この映画の題名は10歳になるかならない頃から知っていた。TVでも放送されたことが何度もあるが、いつも観る機会を逸した。映画館で上映されたものではなくて、TV番組として制作されたものもあるので、よほど人気があった物語であるのがわかる。
それで、文化博物館の映像ホールに観に行った。今はもういない昔の有名な俳優がちらほら出演し、主演のフランキー堺の好演もあって、全体に飽きずに楽しめた。話がとんとんと進み、また兵士が登場するシーンはごくわずかであるのもよい。戦争映画と言うより、戦後処理の映画という点で、観る人にじっくりといろいろなことを考えさせるし、これからもいろいろと考えさ続ける点において名作であり続けるだろう。話の内容は大体知っていたが、全く予想どおりの展開で、その点に関してはわざわざ観るまでもなかったというのが正直な感想だが、太平洋戦争後の戦犯問題を取り扱うドラマとして、一般の名もない人々がどのように罪を着せられて絞首刑になって行ったかの事情はよくわかる。ただし、この映画を観る人の受容の仕方には今後も変化があると思う。それでいいのだと思う。古典的名作とはそのような条件を持っている必要があるからだ。作品は作者が想像もつかない場所にひとり歩きして行くし、そういう幅の広い見方をされることを本当は作者も作品も期待しているものだ。東京裁判が今なおマスコミでくすぶった状態で取り上げられ、国民の意識の一致は見られない。それは永遠に続くと言えるが、今はこの映画が上映された1959年当時とは違ったもっと多様な見方が出来るし、そういう意識の微妙な変化が緩やかにせよ訪れているという意味において、新たな考えでこの映画を見つめる人が増えているのではないか。最近のTVなどでは、東京裁判は戦争に勝ったアメリカが一方的に敗戦国の日本を裁いたもので、不当なものであったと大声で主張する者が増えているように思う。この映画の登場人物のひとりが腹立たしげに言い放っていたように、赤紙1枚で戦争に駆り出された人々にすれば、戦争を始めた主導者に責任を取ってもらいたいと思うのは当然の気持ちであるし、これはアメリカ側も同じで、戦争直後は天皇も含めて指導者層全員を死刑にすべきという意見が大きくあった。そんな中で連合国が一応は裁判という形で白黒をはっきりさせるという方針を取ったのはまだ正しい判断であり、もし日本が戦争に勝っていたならば、当時のアメリカ大統領を裁判にかけずに即座に銃殺していたであろうという意見がある。そんな当時の事情を想像すれば、東京裁判が戦勝国の身勝手で一方的な行為であるとは言い切れず、東京裁判がアメリカの身勝手なものであったという意見が、アジア諸国に日本の右傾化の兆しと受け止められかねないことは充分に理解出来る。
中国における戦いからアメリカの原子爆弾投下までの15年を今はまとめて15年戦争と呼ぶことが多いが、その戦争の決着として日本は1945(昭和20)年にポツダム宣言を受諾し、ただちに戦争犯罪人裁判が始まった。日本以外の国でも裁判は行われたが、A級を裁いたことで東京でのものが最大とされ、もっぱら東京裁判と呼ばれている。犯罪人は大きくABCの3つの段階に分けられた。Aは国家的指導者で、28人が起訴され、病死や精神障害のふたりを除いて全員が有罪となったが、死刑になったのは7人だ。死刑を免れた者の中から総理大臣が出たのはあまりに有名な話で、これは何とも奇妙な気がするが、戦後急速にアメリカとソ連は冷戦関係になり、アメリカがいつまでも東京裁判にかまけていられない状況も手伝ったようだ。BとC級は合わせて4403人が有罪とされ、934人が死刑執行された。この映画はC級で死刑になった人物を主人公に描いている。A級のいわゆる有名人ではなく、どこにでもいるような家庭を大事にする平凡な男が、どのようにして死刑にならざるを得なかったの矛盾を、やや告発調で描くため、裁判をする側の無慈悲さが浮き彫りになっている感がある。