京都文化博物館の映像ホールで観た。午後5時の部は昼の部より比較的人が少ないそうで、中央のいい席が急ぐこともなく取れた。8割ほどの入りで老人がほとんどだったが、もっと若い人が観てよい。
日本の海軍が真珠湾を攻撃した昭和16年(1941年)12月8日の直後から海軍大本営はこの映画の制作を考え、東宝は1年後に「太平洋戦争開戦1周年記念」として封切りをした。この当時の頃はまだ日本は戦争で巻き返しが出来ると余裕もあったので、こうした映画が上映され、しかも封切り初日から爆発的ヒットになったが、翌43年には進め進めの軍隊にも影が射して来て、戦意高揚映画も微妙に色合いが変わって来る。その例が44年の『加藤隼戦闘隊』だが、今回は観る機会を得なかった。それはひとまず置いて、この映画を観ながら思ったのは、42年から45年の終戦までのわずか3、4年間にどれほどたくさんの異常な殺し合いが続き、無数の人が死んだかということだった。ロジェ・カイヨワの言うように、人間は戦争を避けられない存在であるというのもうなずける気がする。誰でもたまにはたいした理由もなくてむしゃくしゃすることがあるが、それと同じようなことの最大の、そして集合が戦争であるかもしれない。カイヨワはそうした戦争に向かうエネルギーをスポーツで解消すべきと言っているが、サッカーのワールド・カップなどはそんな意味から貴重な祭典であるだろう。それでも日本のある政治家は北京オリンピックをボイコットしろと呼びかけていて、好戦的なこうした政治家の口車にまんまと載せられて戦争へと突っ走るというのは、これからもあり得ないどころか、定期的に起きるだろう。それで被害を受けるのはごく普通の人々で、政治家たちは「自分たちは選挙で選ばれたから国民がどうなろうと自業自得だ」と言うに決まっている。それでもブルーノ・ガンツ主演の『ヒトラー~最期の12日間~』も描いていたように、10代の若い世代は簡単に政治家の考えに染まってしまい、大人の言うことには耳を貸さない。何しろ飛行機や戦車、銃といった黒く光るメカニックは大抵の男の子は好きで、それと一体になることを格好よいと思うからだ。昭和30年代半ば、つまり東京オリンピック以前の『少年サンデー』には毎週裏表紙には日本の戦闘機の平面図、側面図がカラーで載っていて、それはプラモデル作りに役立つ資料に過ぎないとはいえ、それでも少年の心に日本の戦闘機の美しさを刷り込むには絶大の力があった。それを見ながら筆者は零戦をあらゆる角度で描けようになって、今でもそれが出来るほどだ。「紫電改の鷹」という戦闘機の戦いを扱った有名な漫画は、すでに筆者が漫画を見なくなってから登場したが、前述の戦後の少年雑誌における戦闘機や軍艦のブームの中から現われたものだ。戦争には負けても、戦後の大人たちはその悔しさの一部を巧みに少年雑誌の中に取り込んだと見ることも出来、そうした戦争の道具の格好よさに影響を受けた子どもたちが、今50代半ばの年齢で世間で活躍していることを知っておく方がよい。筆者も含めたそういう世代は、戦争は人殺しで、体がちぎれて血が吹き出るとはわかっていても、それは実感出来ず、自分には起こらないと信じている。先頃、傭兵としてイラクに行った日本人が殺された事件があったが、その人はもっと迫力のある生き方を求めて、生死を賭ける戦場に志願して赴いた。平和な社会でのんべんだらりと生きることが退屈で仕方なかったのだろう。いつの時代でも命を晒すような場に身を置きたいと思う男はいるが、そんな人でも実際に死の瞬間に出会った時は何を思うだろう。きっと恐怖ではないか。だが、その恐怖を覚えた次の瞬間にはもう死んでいるから、しまったことをしたという反省も出来ない。いや、反省するどころか、これこそ自分が求めていた恍惚の瞬間だと思うかもしれない。
