劇薬と毒薬は違うが、劇の薬とは面白い表現だ。劇は激に通じるが、演劇は激しいしゃべり方や動きをするのでそう呼ぶのだろう。これは日本の劇には似合わず、中国の京劇を思い出すべきだ。
それはともかく、今日取り上げる映画を右京図書館で借りて来たDVDで見た。DVDのケースを見るとルイ・ジューヴェが出演している。それですぐに借りることにした。有名な映画で昔から題名は知っていたし、今でもパリにこの映画の舞台となった北ホテルがあることを本で読んだことがある。昔からの気がかりを機会があるごとに解消して行くつもりでいるので、図書館のDVDは助かる。とはいえ、右京図書館にあるのはごくわずかで、もう見たいものが底をつきそうだ。ルイの映画は20代に2,3本見た。当時見た昔の映画は大半が記憶にない。それでひょっとすれば『北ホテル』も見たかもしれないが、見ても忘れているのであれば新鮮に見ることが出来る。ルイの出演作で思い出すのは『旅路の果て』だ。これはロジェ・カイヨワの著作『旅路の果て-アルペイオスの流れ』を似るが、原題を比べてみる必要がある。『北ホテル』は1938年、『旅路の果て』はその翌年の制作だ。ルイは「渋い」という表現がぴったりな役者で、最初は演劇俳優であった。DVDの特典映像を見て知った。監督や美術監督、俳優などのインタヴュー映像が本篇とは別に含まれていることを昨夜知った。DVDは収録されている内容が本編に続いて自動的に映るように仕組まれていればよいのに、メニューのカーソルを動かして決定する項目の表示が時にとても紛らわしく、全項目を見ないで済ますことがある。今回もそうで、文字による解説などは本篇を見た直後に全部読んだのに、ネットで調べていると特典映像が収録されているとあって、慌ててDVDをセットし直して調べた。すると文字解説とは別の画面から予告編や監督インタヴューなどが見られるようになっていた。それはともかく、特典映像のインタヴューによってルイの最初の映画出演が『北ホテル』であるとあったが、今調べるとそうではない。その5年前から劇団の台所事情が苦しく、映画に出ていたようだ。「最初の出演」ではなく、「最初に大きな注目を浴びた出演」の意味だろう。字幕は表示字数に限りがあるから、省略したに違いない。いずれにせよ、ルイは劇団俳優で、『北ホテル』出演時は50歳、貫禄充分の姿を見せる。当時のフランスでは劇団と映画は交流がなかったのか、ルイはマルセル・カルネ監督から推薦されながら、資金を出す映画会社の制作者は彼を知らず、初めはうんと言わなかった。制作者が最初に考えたのは、この映画の主役に当時絶大な人気のあったアナベラを起用し、彼女にきちんとし服を着せて清楚な美しさを描くことであった。それはそれで充分に成功しているが、映画で面白いのは脇役だ。この映画には下町のホテルに滞在する人や周辺の馴染みの住民など、それなりに登場人物は多いが、それら脇役がみなそれぞれ物語を背負っていて存在感がある。そして、その物語の中身が暗くて深いほどに翳を帯びて観客に強い印象を残す。
この映画は演劇風で、ホテル内部の話が大半を占める。そうなればますます多額を費やしたセットが無駄に思えるが、わずかに映る場面に多額を投入するきっぷうのよさは観客にも伝わる。登場人物は数人の子どもも含めて多いが、アナベラ演ずるルネとその恋人ピエールのジャン=ピエール・オーモン、そして脇役ながら主役より目立つ中年男エドモンのルイ・ジューヴェとその彼女である売春婦レイモンドを演じるアルレッティという4人が中心となる。アナベラがかなりかすんでしまった感じで、これは制作者の思いに反する。だが、大ヒットしたからには文句はない。特典映像を見て驚いたのは、1938年というまだ戦争中に作られたにもかかわらず、実際のホテルでのロケが無理と判断され、運河やその畔に建つホテルなど、街角全体をセットで作ったことだ。撮影は1か月で終わったが、セットの予算が15万フランで当時としては多額であったらしい。運河を掘るために場所を探し、墓地を使用したというが、とてもセットとは思えない。ホテルの外側の道路や運河だけでもロケでよかったように思うが、ホテル内部も含めて全部映画のために作ったのであるから、お金と意気込みのかけ方が違う。セットは美術監督の担当で、彼へのインタヴュー映像ではセットの素描が何枚か写った。建築家や画家の才能を持ち合わせた人物が映画界にぞろぞろいたことを思わせる。セットの経費が15万フランと聞いて映画製作者はびっくりしたが、それだけ投資するには絶対に元を取る成功を目指すという、監督との意識の協調があったのだろう。