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●『悲しみは女だけに』
んなりさせられるというか、悲しい光景に出会った。夕方、いつものようにムーギョとトモイチに買い物に行った。ムーギョで以前にも二、三度見かけた覚えのある40代後半の髪の長い女性が今日は筆者の横で、同世代の男性店員に歌い踊るような素振りで話しかけていた。



てっきり店員と知り合いと思ったが、店員は素知らぬ顔をするし、また通り過ぎてその女性の顔を見ると目の焦点が定まっておらず、独り言を続けていた。片手には1リットルの牛乳パックを持っている。ほかにも買い物をするつもりか、店内を大股であちこち歩く。その間に筆者はレジを済ませたが、店の向こうの隅にいた彼女を見つめると、彼女は筆者の方にやって来る。これはまずいかと思って顔をそむけると、彼女は牛乳片手に自動扉を開けて外へ出て行った。その後を続いて出たが、彼女の万引きを店員に言ってやろうかと思っていると、筆者のすぐ前で彼女はUターンをしてまた店内に入って行った。以前見た時とは様子が違う。今日はすっかり頭がおかしくなっている。また、店員はみな知らぬ顔をしているところを見ると、以前から彼女はよく知られていたのだろう。たまにはまともに買い物を済ますのか、あるいはいつも独り言をしながら店内をうろついているのか。筆者はだいたい同じ時間帯に店を訪れるが、彼女は基本的には筆者とは違う時刻に利用しているはずだ。それにしても中年、しかも普通かそれ以上の顔立ちをした女性のそんな様子を見るのはつらい。どういう事情があったのかわからないが、耐えられない不幸が襲ったのは確かだろう。女性のファッションや表情など、全体を見ればどういう生活ぶりかがわかると言う。これは男でも同じだが、女性は女性が見る。電車通勤している家内は、生ゴミの臭気を発散している20代前半の女性と時たま隣り合わせになるらしい。その臭いによって彼女の収入や生活のだらしなさが想像出来るが、ホームレスのようなみすぼらい身なりではない。若い女性でもそんなひどい状態の者がいるのであれば、生活に疲れが出て来る40代後半ならもっとだ。次にトモイチに行くと、七夕の笹が据えてあって、すぐ近くにその枝に吊るす願い事を書く色鮮やかな短冊用紙と筆記用具が置いてある。大半は子どもが書いているが、大人の字もちらほら混ざる。三日前は帰りがけにその1枚に「お母さんも苦しい生活から抜け出せますように」というのがちらりと見えた。今日また見ようとしたが、短冊が増え、探せなかった。子どもの願いの中にも「お金がもうかりますように」といった、経済的豊かさへの望みを書いたものがちらほらあった。親の稼ぎをよく知っているのだ。そして、生活が苦しいと親は子どもに当たり散らし、子どもは自分が金持ちにならなくても、両親の額に皺を寄せた表情が笑顔に変わってほしいために金持ちになりたいと書く。
 4日の水曜日、家内がKBSテレビの昔の邦画を放送する番組に田中絹代が出るので見たいと言い出した。家内は以前年配者から田中絹代に似ていると言われた。だが、この映画を見る限り、全く似ていない。田中絹代は瓜実顔であまり印象に残らない顔をしている。家内はどちらかと言えばそうではない。それはさておき、同番組はかつて映画監督であった中島貞夫が最初と最後に解説をする。その部分を含めて録画しながら最初から見た。筆者のみ翌日もう一度最初から見た。セリフが多くて聞き取れない箇所があったからだ。新藤兼人監督の『悲しみは女だけに』で、1958年、筆者が7歳の頃の制作だ。当時の空気を覚えているので興味を持って見たが、日本がまだまだ貧しかったことを再確認した。新藤兼人は今年生誕100年で、5月このカテゴリーに『裸の島』を取り上げた。