丹下健三が設計した広島の平和記念資料館の建設途中の姿が、今日取り上げる映画に映った。『原爆の子』という題名はにわかにはどういう内容かわからないが、原爆が投下された後の孤児を指す。
映画でも語られるが、当時の広島の孤児は割合で言えば東京大阪より多かった。『悲しみは女だけに』について先日書いた。ちょうど今は京都文化博物館のフィルム・シアターで新藤兼人の作品を上映中だ。全部見たいのはやまやまでも、時間のつごうもあって今日の分だけは見ておこうと決めた。いつものように特別展覧会を見るついでで、珍しく午前中に家を出た。上映は午後1時半と午後6時とだいたい決まっていて、午後1時半の部は満席に近くなる。30分前には3階に下りて会場のドア前に立つが、今日は40分前にもかかわらず、筆者が並んだのは18番目だ。10番目ほどに背の高い欧米人がいた。英語の字幕がなくても理解出来るのだろうか。「原爆」に因む映画なので見ておこうというのだろか。ドアが開いて中に入れるまでの10分、そんなことを考えた。開場直前、つまり筆者が並び始めてから10分の間に、後方に50人ほどが並んだ。収容人数は200から300と思う。上映が終わって館内が明るくなってわかったが、満席ではなかった。そうであるならば、もう少しゆっくり展覧会を見てもよかった。とはいえ、日曜日もこのシアターに行くつもりでいるので、展覧会はその時にまた見ればよい。さて、この映画は昭和27年(1952)の制作で、当時筆者1歳だ。子どもの頃は自分が生まれる前の時代の出来事に関心を持たないのが普通だ。学校でいろいろと教えられる中、数千年前はどうであったかなどの歴史を知り、また周囲の大人から10年や20年前はどんな暮らしであったかも伝えられるが、自分の知らない昔のことには興味を抱きにくい。それには想像力が欠かせない。だが、人はそんな昔のことに想像力を使うよりも、こうあってほしいという夢物語を思いがちで、そういう望みを満たす小説や映画がいつの時代でもどんどん作られる。となれば、戦争が終わってまだ7年という時に原爆を主題にした映画を撮るなど、ほとんど収入のことを考えない自殺行為だろう。新藤監督はそれをやった。しかもまだまだ日本が貧しい昭和27年のことだ。当時誰が同様のことを考え、また実行したであろう。そういう古い映画に無知な筆者であるので、今回はぜひともこの映画を見たかった。原爆を取り上げるとなると、何かを非難するドキュメンタリー作品に傾きがちだ。お金と時間を費やしてまで暗い内容に接することはないと考え、その手の映画など見たくはない人が今も昔も多いだろう。それを監督は重々承知のうえでこの映画を撮ったと思う。そして、結論を言えば、原爆を落としたアメリカを、あるいは戦争を起こした軍部を憎むというのではなく、また運命として何事も諦めるというのでもなく、淡々と事実に沿った描写を綴る。それはつまるところ人間愛への信頼だ。そのため、この映画は原爆が話の中心を占めるものの、たとえば去年の巨大地震を主題にしても似た内容の作品を撮ることが出来る。だが、今やそれはTVのニュース特集でまとめれらることが多く、こうした事実に基づきながらの創作という映像にはならないのではないか。そして、事実をありのまま伝えるというそうした昨今のニュースがどれも実感を伴わず、すぐに忘れ去られるのに対し、事実そのものを撮影してはいないこうした映画がかえって当時の被爆者の声を留めることに今さら感じ入る。
広島出身の新藤監督は広島の原爆を映画の形で残すことを義務と考えたのだろう。それには優れた脚本が欠かせないが、脚本家として出発した経歴を持つ監督は、よい原作を見つけた。シアターで配布されている説明書によれば、被爆した児童が綴った作文を広島大学教授で自らも被爆した長田新が編集した「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」が原作で、その作文はこの映画でも映し出される。だが、その本に沿った少年少女は登場しても、映画としてまとめるために、かつてそれらの少年少女を幼稚園で教えたことのある小学校の女の先生を主役として、彼女が夏休みに7年ぶりに広島の街に行って子どもたちを訪ね歩くという構成を作った。そのため、原爆投下の瞬間ではなく、それから7年後のことが話の中心になる。