A級戦犯で総理大臣になる者もあれば、アメリカ兵を本当に殺したかどうかもわからない二等兵が捕虜虐待の罪で死刑になるという、東京裁判のいい加減さを描くのが目的であったとまでは言うつもりはないが、当時の人々はこの映画では全く描かれないA級戦犯たちのことについてはよく知っており、そうしたA級戦犯とこの映画における哀れなC級戦犯の人生とを対比せずにはおれなかっただろう。捕虜を刺し殺した罪に問われる主人公は、上官の命令にそのまましたがっただけであり、上官はさらなる上官、その上官もまたさらなる上官といったように命令伝達はつながっており、上官のの命令は天皇陛下の命令と同じという理屈を突きつけて、絶対服従を強いるのが日本の軍隊の姿であった。映画の中の裁判では、上官の命令が文書に残っているのかどうかを戦犯に問う場面があったが、ここに日米の軍の規律の差が浮き彫りになっている。連合国にすれば、口頭の命令によって捕虜を殺すことなど、重大な戦争犯罪であり、結局主人公の反論むなしく有罪が確定する。ただし、命令を下した上官たちも重罪で、「捕虜を処分しろ」と言った指令官の大尉は主人公の二等兵と同じく東京の巣鴨刑務所に拘留され、そのまま先に死刑が執行される。大尉の命令を二等兵に伝えた上官は終身刑であった。この差をどう思うかということも映画は突きつけている。
主人公は高知県の漁港で小さな床屋を営んでいるが、ある日ついに自分にも赤紙が来る。小さな男の子がひとりいて、妻と一緒に店を営んでいる。高知の海辺から始まり、また最後は同じ場面で終わるが、まだ1950年代の日本の田舎の自然は本当に美しかったことがよくわかる。そうした今はない風景を見るだけでもこうした映画は貴重な財産で、その価値は減るどころか、今後ますます貴重になるだろう。主人公が映画の後半で述懐したところによると、12かそこらの年齢で床屋の丁稚となり、辛酸を舐めてようやく小金を貯め、やがて妻となる床屋の娘と知り合って結婚して開業したという。そんな苦労ばかり多い人生であったのに、30歳を越えた年齢で二等兵となった。外地に送られることはなく、四国の部隊に配属されて日々訓練をしているところに、アメリカ軍の飛行機が山中に墜落してパイロットが脱出し、それを捜索中という報せが届く。ただちにふたりの捕虜は瀕死の状態で見つかり、部隊は捕虜をそのまま杭にくくりつけ、兵士たちが居並ぶ中、上官は最も根性に欠けると思える人物ふたりを選び出して、捕虜を銃剣で刺し殺すことを命ずる。裁判で、「捕虜を処分しろ」とは言ったが「殺せ」とは言ってはいないと司令官が言い逃れをする場面があるが、これは充分予想出来ることで、日本独特の言葉の曖昧さがどこまで通じるかどうかの問題も一方であらわになっていて、先の命令書があるかどうかと問うことと同様、日米の文化差が描写される。これも映画の中出象徴的な場面だが、捕虜に木の根を食べさせたという兵士が戦犯になった話が出て来る。木の根はごぼうであり、当時はめったに入手出来ない貴重品で、それを栄養失調に陥っている捕虜に食べさせたのが罪になったというから、文化の差を理解しないで裁くのはおかしいという主張が強くこの映画には見られる。それに日本語を逐一英語に翻訳しての裁判で、そこに意思の疎通が完全に出来たかどうかも疑わしい。そのため、「捕虜を処分しろ」もどう訳したのか知らないが、結局は司令官のその言葉は認められない。主人公は、捕虜は杭に縛られた時にはすでに死んでいて、自分はその腕を刺しただけで命は奪ってはいないと主張するが、それを証明するものは何もない。