先ほど調べると、文化博物館の映像シアターでも特集を上映中で、『悲しみは女だけに』はプログラムに入っている。同博物館所蔵のフィルムはKBSで放映したものと若干違うはずだ。TVでは俳優が放送禁止用語を話す箇所は無言処理が施されていた。それが数か所あった。どういう言葉かだいたい想像は出来るが、昔の映画であるからそこまで処理する必要はないのに、あえてそうするのは、どこかから横槍が入っては面倒なことになるからだ。昨今は何でも自粛で、事を荒げていさかいが生じることを避ける。この「ことなかれ主義」があるので、TVで昔の邦画を見るのはあまり好まない。無音処理の一例を挙げると、兄と妹が言い争う場面がある。兄が妹に「ド淫売」と言うと、すかさず妹は売り言葉に買い言葉でまくし立てるが、その5,6秒が無音処理されていた。女が男に向かって言う「ド淫売」に匹敵する侮蔑語にはどういうものがあるだろう。それを想像しながら、新藤兼人がそういう言葉を作品に用いることに凄味を感じる。『裸の島』の「裸」は「赤裸々」に通じるが、新藤監督は理想化しないありのままの現実を見せることを旨としていたと思える。セリフがきわめて多いこの作品のあちこちを、TVが無言処理する様子を見ればどう思うだろう。さて、この映画は見てすぐに気づくが、舞台劇っぽい。それは道理で、監督は脚本を最初劇団「民藝」用に書いた。その時の題名は『女の声』だ。これでは内容がわかりにくいと思ったのか、『悲しみは女だけに』というかなり説明的なものになった。この題名が映画の内容をすべて言い表しているので、題名だけでもう見る気がしない人が今は多いのではないだろうか。また、まだ戦後を色濃く残していた昔が舞台であるので、今の日本には無縁の話と思う若者も少ないと思える。だが、最初に書いたように、スーパーでは40代後半の女性が夢遊病者のようにほっつき歩き、電車の中では20代の女性がゴミの臭いを漂わせて自覚がない。国が金持ちになっても、悲しみはなくならない。むしろ貧富の差がより顕著になっている今の方が、悲しみを抱える女性は多いかもしれない。
 この作品は尾道が舞台になっている。以前取り上げた『暗夜行路』つながりにもなるが、この映画では尾道の観光名所的なところはほとんど紹介しない。それでも半世紀前の尾道の町がわかって興味深い。広島出身の新藤監督は広島県や瀬戸内海を舞台にするのを好んだのだろう。監督は広島の豪農の生まれだが、父が騙されたか何かで家を傾かせた。そのことがこの映画の脚本に活用されている。話はお盆の里帰りで集まった谷口家の出来事で、一夜明けて翌日の昼までを描く。大半が狭い家の中での会話で、登場人物の話によって観客は少しずつ同家の事情がわかって来る。まず、尾道の海べりに「波千鳥」という、半ば女郎屋のようなバーが映る。その店は家の2階にあって、半裸の女性3人が船員相手に飲んだり踊ったりの商売をしている。その店を経営している谷口政夫の妻くに子が最初に登場する。くに子は政夫の父の遺影を写真屋で引き伸ばし、額に入れたものを持ち帰って早速鴨居に吊るす。その直後に酒屋がビールを1ケース運んで来る。酒屋は3か月分もつけが滞っていることを不満気に言うが、くに子は言い訳をしてビールを置いて行かせる。このビールは映画の後半で小道具として活用されるが、政夫が金に困っていることも暗示する。こういった箇所は二度見ることでわかる。脚本の練り具合を知るには映画館で一度だけ見て、「ああ面白かった」では気づかない。政夫には姉の秀代がいる。これを田中絹代が演じる。名演だ。それを言えば登場人物全員がそうで、同じ脚本で今撮り直すことはまず無理だ。時代背景が変わったというのではなく、俳優が小粒になり過ぎている。秀代は戦前、21歳で両親の勧める相手と写真で見合結婚し、アメリカに農民としてわたった。