アナベラとピエールに支払われたのが5万フランと言っていたが、セットの費用から思うとこれが高いのか妥当なのか。下品な言葉でまくし立てるアルレッティの演技が見物で、封切り直後から大きな話題になり、監督はインタヴュー映像できっとこの映画以降彼女のギャラが上がったと語っていた。ところが、70歳になったアルレッティがこの作品を回顧して淡々と語る映像によれば、その後何も変化がなかったという。そこからは、大きな収入を得るのは主役のみで、脇役の光る演技は監督や製作者にとって思いがけない儲けものであることだ。アルレッティの売春婦の演技は、他の作品では同じようには使いにくい。彼女は後に同じカルネ監督の『天井桟敷の人々』に出るが、昔ビデオに録画しながら、また見なければと気になりながら、今ではテープがどこにあるかわからない。ついでにながら、カルネは同じく詩人で6歳年長のジャック・プレヴェールと共同で脚本を書きながら、やがて袂を分けた。インタヴューではプレヴェールの居場所がわからなくなったためと語っていたが、共同制作の安心感が煩わしさに変わったのだ。ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーを思えばよい。カルネとプレヴェールの共作がなくなったのはカルネ40歳の頃だ。映画に突き進むカルネとは違って、プレヴェールは画家との関係を深め、また「枯葉」に代表されるようにシャンソンの作詞で有名になった。カルネは父が家具職人で、自分も最初はその勉強をしたが、映画の学校に学んだ。そのため、カルネの作品は職人的な手堅さがあると言ってよい。『北ホテル』も無駄が一切なく、これ以上完璧であることが考えられない作品になっている。家具のようにしっかりと頑丈に作られた作品で、脚本、俳優、撮影など、あらゆる素材を最高の技術でまとめ上げている。また、家具は用を足すもので、映画にどのような用があるかとなると、しょせん娯楽という見方があるが、1938年当時のフランス人や映画界の倫理感が露になっているはずで、それを現在と比べて楽しむという鑑賞方法もあり、古い、あるいは異国の映画を見る楽しみはそこにある。
アナベラもアルレッティも役者としての姓を名乗らず、現在のボノやスティングを思わせる。この名のみの系譜はどこまで遡ることが出来るのだろう。映画では最初にアナベラの名前が大きく紹介され、彼女の人気のほどがわかるが、筆者はそれほど美女とは思わない。それはいいとして、タイトル・ロールは俳優の名前が順に表示されては水の流れでかき消される。映画の題名も同様に白抜きのレタリングで表示されるかと思いきや、北ホテルのファサード上部に記されるホテル名を映すことでそれに代える。だが、特典映像に含まれていた予告篇では俳優の名前と同じようにレタリング表示されていた。これは本番の封切りに、より美術的なこだわりを見せたことを示し、そういう細部にこの名作ぶりがうかがえる。それは本編が始まってすぐのカメラ・ワークにもうかがえる。北ホテルが面する川が映り、そこに架かる橋をわたって北ホテル方向にある川沿いのベンチにルネとピエールが歩んで行くが、クレーンを使用して橋の下をカメラがくぐり、そしてふたりの歩む方向を水面上から同じ速度で後を追う。これはセットであるからこそ何度も試行錯誤して可能となった映像であったろう。この最初の場面はルネとピエールの道行き、つまり心中へと向かうもので、映画の最後、ふたりが逆に北ホテルから橋へと進み、それをわたる場面と鏡合わせのように対になっている。この自殺を図ったふたりが希望を抱いて元の世界に戻るという話は、若いふたりに対して人生を諦めるなというメッセージだ。それは戦時中、ごく自然に人に受け入れられたであろうし、今なおそうであると言ってよいが、自殺者が年3万人を超える日本では、戦後何かが悪い方向に変化したとしか言いようがない。それはさておき、人生に幻滅したルネとピエールは、その風貌から両家の出かと最初は思わせられるが、ルネは成人するまで施設で暮らした不幸な女性という設定だ。アナベラは決してそう見えないが、見るからに薄幸そうな女優が演じると、最後の人生をやり直すという設定が今度はふさわしくなくなる。ピエールはスーツを着込んで育ちもそさそうだが、彼は売れない画家で金をなくし、将来に絶望した。それでルネを拳銃で殺して自殺する計画を企てて北ホテルに投宿する。そん晩、ベッドでルネの胸を撃つが、その音に気づいたエドモンが扉に体当たりして部屋の中に入る。ピエールを見たエドモンは咄嗟に彼を逃がし、刑事がやって来てもルネだけが部屋にいたと主張する。逃げたピエールは銃をホテル近くの植え込みに捨て、鉄道自殺を試みるが死に切れない。すぐに警察につかまって投獄される。一方、ルネは軽傷で済み、やがて北ホテルで働く。経営者夫婦は親切で、自分たちの子がなく、ルネがそうであったような孤児を引き取って育てている。美しいルネはすぐに看板娘となり、ホテルは以前に増して活気が溢れる。そして、ルネは死ねなかったことを恥じて冷たく接するピエールに面会に行っては、やり直したいことを告げるが拒否される。