だが、被爆者の置かれた状況、また女教師の7年後すなわち現在の行動を伝えるには原爆投下の当日の様子を描くことを無視出来ない。そこで誰しも想像するように、投下直後の全身火傷を負う惨い姿の人たちが登場する。それはもちろん役者が演じ、ボロをまとって爛れた肌から血を吹き出させるなど、白黒映像も手伝って本物の投下直後かと思わせるほどに迫力がある。だが、興味本位の見世物としてではなく、監督のせめてもの原爆への抗議という思いが感じられる。この惨たらしい場面をあまり引き延ばすと映画の本来の意図が違う方向に解される恐れがあり、ちょうどいい長さと描き方で収まっていた。また、投下直後の悲惨さよりも、その前の投下時刻に向けて女教師が家族とどういう朝を迎え、どういうように子どもたちと学校で接したかを描く場面の方がはるかに胸に響く。そういう平凡で平和な日常が一瞬のうちに地獄に変わる。それは今まで何度もあらゆる形で表現されて来たが、この映画は事実を記録する映像ではないにもかかわらず、編集の巧みさによって息づまる空気を湛えている。それはその時代を生きた監督であったからだが、その日常への眼差しはいわばいつの時代でもまたどこにでもある。実際、この映画では戦争が終わっているにもかかわらず、空から聞こえて来る飛行機のエンジン音の不気味さに主人公たちが無言になる場面がある。それは監督にすれば、狭い見方をすればB29の後遺症だが、いつの時代にもある不幸な出来事の後のPSTDのようなものであって、平和は不幸と裏表の関係に常にある。話を戻して、原爆投下当日の朝の生活の描写は、原爆投下後の悲惨さと対比されるだけに、その平凡平和な暮らしがいかに人間にとって永遠に尊いものであるかを伝える。女教師の孝子は乙羽信子が演じるが、清潔感があってとてもよかった。孝子は広島の街では使用人も抱える裕福な暮らしをしていたが、両親や妹を原爆で亡くし、また家屋は瓦礫となったまま放置されている。それはこの映画のために特別に作ったのではなく、当時は市内にいくらでもそんな戦争直後同様の場所は残されていたのだろう。孝子は未婚で、瀬戸内海のとある島で小学校の先生をして親類の家に身を寄せている。原爆投下の日はどのようにして被害を免れたのかは描かれないが、ともかく今は島に骨を埋めるつもりだ。その昔と変わらない段々畑のある美しい島と復興の途上にある広島の街が対比されるのが見物でもある。
昭和27年の原爆ドームや広島城周辺の様子をたっぷりと見せてくれるので、当時を知る広島の人たちには思い出深いだろう。1歳であった筆者が当時の大阪のことを鮮明に覚えているはずはないが、それでも都会の雑然とした空気は充分想像出来る。また、大人になってこうした自分がまだ幼かった頃の映像を見ることでその想像をよりリアルなものに鍛え続けるもので、かくて自分が生まれる前の世界のことも、何となく経験したことがあるように感じられる。人間は生まれて老いて死ぬが、その6,70年の人生は、自分の子ではなくても絶えず新しく人が生まれて来るので、人間としての共通の意識を持つように遺伝子が構成されている。その意思を記憶と言い換えてもよい。自分はこの60年を生きたばかりではあるが、もっと昔の親やその親の世代のこともどこかに記憶されているという感触を持つ。確かにひとりの人間の生はごく限られた年月に過ぎないが、思いようによっては人類の、あるいは生命の全てを知り得るという考えだ。そう思えば古いも新しいもない。そして、この映画に限っても、現在のことのように感じることが出来る。新藤監督もそのように思ったのではないだろうか。でなければ作品行為など出来ない。子どもを除き、監督も含めてこの映画に登場する俳優は全部もうこの世にはいないが、映像を通じてそれはいつでも人の心に蘇る。そして、作品に存在を留めない人たちも必ず誰かの意識の中に残り、それは次世代に伝えられて行く。たとえばこの映画ではそんな無名の人の代表として、孝子の使用人であった岩吉爺さんが登場する。孝子は原爆ドームの近くを歩いている時、橋のたもとでひとりの物乞いの姿を見かける。被爆して顔の半分が焼けただれ、また視力のほとんどを失っている。孝子が声をかけると、最初岩吉は自分を隠すが、孝子に促されて岩吉の家に向かう。そこは城のすぐ際の荒れた草地に建つ掘立小屋だ。そこで岩吉は原爆で死んだ息子夫婦が残した子と一緒に暮らしている。