この映画は戦意高揚のために海軍が企画したものだ。茨城の土浦だったか、実際の海軍飛行予科練での生活が撮影されている。それは今では存在しない建物群やその内部の設備であるので、ドキュメンタリーとしても貴重な映像となっている。予科練の木造の建物は奈良東大寺の大仏殿より大きなものが建っていて、数千名もの、まだ10代のくりくり坊主頭の予科練習生が白い体操服を着て運動場にずらりと整列するシーンが何度も映る。その量と整然さに圧倒されるが、北朝鮮のスタジアムにおけるマス・ゲームと同じ印象がある。今ならコンピーター・グラフィックスでどうにでも増加させられる画面上のその人物数は、撮影のための一般募集したエキストラではなく、実際の予科練習生をそのまま撮影しているから、訴えて来る迫力には途方もないものがある。そして彼らの大部分がたった2、3年の間に死んだことを思うとそれはなおさらで、足元からひやりとしたものが這い上がって来る。土浦だけではない。日本全土にそういう兵士養成場所が散らばっていた。戦争というものは狂気以外の何物でもないと改めて確信する。それでも時代の狂気の渦の中にいればそれがごくあたりまえの、日本民族としても正しいことだと疑わない。映画の中で主人公の予科練習生の母親が、「もう自分の息子ではないですから」と2度ほど淡々とした表情で口にするが、つまりはお国に捧げた命であり、仮に死なれても個人の悲しみから泣いてはならないといったことを暗示していて、その母親のシーンだけ切り取ると、かなり反戦的な主張も込められているように伝わる。国策映画であるから、みんな喜んで戦争に賛成し、どんどん戦う意欲を高めよといった面が強調されていると思ったが、案外そうでもなかった。これは真珠湾とマレー沖でアメリカとイギリスの艦隊に大打撃を与えたばかりの、勝利に酔っているさなかに企画された映画であるからだろう。敗戦に近づくにつれてあらゆる雑誌が、敵への悪口や特攻隊を讃え、戦争に耐えよなどとヒステリックになって行ったが、それに比べるとこの映画には逼迫したものがほとんど感じられない。だが、この映画が封切られた42年12月は、6月のミッドウェー海戦から半年経っていて、日本の海軍が大打撃を受けて空母を含めて多くの戦艦が沈められていた。大本営は嘘ばかり発表することになっていたし、東京にはすでにアメリカの飛行機が来てもいた。人々は本当はどう思っていただろう。
真珠湾とマレー沖での作戦が成功し、英米に甚大な被害を与えたと安心したのもつかのま、真珠湾の戦艦を修理のための建物は全く被害を受けず、空母も湾外にいたために無傷、それに湾内で燃え上がったほとんどの戦艦は数か月のうちには修理がなされたから、日本は全くのぬか喜びをしていたことになる。それにせっかく真珠湾やマレー沖で飛行機による戦艦への攻撃が重要であることを知ったにもかかわらず、それを学んだのはアメリカの方で、日本は逆に巨大戦艦の造る方に向かい、アメリカの飛行機にたちどころに沈没させられてしまった。これでは学ぶ気のない民族だと思われても仕方がない。先駆的なことをしておきながら、そのことに気づかないのだ。日本は先駆的なことは負の遺産の面でも得意だ。国際法で禁止されていた毒ガスや細菌を使用することも中国では試みたし、そんな戦争時の資料をアメリカが入手して戦後に研究を発展させた。神風特攻隊はニューヨーク貿易ビルの9・11事件の範になったようだし、オウムのサリン事件も昨今の無差別テロの大きなヒントになったから、日本はそうとう独創的な才能を持つ国家と言える。それはこの映画についても同様だ。全体で115分ある映画の見物のひとつは、大河内伝次郎や原節子などの豪華俳優陣のほかに、円谷英二の特殊撮影がある。その特撮映像の部分はわずか数分だが、俳優を起用した部分よりも時間も費用もかかっていることだろう。そしてその特撮部分に注目して戦後GHQはこのフィルムを没収したまま返還しなかったが、奇跡的に東宝の倉庫から発見され、各地に残っていた断片も用いて完全なものが修復出来たようだ。アメリカがこの映画を観て驚いたのは充分にわかる。円谷の特撮は天才の賜物としか言いようのないもので、戦後のゴジラやウルトラマンの特撮は子どもだましに見えるほどだ。
映画のあら筋を簡単に書く。ある田舎の10代半ばの少年が、真っ白な海軍の制服に身を包んだ海軍の兵学生である親類の兄が帰省した時に、自分も同じようになって戦闘機にいつか乗りたいと伝える。年長者の汚れの全然ない白い上下の詰襟に帽子という姿が、少年にとって眩しいものであるのは充分納得出来る。当時の少年であればそれは格好のよい理想の男の姿に見えただろう。兄はその言葉が本当のものかどうかを確認するために、岩山から飛び込ませたりするが、少年の勇気と体力が充分あることがわかって、自分と同じような道に進めることを少年の母や姉に伝える。そうして少年は海軍の予科練習生となる。偶然にも教官は兄で、ここは劇映画としてはどうしても必要な設定であったのだろう。予科練での生活は前述したようにドキュメンタリーで数千人が動くシーンが見物だ。