傍らの温度計が33度まで上っている。「あすなろ薬局」と印刷されていて、大阪で母がもらったものだ。それをいつ筆者がもらったのは忘れたが、3階の筆者が座る右手40センチほどのところにかけてあって、さすが今頃の猛暑になると気温をよく確認する。
15分ほどで日づけが変わるが、深夜なので昼間より4度ほど下がってようやくこうして書く気になれる。33度でも猛暑だが、真昼の37度に比べると天国だ。今から書き始めて、投稿は日が変わる明日になるが、ずるずると予定を先送りする「あすなろう」主義はよくない。そう自戒するほどでもないが、昔から気になっていることはなるべくけりをつけて行くつもりにはなっている。今日取り上げる映画もそうだ。この映画は毎年祇園祭の7月中旬に京都文化博物館の映像ホールで上映される。7,8年前から気になりながら、今年ようやく見た。そして予想とはまるで違った内容に驚いた。3時間近い長編で、館内で配布されている説明書によれば、今回上映されたフィルムは、この映画の監修と監督を担当した山内鉄也、美術監督の井川徳道の監修のもと、最新の光学的技術で調整プリントされたもので、わざわざ会場に足を運んで見る価値はあろう。シアターでは前回は新藤兼人の『原爆の子』を見たが、上映が終わって会場を出ようとした時、自治会に所属する住民ふたりと会った。どちらも筆者より年配の女性で、普段よく話をする。彼女らの方が筆者の姿を先に認めていたらしい。片方の女性はシアターが新しくなってからよく見に来るそうで、今回は初めてというもう片方の女性を誘ったそうだ。数日前にも来たというので、えらく熱心だなと思ったが、後述するようにその理由がわかった。祇園祭の宵々山の15日、家内と一緒に文化博物館の展覧会と映画を見、その後歩行者天国へ出かけようと計画した。館に着いたのは映画が始まる1時間前だ。これはシアターに入場出来るまで30分前の余裕がある。その時間では展覧会はとても見られないので、シアターのある3階の第2会場を先に見ようと考えた。浴衣を着て京都らしさを演出している女性係員をつかまえてチケットを提示しながら、4階の第1会場は映画を観終わってから入場するので、先に第2会場、そして映画という順に見たいことを申し出た。いつもはそれがすんなりと受け入れられるのに、迷惑そうな顔で拒否された。仕方ないのでまず映画を見ることにしたが、開場30分前であるのにもう20人ほど並んでいる。それでその後尾につき、家内を待たせて前回もらったのと同じ解説書を列から10メートルほど先に歩んで1部取りに行った。どんどん人がやって来て、10分ほどの間に100人近い人が並んだ。これでは第2会場をゆっくり見ていると、シアター前の空間からはみ出た。それにしてもこんなに人気があるとは不思議で、説明書を見ると、表紙の下、かなり小さな文字で、7月3日から9月7日までは家庭の節電支援のために同館の3階は入場無料と書かれている。つまり、映画をただで見ることが出来る。このことを初めて知った。以前からわかっていたなら、新藤監督の別の作品を無理して見ればよかったが、幸いなことにまだ2本ほど上映される。それはともかく、自治会のふたりがやって来たこと、また係員が第2会場を先に見せなかったことの意味がわかった。映画は無料であり、有料の展覧会とは別に考えるべきなのだ。節電対策というが、会場まで行くのに交通費が必要であり、また最寄の駅やバス停から10分は歩かねばならない。それを思うとよほどの映画好きでなければ足を運ばないが、筆者らのすぐ後に就いた老婦人は滋賀県からわざわざ見るためにやって来たと語ったし、開場までに100人以上も並んだのであるから、楽しみにしている人は多いと見える。また、開場15分前頃、ある男性が大声で係印に「これだけ大勢の人が並んでいるのだから、気を利かせて中に入らせるべきだ」と抗議した。それをたしなめる小さな声も上がったが、男性は同じ言葉を繰り返し、言い分が認められないことに対して、「お役所的な考えは駄目だ」と言い放った。それが効いたのかどうか、いつもより5分早い開場になった。
