酩酊して前後不覚になることはもうなくなったが、先日はムーギョへの途上、頭の中がジーンとしてオルガズムを感じた。たまにそんなことがある。
思いに酔っている時で、たいていは好きな音楽を頭の中で再生している間に起こる。それは精神の酩酊で、酒で酔うのとは全然違う。酒で酔うのはそれはそれで気分がよいが、筆者の場合のそれは、同席した人と話が弾んだ時だ。ひとりで飲んで酔う経験はまだしたことがない。韓国ドラマではいやなことがあると男女とも必ず酒を飲むが、そういう飲み方は一番体によくない。だが、体のことなどかまっておれないほどにいやなことがあり、それを忘れるためには飲まずにはおれないか。何度も書くように、筆者は酒はなくても我慢出来るが、蒸し蒸しする今時は、ムーギョに行く3回に1回は缶ビールを買おうかと迷、3回迷った1回は買う。そんな気なるのは、ビールがおいしい6,7月の蒸し暑い頃によく大阪でNと飲んだからだ。それ以外にも筆者には梅雨時の思い出が多く、この季節は好きだ。そう言いながら、冬もいいし、もちろん秋や春もいいと思う。つまり、嫌いな季節はない。ということは人生が面白いと思っている。同じようなことはかつてNも言った。大阪で飲んだ時、いつもに増して陽気で、人生をこれほど楽しいと思ったことはないと笑顔で話した。Nのそういう絶頂の思いはさほど長く続かなかったが、人間とはそういうものだ。最高に楽しいと思える瞬間があるだけでも生まれた来た意味がある。人生に酩酊しないならば、生に何の意味があろう。今月27日はNの命日だ。その時には缶ビールを2.3本買って帰り、Nを偲んで飲むつもりでいる。酩酊は決してしないが、好きな音楽をかけ、家内相手にいつもように取り留めのない話をすればそれはそれで楽しい。ところで、頭の中がジーンと打ち震えるのをオルガズムの快感のようだと呑気なことを言っているのはまずいかもしれない。医学的に見れば、それは脳内の血管が詰まっていた箇所が突如多く流れるようになったことで、医者に診てもらうべき深刻な症状の前触れかもしれない。小便を我慢していて、それを一気に出すととても気分がよいが、それを思い出す。頭の血管が詰まって寝た切りになってしまう可能性は筆者の年齢では充分あり得る。寝た切りではなく、そのままあの世に行く方が周囲に迷惑をかけずにいいが、こればかりは神のみぞ知る。Nが最高に楽しいといったことは筆者にはわからないのは当然だが、そういう思いにはいつでもなれる。
今日のムーギョとトモイチ行きには、最初傘を持って出なかった。家から100メートルほど歩むと、2年前に自治連合会で親しくなった、隣りの自治会長をしていた70代のUさんとばたり会った。そして立ち話をしている間にポツポツ降って来たので傘を取りに戻った。Uさんと話していて、親しくしたのが2年前とはとても思えなかった。その人の翌年つまり昨年の会長とも親しくなり、そして今年の会長ともすぐに馴染んだが、2年は本当に一瞬だ。Uさんの顔を見ながら、とても不思議でまた頭の中にジーンと流れるものを感じた気分であった。はははは、そう言えばムーギョの帰り、松尾橋から蝉の声を今年初めて聞いた。いや、一昨日大阪に出た時、淀屋橋の裁判所近くで鳴いていた。それが初めてだ。今年は早いのか遅いのか、蝉が鳴くと真夏と言うほかない。さて、傘を持ってすぐにまたムーギョに向かった。このビニール傘、家を出て100メートルほどの小糠雨に差した切りで、結局邪魔になった。2リットリ入りの酢やそのほか買い物を両手いっぱいにしたからだ。酢を買ったのは酢漬けにする新生姜を一昨日大阪天神橋筋商店街のスーパー玉出、そして今日ムーギョでも少し買ったためだ。