若き木村功も予科練生としてほんの少し顔を見せたりするなど、意外な発見は観る人によって多いはずだ。教官と予科練生との授業のやり取りはあまりにも理想的に描かれ過ぎて戦争の緊張感に欠けるが、実際はこの映画で描かれるような清く正しいばかりの生活ではなかったであろう。いじめもあれば失望や怠慢もあったに違いない。だが、そうした人間的ドラマに一切描かれず、上官はあくまでも立派な人であり、予科練生はその命令にしたがう、個性ある顔のないロボットのような存在として描かれる。数千人の予科練生の中で主人公の少年に主に光が当てられ、その成長ぶりが映画の3分の2ほどまで続く。それは別に何事も起こらず、ごく自然にひとりの兵士が完成して行くといった描写で、主人公は内面の葛藤を全く持たないような存在にしか見えない。そのため映画の前半は当時は退屈と思って観た人が多いのではないだろうか。やがて成長した少年は真珠湾を攻撃する戦闘機に乗り、兄はマレー沖に飛んで戦艦を撃沈する。映画は軍艦マーチが鳴り響き、正面姿の戦艦が次々と画面いっぱいに2、3隻映り、大砲がどんどん火を吹くところで終わる。その戦艦は現実にはアメリカの飛行機からの攻撃で、2、3年ももたなかった現実を思えば、いかに戦争が無駄な行為かがわかり、その意味で反面教師的反戦映画と思うことも許される。
映画が始って間もなく、どこかわからぬ田舎の少年という設定がまずよいと思った。今の日本にもあるような田舎かもしれないが、それよりもおそらく江戸時代はこうであったろうと思わせるような風景だ。その白黒映像で鮮やかに浮かびあがる田舎の山や川は実に美しい。日本はこういう美しい国土を持った国であるということが見事に描かれている。そこがまた国策映画の国策たるゆえんであろう。そんな美しい国土に美しい姉や母や住んでおり、それらを守るために男子は戦闘員になれというわけだ。少年が習練にくじけそうになった時、教官である兄が自分の体験談を話すシーンがある。それは兄もかつて同じような経験があって、それを日露戦争の英雄である東郷平八郎の遺髪を宝珠の中に保存して祭る神社に御参りすることで心を新たにしたというエピソードだが、神社のはずでも、それは白い大理石造りのギリシア神殿さながらで、中央の大きな扉のレリーフは戦闘場面を彫ったものでなければ、フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の『天国の扉』そのもので、これはセットで作ったのか、それとも本物の東郷神社なのか、興味が湧き、今もわからないでいる。東京原宿にある今の東郷神社は戦後の再建だが、元は昭和15年に建立されたから、その2年後にこの映画で特別にそれが撮影されたとしても不思議ではないどころか、かえって大いにあり得る話だ。勲章をたくさんぶら下げた東郷平八郎の上半身がが画面いっぱいに映り、海軍の神様としての位置づけはいやでも伝わったが、当時の東郷神社の内部があのような西洋風の神殿であったとするならば、かなり意外だ。そういったところも今では映画の見所のひとつだろう。円谷の特撮は、海軍からの資料提供はほとんどなかったらしいが、これは戦略上の秘密を守る意味から当然と言える。ただし、真珠湾を攻撃した時の航空写真は新聞に載ったりしたから、それを参考に、ある程度はどのような状況であったかは推察出来る。円谷は1901年生まれであるので、この映画の特撮を一任された時は41歳であったことになるが、その年齢であれば頑張りが利き、創意工夫も充分出来、人生の中でも代表作を生み出せる。そしてまさに前代未聞の特撮場面が完成された。
東宝の撮影所内に1800坪のプールを確保し、そこに攻撃当時の真珠湾を再現したが、縮小模型を使った撮影で許される爆薬で水面に立ち上がる水柱の高さをまず算出し、それを実際の写真での水柱と比例計算して戦艦の大きさを割り出した。それで戦艦は3メートルの大きさになったが、陸地にある多くの建物や石油タンクなど、それに当然のことながら、湾や山地などの地形も再現したうえでそれらを火薬で順に破壊して撮影した。高速度撮影を含み、当時のあらゆる撮影技術を投入してのリアル感の再現ぶりで、その徹底した計算は後年の円谷の圧倒的な名声獲得を予感させてあまりあるものがある。GHQがこの特撮部分を実写だと誤解したのはいかに円谷の技術が優れていたかを示すもので、変な話だが、戦争には破れたが、円谷の技術は戦後のハリウッド映画に影響を与え、アメリカの戦争映画が長く模範、あるいは剽窃したことにおいて、日本は文化的には勝っていたと言える。