祇園祭に映画『祇園祭』を見るのは乙なものだ。ポスターは昔から知っているが、中村錦之助の背後に鉾が3つほど見えて、豪華な内容であることはわかるものの、時代はてっきり江戸かと思っていた。そうではなく、応仁の乱の直後だ。当時祇園祭は戦乱のために30年の中断があった。それを町衆がいかにして復活させたかを、複雑な身分社会を描きながら娯楽映画にまとめている。3時間は長く感じなかったが、最初の方、5分ほど眠った。それは主役の中村錦之助演ずる新吉と、河原者の美人の娘であるあやめとの逢瀬の場面だ。何とふたりのキス・シーンまであった。それは必要ないが、そういう部分を描かねば、あまりに歴史教科書的過ぎると懸念されたのだろう。巨額を投資して製作する映画であるだけに、いかに多くの宣伝になる要素をこれでもかというほどに投入する思いがあった。昭和43年(1968)製作で、当時映画はTVに押されてかつての栄光を失っていた。それを挽回したい思いから、錦之助が自らの独立プロダクションを率いてこの映画に挑んだ。解説書によれば、1950年に当時立命館大学の林家辰三郎が中心となって製作し、巡回公演した紙芝居『祇園祭』を伊藤大輔監督が興味を持ち、その台本を入手して映画化を企画した。1961年、その紙芝居と同じ史実に基づいて小説が書かれた。伊藤監督をそれを底本にして中村主演で映画化を東映に申し出た¥が、製作費がかかり過ぎる理由で東映は断念した。7年後にプロデューサーの竹中労が府政100年記念事業として京都府に企画を持ち込み、府は全面的に協力することに決めた。そして日本映画復興協会の名のもと、製作が始まった。脚本は新吉とおあやめのロマンスよりにアレンジされたという。あやめを演じる女性が最初誰かわからなかった。後で家内に訊くと、岩下志麻とのことで、なるほどと思ったが、家内はあきれていた。3時間近いので、登場人物はかなり多い。また、戦国時代の歴史をある程度知っておかねば理解に苦しむところがあるだろう。この点は原作となった紙芝居の台本を見たいが、存在しないようだ。それはともかく、1950年の林屋の京都学者としての思想がその紙芝居には色濃く染み込んでいるはずで、それがようやく1968年に映画化されたことは、歴史的に見ればすぐであったが、その時代を生きて来た筆者から見れば、もっと早く映画が作られてもよかったと思う。だが、よくぞ京都府が協力して映画化した。今後何百年経ってもこの映画を超える戦国時代の祇園祭復興を描く内容の作品は撮影出来ないだろう。確かに戦国時代の貧しい人たちの生活がどのようであったかに関してはその後研究が進み、またこれからも異論が多く出て来るはずだが、日本映画がまだ多くの優れた俳優を抱え、また映画が大きな娯楽であった時代はもう到来しない。アニメでは可能だが、大人が鑑賞するに耐えるものが出来るとは思えない。
京都文化博物館がフィルムをリニューアルしながらもこの映画を毎年上映する意味が今回はよくわかった。とびきりの名画ではないが、祇園祭に一度でも足を運ぶ人は必見もので、京都の力を再確認することになる。この映画を見ながら、大阪が同じように文化的なことに思い切って予算を使い、後世に長らく残る作品を作らないものかと思ったが、何事も時代の巡り合わせで、京都の1000年以上の歴史のある祭を舞台にして1968年に作られたことは、関係者たちの機会をつかむ運に恵まれていたことを思わないわけにいかない。それは一方では当時の京都の産業を見るべきで、新吉が携わる職業が染物師という設定がなるほどと思わせる。戦国時代はまだ友禅染は登場していなかったが、西陣織の「西陣」は、応仁の乱の西側の陣地のことで、その地で復活した織物を指す。つまり、応仁の乱を避けて疎開していた職人がぼつぼつと市中に戻り、さまざまな仕事を始めた。新吉が携わる藍染の仕事もそうだ。祇園祭の山鉾は室町通りを中心に東西に散らばるが、それは現在でも呉服問屋が中心となっている町だ。染めや織りにおいて京都は日本最大の産地であり続け、この映画が撮られた1960年代は空前の景気に沸いた。それがあってこの映画に府が出資することが出来た。つまり、新吉を染物師にすることは当然であって、祇園祭、山鉾は染織と切り離すことが出来ない。新吉の青く染まった指先が何度か大きく映り、染色職人であること見せつけるが、実際に新吉のような藍染師が山鉾巡行の立て役者になった証拠はない。だが、そういったフィクションをいろいろを織り混ぜるのは娯楽映画では致し方がないし、また戦国時代の祇園祭復興について詳細なことがわかっていないからには、想像力を駆使して面白い物語を構成するしかない。ただし、この映画は新吉ら町衆が武士に楯突く一方で、貧乏公家からは祭再興の助言を得るなど、京都における武士嫌いをこれでもかと描く。