当時の広島は市電が走り、大きな道路沿いには急ごしらえの店が歯抜けのような状態で建ち始めていたが、岩吉のような境遇の老人は少なくなかったはずで、生活保護もないままに貧しい暮らしを強いられていたであろう。岩吉は孝子と同格の主人公で、映画の後半はより出番が多くなる。そこに新藤監督の目線の低さがあり、原爆で何もかも失ってしまって生きる望みを持てなくなっている貧しい老人が、せめて自分の目が黒い間は残された孫の面倒を見るという設定は胸を打つ。貧しい暮らしはいつの時代にもある。今ではわが子を虐待したり、殺す親もいる。それはもっと時代全体が苦しかった戦後間もない頃以上ではないだろうか。それはさておき、当時原爆は建物を破壊し、多くの人を殺しても、岩吉のように被爆した人の温かい心を抹殺することは出来なかったというのが、監督が一番言いたかったことだ。
新藤監督はこの映画を劇団民藝と150万円ずつ出資して近代映画協会の第1回自主製作作品とした。当時の300万円が現在のどれほどに値するのか知らないが、自費を投じて自分たちで望む映画を撮るという意気込みは大したものだ。それこそフィルムは1秒単位で何をどう撮るか厳密に計画されたはずで、どのカットにも無駄がない。限られた予算であるからなおさら真に迫る映像となった。話を戻すと、友人宅で泊まることになった孝子は疎開していたお陰で焼失を免れた7年前の幼稚園の卒業写真を見せてもらう。そこに写る3人が無事に市内にいることを知り、翌日孝子はひとりずつ訪ね歩く。3人のうち女の子は孤児となって教会で育てられたが、原爆症のため、もう余命がない。にもかかわらず、彼女はベッドの上で笑顔で孝子を迎え、毎日みんなに幸福が訪れるように祈っている。この場面ではしつこいほどに磔刑のキリスト像が映った。キリストは原爆を落とした国の宗教だ。だが、こうした孤児の面倒を見たのは事実であろうし、それは仏教寺院ではなかったことではないだろうか。教会で賛美歌を歌ったり、またお祈りをする場面では、実際に顔や手を被爆した若い女性が映った。それは原爆への抗議ではあっても、それを落としたアメリカを断罪していないと見るべきだ。敵も味方もなく、困っている者は助けるという教会の、そしてもうすぐ死ぬという少女の思いをこの場面で描きたかったのだろう。孝子は呆然として言葉を失ったまま教会を後にする。次に、残りふたりの少年だが、ひとりは兄と靴磨きをしており、母は建設中の平和記念資料館で肉体労働をしている。少年は、父が原爆症で死の間際にあることを知らされ、慌てて母を呼びに行くが、帰宅した途端、寝床で夫は死ぬ。ちょうどその時に孝子は家を訪れ、なす術がないことに立ち尽くす。平和記念資料館は当時完成半ばであったことがわかる。少年の母は同じような女性たちと横並びになって細い柱状のコンクリートをたがねと鎚で削っていたが、あれはどういう作業なのだろう。せっかく打ったコンクリートを削るのは、角に丸みをもたせるためか。平和記念資料館は仕事のない人に職を与えることになった。建設中の内部を撮影した映像はこの映画のみではないだろうか。平和記念資料館という説明はなかったが、そうした新しく建ちつつあった建物に目を向けたのも監督の才能で、記録映画的な部分も併せ持つ。この建物には筆者は一度だけ訪問したが、その記憶はこの映画で見る感覚と同じであった。さて、残る少年は最も胸を撫で下ろす境遇で心温まる。それでも父の妹は原爆で倒壊した家の下敷きになって片足が不具になっている。彼女には結婚を約束した相手があり、孝子が訪問したのはちょうど嫁ぐ日であった。相手の男性も戦争で財産を失い、経済状態を建て直すために5年待ってほしいと伝え、その約束の5年目が当日であった。兄はそんな心の優しい夫に恵まれた感謝の思いを一緒に銭湯に行った帰り、橋の上で孝子に打ち明ける。原爆があっても心が壊れなかった一例だ。この映画の結末は書かないでおこう。自分の子どもではなくても育てるという思いが人間にはある。先に遺伝子と書いたが、遺伝子は個人によって異なるが、共通部分もある。それは人間としてのまっとうな心だ。それは多くの悲しみに出会いながら、無数の傷を負う。だが、芯からは壊れない。10番目に並んだ外人はどういう感想を抱いたであろう。方言が多いセリフであったが、録音がいいのか、声はよく通っていた。