戦争という異常事態を後で検証して裁くことの無理さは誰しも想像出来るところで、裁判とはいえ、かなり見せしめ的要素の強いものであったことは確かだろう。また、そうでもしない限り、憤りのある人々を鎮めることも出来なかった。部隊には主人公と同じような兵隊が数十人いて、いわば上官によるいじめに似て、たまたま主人公に命令が下されただけで、全く運のない話であったということになるが、これは戦争では誰しもそういうことに晒されていたから、戦争の悲劇としか言いようがない。戦争さえなければお人好しで普通に生活していた男が、拒否出来ない上官の命令にしたがっただけで死刑とは、単純に考えてみればこんなアホな話はなく、主人公の悔しさはよく理解出来る。それに主人公は上官の命令に笑顔で対応したのではなく、最初は怖じ気づいて腰を抜かした。それを見た上官は別の兵士を指名し直そうとするが、さらなる上官の命令で再度主人公に命令が下された。ここでもまた運のなさが描写されている。しかし、仮にほかの兵士に命令が新たに下され、その兵士が刺していたなら、結局その兵士がこの映画の主人公となっていたから、話は何も変わらない。つまり、刺したのは二等兵という名もない普通の兵士であれば誰でもよいわけで、その兵士が兵士に徴られる前はごく普通の生活人でありさえすれば、なおさらこの映画でのインパクトは大きい。それではこの映画の主人公はそうしたインパクトを狙って物語が構成されているかと言えばそれだけではないだろう。勝った国と負けた国、上官と部下といったさまざまな関係の中で、ごく普通の人でも戦争があれば死刑にされることがあるのだという現実を突きつけていて、その点だけを見つめれば反戦的映画となるが、主人公が本当に無実かどうかと言えば、また問題は複雑になって来る。たとえば、軍隊で牛や馬と同様の存在に過ぎなかったと主人公が主張する二等兵でも、捕虜を殺せと上官から命令を受けた時、それを拒否することが出来なかったのかという捉え方も出来る。そんなことをすれば自分が上官に殺されるかもしれないが、それでも人を殺すよりかはいいと思う人も中にはあるだろう。絶対服従があたりまえという考えが戦争中は当然という考えこそが恐ろしいと思うからだ。100人のうちひとりくらいは上官の命令に服さず、そのことで殺されてもいいと思う兵士がいたのではないだろうか。それが非国民と罵られようが、それでもかまわないという勇気ある者がいてもおかしくはない。しかし、仮にそんな兵士がいたとしても物語の主人公にはされない。そういうことを考えると、この映画の主人公が死刑になるのも、全くの身の潔白ではないゆえ、仕方のないことと見ることも出来る。
巣鴨プリズンに収監されている主人公たち戦犯は、次々と死刑執行されて同じ部屋に入っている戦犯が消えて行く日々を送っている。ところが、ある日を境にぴたりとそういうことがなるなる。そのままのんびりとした監獄生活が1年ほど過ぎ去り、戦犯たちの間では噂が飛び交い始める。死刑執行された者が遠い北海道などで目撃されているというのだ。死刑執行は実は密かに釈放することであり、何ら心配するには当たらないという、まことに藁にもすがるような希望的観測を抱く戦犯たちの気持ちは悲しい。実際は確実に処刑されていたからだ。それでも1年以上も刑執行のために収監部屋から連れて行かれた人物がないとなると、これはもうすぐ全員釈放かと思うのも無理はない。そして講和条約が調印されれば全員釈放が間違いないという噂がますます広がり、やがてそれは戦犯たちの間では確信に変わる。主人公も、面会に来る妻にそのことを伝え、妻は妻で夫が帰郷した時にはまた床屋の仕事が忙しくなるとばかりに、新しい高価な回転椅子を購入したりしている。サンフランシスコで講和条約が調印され、正式に戦争が終わるのは、ちょうど筆者が生まれて10日ほど経った1952年9月のことだ。記念切手が3種出て、日章旗や菊がデザインされたが、平和条約の締結に日本のシンボルだけが図案化されたのも、今にして思えば日本は自国にしか目が向いていなかったと改めて思う。それはさておいて、平和条約が成立しても、現実には巣鴨プリズンのBC級戦犯たちは釈放されなかった。