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●「GNOSSIENNES」
遇、出会い、いつも誰もがその連続の中にいるが、いい意味で決定的と思えることに出会えるのは、何事もまだ新鮮な若い時だけか。



●「GNOSSIENNES」_d0053294_222035.jpg経験が豊富になると、たいして中身を知らないのに、「ああ、それ知ってる」で、それ以上立ち入ろうとしない。それはさておいて、生涯で特に決定的と思える出会いがいくつもある人は幸福だ。仕事、配偶者に限らず、ちょっとした趣味でもいい。筆者にそんなことが最近あるかと自問すると、あるとも言えるし、前述のように、何でも知っていると自惚れて、衝撃を受ける出会いが極端に少なくなっているとも言える。少しでも圧倒される出会いがあることをいつも期待しているのに、驚く出来事はめったにない。今日はエリック・サティの曲を取り上げる。この曲を最初に聴く人はほとんど誰でも驚くのではないだろうか。ただちに夢中になるというのではないにしても、生涯忘れない味わいを覚える。さて、実は今日は昨日と同じく、内容の「つながり」からある曲について書こうと思っていた。その曲はここ2,3年、毎年6月になれば思い出していて、今年は特別であった。その理由は、ここ数か月、ある驚いた音楽があり、それをよく聴き、また同曲とよく似た部分があるからだ。その曲名はいつかこのカテゴリーで取り上げる予定なので今は書きたくない。また、本当は今日書くつもりでいた曲は、季節を外すともう書く気がせず、来年の6月まで待たねばならないが、来月その気になれば書く。今日はその曲とは違う別の「つながり」からサティの「グノシェンヌ」がいいと思った。相変わらず「つながり」だけは重視している。サティの曲はいずれ書こうと思っていた。どれがいいかと迷いがあり、「ソクラテス」が候補に挙がったが、誰でも知る曲の方がいいと思い直した。それには別の理由がある。ここ数年富士正晴の本を集中的に読んでいる。音楽があまり好きではなかった富士は、ラジオで聴いたサティのピアノ曲が好きになり、出版社の編集者に頼んでカセットに録音してもらった。おそらく「ジムノペティ」か「グノシェンヌ」のはずで、それをラジカセでよく聴いたようだ。富士が好んだのは、サティのゆったりとした静けさだろう。孤独だが、さびしくで涙が出るという種類のものではない。今ここにいる自己に満足出来て、妙に心が騒ぐということがない。サティを聴くとはなかなか渋くて、富士がさぞ他の音楽にも造詣が深いかと言えばそうではなく、ごく自然に耳馴染み、聴きたいと思ったのだろう。だが、富士にサティは似合う。サティは前衛音楽の祖と言ってよいが、その生涯は貧しく、淡々としていた。それが富士に似る。またサティの作品は諧謔味が濃く、それも富士にはある。そんなことをよく知ったうえで聴いていたかと言えば、やはりそれはないだろう。あれこれ理由をつけなくても、サティの音楽はそれに身を浸すと味わいがよくわかる。サティは音楽を家具のように考えていたから、部屋の中で聴くのはごく自然で、無理というものがない。富士はグループ・サウンズ、ビートルズといった音楽のどこがいいのかさっぱりわからなかった。騒々しいのはいやだった。サティのピアノ曲も大きな音で鳴らすとうるさいが、人間の叫び声は入っていないし、心落ち着かせて聴くことが出来る。かといって眠たくなるような音楽でもない。
●「GNOSSIENNES」_d0053294_1424534.jpg

 サティの曲を今日取り上げる「つながり」について書く。先日井田照一の作品展を京都市美術館と京都国立近代美術館の双方で日を変えて見た。後者の最後に、赤い壁紙を貼りつめ、ガラス窓の向こうの内部が桃色となった展示があった。そこには井田が手がけたLPレコードのジャケットと数点の本が収められた。一番左端は本で、中央に丸い穴が空き、そこにボルトが嵌る形になっていた。本の中身を見るにはいちい太いボルトを外さねばならない。本の中央に穴を開けるアイデアは、井田のこの本より数年遡る、工作舎が1973年に出版した稲垣足穂の『人間人形時代』にある。それに着想を得たのだろう。このボルト本の右隣りにLPジャケットが立てかけてあった。高橋アキのアルバム『季節はずれのヴァレンタイン』で、1977年の発売だ。