特撮部分がわずか数分にまとめられているのも巧みな演出で、その一気なる消尽ぶりが、当時の日本人にとっては敵が一瞬に壊滅させられて痛快に映ったであろうし、もしそうならば国策映画としての成功部分であろう。だが、月日をかけて作った模型をいかに撮影とはいえ、火薬によって短時間で破壊してしまうその時に味わった円谷の思いも想像してしまう。それは痛快ばかりではなかったろう。実写そっくりの画面を作り上げることだけが自分の使命と思い、ただその仕事に専念しただけではあろうが、模型が瞬時に破壊されるのとはもっとスケールが違う大きさで実際は戦闘が行なわれて多くの人が死んで行った事実を知っているのであるから、そこから戦後の円谷の思想を読み解くことも出来ると思う。無常感を乗り越えて、単なる皮肉や風刺に陥らず、もっと前向きの何かを人々に与えることを考えるのでなかったならば、戦後の円谷の仕事は皮相的でたいして意味のないものになったのではないだろうか。戦争は全く馬鹿なことではあるが、戦争で体験したことを戦後に別の形に見事に生かす才能も少なくないのは事実で、死ぬか生きるかの極限に身を晒さなければ入手出来ない実というものはあると思う。それは戦後生まれの、ない物ねだりの戯言かもしれないが。
映画を真珠湾攻撃だけでまとめるのもよかったと思うが、マレー沖海戦は真珠湾攻撃からわずか2日後のことであり、ふたつがセットでひとつの映画に描かれるのは海軍の強い要請であったろう。真珠湾攻撃は空母から飛び立った戦闘機によってのものであったが、マレー沖海戦は仏印基地から飛行する、エンジンが両翼にあるもっと大型の双発戦闘機によるもので、映画では本物のその戦闘機が何台も飛び立つシーンがあり、これはもうどこにも1機も残っていないだろうから、かなり貴重な映像だ。ただし、仏印までロケをしたのではなく、内地のどこかの基地で撮影したが、それでもこの映画が大変な労力と資金を費やしたことには違いなく、もはや2度と同じようなものは撮影出来ないと思うと、妙にさびしくて懐かしいような気もして来る。空母は中央部分を実物大の模型で作って、そこから本物の戦闘機を離着陸させて撮影したが、これは海軍の協力あってのことで、戦争となれば映画もその規模が途轍もないものになることをよく示す例だ。仏印基地はフランス領インドシナのことで、今で言うヴェトナムやカンボジア、ラオスあたりだが、初めはフランスやオランダがこのあたりを植民地にしていた。日本は石油を確保したいこともあって、ここに進入し、合法的にフランスと共同で統治するに至るが、このことに英米は黙っておらずに日本に石油や鉄がわたらないように経済封鎖をする。そこで日本は仏印で石油を確保し続けるために真珠湾やマレー沖で攻撃を仕かけたわけだが、今ガソリンは1リットル120円以上の空前の高値更新の時期でも、みんな困らないほどに石油は入って来ているから、戦後の日本はどうにかうまくやって来たことにはなる。アメリカが泥沼に陥ったヴェトナム戦争は、フランスが東南アジアの植民地化に乗り出した時代まで遡らなければ事情がわからないと言ってよいが、太平洋戦争も同じことだ。だが、この映画で描かれている真珠湾やマレー沖でなぜ海戦が行なわれなかったかについては全く描写はないし、仏印になぜ日本が基地を持って爆撃飛行機を飛ばすことが出来たかは、この映画だけを観ても皆目わからない。そのために今この映画を観ると、ここて書いたように、特撮の部分や、あるいはすでに存在しない軍の施設などに主に目が行き、戦争の原因には何の注意も払えない。そこが当時の国策が意図したことでもあろうし、その意味で言えば、相変わらず当時の国策は効いているとも言える。欧米がアジアの植民地化に乗り出している時、いち早く国力をつけていた日本がその植民地化による利益を悟って列強に伍して行こうとしたのは、日本以外のアジアの国々から見れば、欧米の列強と同じ穴のむじなであって、いくら日本が言い訳をしようが認めない人々が今も多いことは充分に想像出来る。そうした複雑な事情は今後解決しないどころか、むしろ蒸し返され続ける可能性がいくらでもあり、さて日本としてはどうしたものかと思わざるを得ないが、結局は近現代史をみんながもっとよく知って議論を戦わす以外に道はないかもしれない。そんな時、この映画はどう新たに解釈されて観られるだろうか。一度は観ておいてよい映画だ。