つまり、映画の中での主人公たちの願いは虚しかった。そうしたBC級戦犯の最期の日々がよく知られるようになったのは、1953年にBC級戦犯の遺書集『世紀の遺書』が出版されてからだと言われている。この本には遺書や遺稿が701人分収められていて、この映画でも主人公がアメリカ大統領への嘆願書や、遺書をたどたどしく書く場面が何度も映るので、そうした戦犯たちが残した文章があることによってこの映画の脚本が書かれることになった経緯をよく伝える。この本以前に、死刑執行されなかったBC級戦犯が書いた手記がいくつか出ていて、それらはアジア民衆への加害者としての日本軍を見つめているというが、この映画の主人公とは違う思想の戦犯もいたことを示している。最初に書いたように、この映画が「予想どおりの展開で、わざわざ観るまでもない」と言いたいのは、アジア民衆への加害者としての視点の欠如が気になったからだ。それは別の映画で描かれるべきことで、たとえば『ビルマの竪琴』はそうした映画と言ってよいかもしれないが、戦後間もなく作られた映画において、被害者意識ばかりが強調されるのはどうかと思う。それは現在もそのまま引き継いでいるし、逆に15年戦争がアジア諸国の独立という大きな恩を与えたものであったといったような論調も目立つ近年、東京裁判の意味することはまだまだ大きく揺れ動き続けている。
巣鴨プリズンではBC級戦犯は60人が処刑されたが、この映画の主人公のその中のひとりとだ。直接には1953年発刊の『あれから七年』という戦犯の手記を基に橋本忍が物語を構成したが、同書を読んでいないので、どこまでがフィクションかはわからない。映画は1959年制作で、同書から6年を経ているが、これは少し年月が経ち過ぎている気がする。それでも作られないよりはよかった。『世紀の遺書』所収の701人分の遺書や遺稿は、巣鴨以外での死刑囚のものがほとんどということを示すが、朝鮮人や台湾人の戦犯のものも含まれていて、そうした人々に視点を当てるならば、この映画以上の問題作になったと思える。だが、当時の日本ではそうした考えは全く欠けていた。それは今もさして変わらない。この映画で確かに名もないC級戦犯の不条理な死に方を描くことは、戦争やその後の裁判を考えるうえで意味は大きいが、問題が日本の中のことに限られているのは、今から見ればいささか物足りない。戦後、日本は国際的な大国になったが、その出発点とも言える東京裁判において、アジア諸国に対する視点が欠如し、それがそのまま今に至っている気もする。朝鮮人や台湾人の戦犯の問題など日本の戦犯問題に比べればマイノリティ過ぎるという考えがあるならば、それこそが問題ではないだろうか。この映画で取り上げたのも、A級戦犯の重大さに比べれば本当は罪も軽い、それこそマイノリティと言ってよい問題であって、それをもう少し押し進めれば朝鮮人や台湾人の戦犯を扱う物語が書かれてよかった。そうした物語は朝鮮や台湾の人々が書いたか、これからも書かれると思うが、それを日本がまた無闇に非難することにならなければと思う。東京裁判が突きつけているものは、日本軍と裁く側の連合国との関係ではなく、本当は日本国民全体が戦後になって戦争をどう決着づけたかが問われる問題でもあり、決して過去のもので今は関係ないでは済まされない。主人公が最期に発する言葉は、牛や馬なら人間に苛められるが、深い海の底の貝ならそういうこともなく、今度生まれ変われるならば、貝になりたいというものであった。これは詩的な印象を与える言葉でもあって、この映画をさらに有名にするのに一役買っているが、戦犯が貝のように口をつぐまず、むしろどんどん手記を出して実際に体験したことを公表すべきであった。そうした手記でさえも、無視されたり、全く正反対のことが堂々と主張される時代で、戦争の記憶は風化するどころか、逆に美化や捏造されて行くことを思うからだ。