊民卑の思想が多少あったとの意見だ。それは何が何でもヴェネツィア国際映画祭で受賞するぞという思いにも表われた。もし受賞を逃せば、そのままイタリアに留まって映画の勉強をする覚悟であったという。田中が世界の溝口にしてやりたいとの思いで演技したのは、普段から溝口は国際映画祭への出品を周囲に語っていたことを匂わす。田中は1953年に監督業に手を染め、そのことに溝口は反対し、ふたりは疎遠になったという。溝口は58、田中は67で死ぬ。どちらも長命とは言えないが、日本映画史に刻んだ名前は特大だ。田中主演の新藤の『悲しみは女だけに』は、溝口が亡くなって2年後の作品で、同作が溝口作品からどういう影響を受けているかを考えると面白いだろう。それには筆者はあまりにも溝口の映画を見ていない。『夜の女たち』は社会派的作品で、その影響を新藤は大きく蒙っていると思える。溝口は『大阪物語』を撮ろうとしている矢先に死んだ。それが完成していれば代表作になったと言われる。東京生まれながら上方に腰を据えたことで日本を代表する監督になった。もうそういう監督は出ない。溝口の上方ものの名作を全部見たいが、何年かかることやら。