新吉は武士を人殺しと二、三度言い切るが、それは林屋の思想ではないだろうか。また、錦之助ら俳優はこの映画で描かれる河原者といわば同じ身分であって、その思いが錦之助にもあったと思わせる。ともかく、この映画では戦乱に明け暮れ、自分たちのつごうのいいように税を徴収し、睨みを利かす武士を批判していて、その武士の姿は現在のやくざとほぼ同じと言ってよい。昔ある外国人から武士とはどういう人たちであったかを質問された。その時筆者はわかりやすいようにと、「やくざ」と答えた。この映画を見ればまたその思いを新たにする。そういうやくざにひるまずに町衆たちが祭を復活させたという物語だ。そこには一種のイデオロギー色が濃く、製作当時の京都府政との関係も垣間見え、それも今となっては歴史として楽しみ、あるいはまた批判的に見ることが出来る。その町衆とは、言うまでもなく戦乱を避けて疎開していた職人たちで、彼らは農民とは違った身分であった。この映画には前述したあやめのように河原者が描かれる。また近江の米を京の市中に運搬する大津の馬借も大きな役割を演ずるが、ほかには山科の農一揆を頻繁に起こす農民、そして弓を専門に作る犬神人など、当時の人々がさまざまな仕事によって住む世界が違い、お互い反目し合って交流がなかったことが強調される。この点がこの映画の一番の見所と言ってよく、またそうした身分社会がこの映画に描かれるような具合であったのかどうかの疑問も一方で沸く。
あやめはまだ当時はなかったはずのきれいな染め物のキモノに身を包み、藍染師の中村と恋を交わすが、あやめが吹く笛の音色に新吉は魅せられる。祇園祭が途絶えて30年経ち、お囃子を演奏する人もいなくなりつつあった時、その最後の生き残りから新吉は笛を託される。そしてあやめに接近して恋愛関係になり、また笛の吹き方を伝授してもらう。そのことが祇園祭のお囃子に活かされた。だが、これも史実に忠実かどうかはわからない。山科の農民の暮らしぶりには胸が痛むものがあった。今でも山科は京都市内でありながら、中京から見ればそうではない雰囲気がある。山を越えるからだが、その思いは戦国時代でも同じであったろう。山科の農民は餓死寸前に追い込まれ、念仏踊りの集団に交じって中京の町衆に襲撃をしかけることが頻繁に生じていた。その農一揆に対抗するために新吉らは山科に行くがそこで見た光景は貧しい生活で、その原因が武士にあることを知る。また、大津から運ばれる米が逢坂の関で新たに税を徴収することになって、三船敏郎らが演じる馬借たちは理不尽だと主張して米を運ばなくなる。そのことによって京の市中は米不足に陥るが、金儲けをたくらむ連中は密かに米をかき集めて値上がりを待っている。いつの時代でもある弱者対強者の戦いだが、弱者は正直で義を重んじることで身分が違っても和平を結び、そして山鉾巡行を成し遂げるという、娯楽映画特有の描き方になって最後を迎える。新吉は長刀鉾に乗ってそれを進めながらも武士の矢に倒れ、戸板に載せられながらも鉾を八坂神社に向けて進行させるという、歌舞伎役者のような演技は、それはそれで日本映画独特の面白さを見せつける。頓挫しそうになりながら、ようやく監督も交代してクランクインした作品であるだけに、各映画会社から看板俳優の友情出演を得ることが出来た。ただし、たとえば小暮実千代の名前が最初にあったにもかかわらず、顔が映ったのはほんの数秒で、家内はそれに気づかなかった。小暮ほどではないが、高倉健や渥美清、それに美空ひばりもチョイ役で、ひばりに至っては出なくてもよい役柄で、見ていて少々恥ずかしくなった。だが、それも当時のひばり人気に少しでもあやかりたい、そのことによってこの映画を成功させたいという思いの反映だ。この映画が撮られた頃に比べて今の京都の政界は革新性が大きく減退した。そのため、これはあり得ないが、今この映画をリメイクすれば武士はもう少し町衆に同情的に描かれるのではないか。京都が武士色がうすかったのは江戸時代もそうであった。そのために独特の文化が育まれた。京都が日本のハリウッドなったのも道理であって、その理由はこの映画を見てもわかる。最初の写真は13日の長刀鉾、2枚目は宵々山すなわち15日で、四条堀川近い場所だ。そこは山鉾のある区域から離れて、江戸時代は京都の外れであった。ピンボケが惜しいが、横並びに若い男性5名が歩き、全員が頭に同じリボン型の赤や青などに点滅する飾り物を被っていた。それが何とも面白かった。