そこで辛酸を舐め、相変わらず乞食に等しいような身なりで暮らしている。そういったアメリカでの暮らしを政夫や、その息子、娘にぽつぽつと話す。その様子に湿っぽさはない。アメリカの西海岸の街サンディエゴに暮らすことがそのような性質にした面もあろうが、くじけずに何度でも立ち上がって生きて行こうとしたからだ。この映画の主役は、悲惨な暮らしであったにもかかわらず、優しさを失わない秀代だ。新藤監督はそういう生き方を理想としている。したがって題名は暗いが、田中絹代の飄々とした、欲のない生き方を見るだけで救われた気分になれる。1958年の時点で、戦前にアメリカ移住した日本人が戦時中にどういう生活を強いられたかを知る人はさほど多くなかったはずだが、この映画はその点も見事にしっかりと描写する。秀代は日本では原爆のために今なお死ぬ人があることを話題にしながら、アメリカでの自分たち家族の暮らしぶりを話す。家も財産も奪われて砂漠の中の強制収容所に住まわされ、戦争が終わればまた一から白人に雇われて農業に従事したこと、その中で夫が電動のこぎりで自分の両足を誤って切って死んでしまったこと、息子たちがどうにか頑張って働いているが、生活は楽ではないことなどが明かされる。
 秀代は結婚する前に地元で好きな男性がいた。その人の思いを断ち切ったのは、借金まみれになっている家を渡米する人について行くことで支えるためであった。秀代は立派な屋敷を残すためにアメリカからせっせと仕送りをするが、借金は次から次へと出来、また政夫は仕送りを息子や娘に使いもし、結局すべてが人手にわたった。秀代は政夫にかつて自分が好きであった相手がどう暮らしているかを訊ねる。すると数年に亡くなったことを伝え、また谷口家がわずかな借金をしていたので、その形として風呂場の立派な御影石の敷き石を持って帰ったことを、「お金は恐いもので、人を変える」と非難気に言う。これは秀代にとっては大いなる幻滅だろうが、そのことを微塵にも顔に出さないのは、もうかつての思いを淡々と見つめることが出来るからだ。秀代は嫁いで初めての帰郷で、政夫の子どもたちの顔を初めて見る。長女、長男、次女の3人がやって来るが、下のふたりは秀代に金の無心をする始末だ。息子は「おばさん、アメリカの貧乏は日本の貧乏とは違うでしょう」といった言葉を発する。息子は妻とふたりの子もちで、国鉄に勤務して線路沿いにあてがわれた二間の家に住み、月収1万3000円であることを明す。そして、年収分ほどをつごうしてくれと言うが、秀代は笑顔でそんなお金がないことを言う。妹は黒人(たぶん)のボクサーと結婚したが、二流の選手で生活に困っている。ふたりとも戦後のドライな人格を演じているが、そういう性質になったのは父の政夫がだらしなかったからとも言える。政夫は子どもが姉にたかるのを苦々しく思い、次第に不機嫌になる。政夫を演じるのは小沢栄太郎だ。これまた名演で、特に後半の飲んだくれて暴れる場面は凄味がある。政夫の長女道子は京マチ子が演じる。訳ありの独身で、その訳がまた少しずつ明らかにされる。道子は戦前、人がうらやむ結婚をした。相手は地元で最初に自転車を買った名家で、その長男と結ばれた。だが、終戦の日、青森で潜水艦に乗っていた夫は攻撃を受けて死亡、そのことがきっかけで生きる張りをなくす。何人かの男と知り合ったが、最初の夫が忘れられない。そして神戸に流れて行った。そこで知り合った男性がいて、一緒にブラジルに移民することを父に打ち明ける。移民は最後の方法であることを秀代も諭し、道子はブラジル行きをやめることにするが、翌日相手の男が家にやって来る。彼は道子を殴り、お金を返せと怒鳴る。そういった修羅場を見る秀代の前に、今度は政夫の前妻が訪問する。離婚訴訟で定められた政夫が支払うべき慰謝料が3か月も滞っているので、その取り立てにやって来たのだ。政夫はお金がないことを言う。ここでまたいさかいを見た秀代は全財産の5万円の入った財布を前妻の杉村春子に手わたす。それを受け取った前妻はてきぱきと無言で3か月分を数え分け、残りを秀代に返す。杉村はこういう役をやらせると天下一品で、実際に政夫と夫婦であったかと思わせる。また、政夫が前妻と別れたのは、前妻に言わせると、政夫と離婚する3年前から現在の妻と関係を持ったことによる。こうなると政夫が女と金にだらしがないので一家が落ちぶれたことになりそうだ。