砂糖漬けや冷やし飴も作りたいので、1000円分では足りないが、家内は生姜など辛いものが全く駄目で筆者ひとりで食べる分でよい。ちょうど今頃が一番安いが、もう1週間するともっと安くなるはずで、その時にまとめ買いをしよう。そう思っていながら、全部売り切れることが多い。どうでもいい話のついでに書くと、今日のムーギョからの帰り、松尾橋バス停のわずかなアスファルトの隙間に生える白いスミレに交じって背丈50センチほどの雑草が5,6本生えていた。通り過ぎて10メートルほど行ったところで思い直して引き返し、力を込めて根こそぎした。重い酢やかさばる傘など両手がふさがって少しでも早く家に帰りたかったが、スミレが雑草に置き換わってはかわいそうだ。どこにでもある雑草とは違って白スミレはめったに見かけない。毎年抜いてもまた同じところに雑草が生えるのはどうしたことだろう。全部引き抜いて橋をわたると、往路の時の倍の川幅になっていた。雨が上がって10時間以上経つのに、松尾橋まで雨水が流れて来るのにちょうど同じほどの時間がかかるのだろう。
川をわたっていると、あまりの風の涼しさに今夜はこのまま橋の上にたたずみたいと思った。天然クーラーの心地よさは電気クーラーの比ではない。そう言えば節電対策のためか、阪急嵐山駅の待合室は数人しか座れない狭さでクーラーがよく効いていたのが、今年は切ったままでついに照明も全部消している。それが空き家に見えて何となくわびしい。そう言えばUさんは今日自治会内に最近空き家が目立つと言った。老人が亡くなってそのままで、子孫が売りに出す気配もないらしい。Uさんはこれからは急速に空き家が増えるだろうと語った。そう言うUさんも数年前に奥さんを亡くしてひとり住まいだ。嵐山は買い物に不便で、筆者も昔は四条大宮界隈に住みたいと考えた。そんなぼんやりとした願望はめったに実現しない。本当にこうありたいと願っても実現しないのであるから、ぼんやりが駄目なのは言うまでもない。だが、そんなぼんやり願望はそれなりに楽しい。何が何でも実現させるというほどの強い欲求があるのではない。どっちでもいいが、どちらかと言えばこっちかといった程度の望みだ。欲をそのように少なく小さくしていると、苦しさを覚えにくい。そう言う筆者の苦しみは何だろう。これを書く3階の部屋の温度が30度を越え、蒸し暑くてたまらないので、考える気分が削がれるのが目下のところ最大の苦しみだが、それを解消するには早く寝て早く起きればよい。そう思っていると、深夜2時の今、大変な大雨が降り始め、ステレオの音楽が聞こえにくくなった。これほどの大雨では昨日見た祇園祭の長刀鉾は覆いの隙間から侵入する滴で濡れているのではないか。最近筆者がここ数か月、連日連夜、今も聴いている音楽については、来年には感想を書くかもしれない。ムーギョへの往復、その音楽を思い浮かべようとするが、何百回も聴いているのにメロディが明確にならない。それでも聴いている時の心地よさは再現され、たまに頭の中がジーンとしてオルガズムを感じる。ブログ用に写真はMOに収めている。それをずらりと見ながら、春から溜まっていた写真と合わせて白花を3枚乗せる。題名は去年の梅雨に使用した。その続きであるから、去年と同じ花の写真を載せるのはまずいが、ムーギョへの往復、白い花は限られる。ただし、去年見なかったグラジオラスの白花を畑の中に1本だけ見た。それが5メートルほど離れたところに半ば狂い咲きした白の花菖蒲と対話しているようで面白かった。白のチューリップは同じ畑に4月に咲いた。白のアジサイはその畑に近い小川沿いで見かけた。アジサイは青もいいが白もいい。そうそう、ここ2,3日は筆者は白の半袖シャツを着ている。夏は白がいい。女性も真っ白なワンピースが似合うのがいい。何に酩酊しているのやら。