エドモンは愛人で娼婦のレイモンドの部屋で住んでいる。身なりは紳士で、いちおうは写真家だ。カメラを持ち、また現像もしているが、いつか有名になってやると言いながら、その気配がない。ホテルではたまに鶏の首を絞める役割を引き受けたりで、周囲からは謎めいた不気味な男と思われていて、本人もそれを自覚している。そのエドモンがルネを撃ったピエールを逃がせた場面において、映画を見る者は一気にエドモンの過去に関心を抱くが、それはすぐには明かされない。ある日エドモンは川べりで子どが銃を持って遊んでいるのを見かける。ピエールの銃だとわかり、すぐに金を与えて懐に収め、ホテルに戻って自分の机に隠す。その場面でもなおエドモンは謎めいたままだが、やがて人生を語る場面がやって来る。落ちぶれて客が取れないレイモンドと暮らすエドモンがまともな人物でないことは明らかだが、そういう男にも男らしい行動があることをこの映画は示す。そこが一番の見所になっている。つまり、この映画の主役はエドモンと言ってよい。それは自分のした卑怯な行為を必ず購う時が来る、またその覚悟を持たねばならないという倫理観だ。そう思えばこの映画には悪人は出て来てもみな本当の悪人ではないと言える。さて、レイモンドはエドモンに惚れているが、女の敏感さと嫉妬心から、ホテルで働くルネにエドモンも魅せられていることを察する。ルネとエドモンは親子ほどに年齢が離れたいるが、ピエールの拒否に遭ったルネはエドモンの誘いに乗って、ふたりで別の場所に行って暮らそうと決める。そして船に乗り込むが、未練を絶ち切れないルネは出航直前、エドモンがいない間にひとりで船から降りてホテルに戻る。それより前、エドモンはルネに自分は数年前に仲間を裏切り、その仲間が投獄されたことを打ち明ける。卑怯者であることを言わずにはおれなかったのだが、これはピエールが死ねなかったことへの同情もあってのことだろう。一方、ひとり取り残されたレイモンドは、エドモンを殺すためにホテルにやって来た、かつてのエドモンの仲間に情報を与える。このレイモンドの冷たい仕打ちは、棄てられた女の腹いせと、いかにも娼婦ならやりそうなこととして理解出来るが、ホテル住民から親しい仲間として遇されている陽気なレイモンドのそのような裏切り行為は、エドモンのその後の行為に比べるとあまりにざらざらとして救いがない。これは当時の一般的な娼婦への眼差しを代弁しているかもしれない。同じように貧しくても、ルネは娼婦にはならなかったではないかと言えるからだ。仲間を陥れて生き延びたエドモンだが、一度は美しいルネから愛されたことを聞き、人生に思い残すことはないと覚悟する。ルネに逃げられたエドモンはまた同じ船に乗ってパリに帰って来る。パリ祭の夜だ。7月14日であるから、ちょうど今頃だ。夜のホテルの前では多くの人がダンスに興じ、また子どもたちは爆竹を鳴らして遊んでいる。いつもの部屋にそっと入ったエドモンは、そこに昔の仲間の姿を見る。虚を突かれたその男に対し、ピエールは上着のポケットに忍ばせていたピストルをベッドに投げる。撃てば相手を殺せるにもかかわらず、エドモンは銃を相手に取らせたのだ。銃が鳴った。爆竹の音に紛れて誰も気づかない。男はホテルを後にして群衆にまぎれる。やくざ者にも潔さが残っていたという描き方だ。これをどこかマックス・エルンスト似のルイ・ジューヴェが演ずるのであるから恰好よい。後の日本のヤクザ映画は大いにこれを参考にしたのではないだろうか。ほかの登場人物たちもみな性格描写がよく出来ている。だいたいは独身で気弱、うだつの上がらない人が多い。それは映画を見る平均的な人物で、この映画が大ヒットした理由もそんなところにある。また、人間は若い間はとにかく生き抜くべきで、望みのない中年を迎えてもう思い残すこともないと思った時には、生に固執しないのもよいとのメッセージを読み取ることも出来る。だが、病院で寝たきりで意識のない人が当時はどれほどいたのかいなかったのか、そのことが気になる。戦争中の映画であり、人々は明日がどうなるかわからない不安を大きく抱えながらも激しく精いっぱい生きる意志もあったと思える。