 政夫がそのようになったことも明らかにされる。政夫は刑事を20年間務めた。だが、後1か月勤務すると恩給がつくという時に戦争が終わる。それで嫌気が差して刑事を辞める。そうなると近所はドライなもので、政夫の妻を立派とは言わなくなる。それが夫婦の仲が冷える理由で、また一家が傾く原因でもあった。つまり戦争が何もかもを変えた。政夫が戦争の犠牲者ならば、秀代もそうだ。この映画でひとりまともな人生を送っているのは、政夫の妹春江だ。彼女は原爆に遭ったがどうにか生き伸び、産婆をしている。最初の夫とは別れ、材木業をしている夫と暮らしている。この夫もチョイ役で登場する。殿山泰司だ。春江は水戸光子が演じる。彼女は今では見かけないタイプの知的な美人で、殿山と夫婦という設定は無理があるが、再婚なのでなるほどと思わせる。ついでに書いておくと、道子を探してやって来た男は宇野重吉で、ひょろりとしていかにも移民でもしなければうだつが上がりそうにもない役柄を演じる。そうなれば新藤監督の作品に欠かせない女優の乙羽信子はどこに登場するかだが、お盆の夜に秀代が見る夢の中に亡霊として少しだけ姿を見せる。その亡霊は秀代の母で、秀代がやむなく一家の犠牲になって渡米したことを詫びる。映画の最初に父の遺影が鴨居に飾られるのに、その横に母の遺影がないことを政夫の息子が言うが、母の写真はみな秀代に送ったので手元にないのであった。母は床に就いたまま患って死んだことになっているが、神戸から戻った道子は自殺であったことをみんなの前で明かす。遠い異国で苦労している秀代を思い、絶食した挙げ句に死んだのだ。この映画の題名は、秀代が政夫相手に道子のことを話す時に出て来る。「女というものは一度つまずくとどんどん落ちて行く」。秀代にすれば、独身のまま、素性のよくわからない男と一緒にブラジルまで行く道子が不憫なのだ。また秀代は結局男に就いて行くことを決めた道子に残りの2万少々のお金を餞別として差し出す。それを受け取った道子は秀代の優しさや、そのアメリカでの苦労しながらも生き抜いて来たことを胸に抱えて、新天地で新たな出発をするだろう。そういう一抹の明るさが示唆されるのは救いだ。だが、そこには大きな悲しみがある。映画の最後、氷式冷蔵庫の中からビール瓶を1本取り出し、葉で栓を抜いたかと思うと一期にらっぱ飲みする政夫の姿が悲しい。息子や娘が誰ひとりとして幸福でない。みんなが去った後、夜になって政夫は酔っ払って帰宅する。激しく怒鳴り散らし、足元がおぼつかない。扉を開けて入って来た政夫を呆然と見つめながら、秀代は近寄って手を握る。政夫を慰めるのは秀代しかいなかったのだ。女は悲しいが、男は不甲斐なく悲しい。その不甲斐ない男のせいで女はみな悲しくなる。これは永遠の定理だ。こうした暗い内容の映画は今は誰も見たがらないだろう。だが、暗いようでいて、何度でも立ち上がる不屈の精神が描かれているところがしみじみと胸を打つ。甘いも辛いも知った大人の映画だ。新藤監督の本当の才能を見た思いがする。
by uuuzen | 2012-07-07 23:59 | ●その他の映画など
●想像と実際の視点 >> << ●嵐山駅前の変化、その215(...

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