今はCDでも入手可能だ。このLPを先ごろ入手した。筆者はLPでしか聴けない音源を持っているので、レコード・プレイヤーのための針をたまに買うが、LPで最初発売された音楽はLPで聴くのが一番だ。ただし、面倒なので、ついついCDで間に合わす。ついでに書いておくと、ザッパのアルバム『シーク・ヤブーティ』の最後に収録される「ヨー・ママ」は、どのCDもLPより音が悪い。3部構成になっているギター・ソロの、最初のパートが終わって次に向かうまでのジェット機のような音の伸びが、LPでは一切変動せずに拡大一方であるのに、CDでは途中で伸びが停滞する箇所がある。これはLPの溝に刻まれる大きな音がそっくりそのままデジタル化出来ないためだろう。アナログの音をデジタルにするには、絶対にどこかに無理がある。音がクリアになる代わりに、犠牲にせねばならない部分が必ずある。だが、便利さや扱いやすさ、また盤の劣化などを考えると、CDの方がいいということになる。ついでに書いておくと、ザッパが生前に発売したアルバムは7月から順次また新たなマスタリングでCD発売される。「ヨー・ママ」を聴くと、全体的な仕事ぶりがわかるはずで、それが確認出来るまでは今までのCDとLPを聴けばよい。話を戻して、井田照一が高橋アキのアルバムのジャケット・デザインをしたことは面白い。先日書いたように、井田は東の池田満寿夫に対して西を代表する版画家とみなせばよいが、もうひとつの重要な視点は、芸大卒かそうでないかだ。池田は井田や高橋アキのように芸大を出なかった。そういうところで学びたくなかったのではない。何度受験しても駄目だったのだ。そのことは池田の中に何らかの影響を及ぼしたであろう。
●「GNOSSIENNES」_d0053294_1511360.jpg 京都生まれの井田が東京の高橋アキとつながることは、日本を東西に分けて考えると不思議な感じがするが、お互い東西を代表する芸術大学出であることで共通点がある。井田は60年代末期にアメリカに行き、ジョン・ケージに会っている。『季節はずれのヴァレンタイン』に収録される同タイトル曲はケージの初期作で、そこに井田と高橋のつながりがあるが、どちらが先にケージに会ったかと言えば、高橋は井田より3歳下で、1969年に東京芸大の大学院を出ているから、井田が早いだろう。ただし、ケージの音楽をよく知っていたのは高橋かもしれない。実は『季節はずれの……』は「グノシェンヌ」を聴いただけだ。今年に入って買ったアンプはレコード・プレイヤーも接続出来るが、何が原因か、雑音がひどく入る。デジタル回路にモノラルの何かが合わないのだろう。ドルビーONにすれば随分ましになるが、今度は音がこもって音量がきわめて低くなる。1階に移動したアンプではそういう問題はないが、プレイヤーを1階に置く場所がない。デジタル時代のアンプに理想的なレコード・プレイヤーがあるはずで、それを買わねばならないのだろう。今は忙しいのでそんなことを考えたり、実行に移す暇がない。せっかく手元にある『季節はずれの……』だが、これはほとんど井田のデザインを味わうためのものだ。このジャケットの面白いところは、井田のインスタレーション作品がそのまま使用されていることだ。この作品は市美術館と近代美術館の両方に展示された。4畳半ほどの部屋全体が卵がびっしり埋まった壁紙で埋め尽され、そこに「CONCEPTION」とステンシルで刷られた版画を収める木箱が置いてあった。その中には横向きの鶏のシルエットを刷った版画が収められている。また、どちらの会場にもTVモニターが置いてあって、そこにこの作品で使用された卵模様の壁紙が印刷される様子を映した映像がエンドレスで流されていた。鶏が先か卵が先かの比喩を誰しも思い出すが、井田が考えた「CONCEPTION」が何であるかは見る人の自由だ。ついでに書いておくと、当時の井田は鶏とは別に豚や薔薇の花を用いて、同様のインスタレーション作品を制作した。『季節はずれの……』のジャケット裏面は、表側の「CONCEPTION」の木箱の代わりに高橋が全身花模様のつなぎ服を着て坐っている。その花模様は井田の薔薇の花のパターン模様そっくりで、井田がどこかで選んで来たのではないだろうか。また面白いことに、坐る高橋の顔や手足の素肌は、背景の卵壁紙が透けて見えている。これは印刷段階で指定したか、あるいは写真撮影の時に投影したもので、井田らしいこだわりを見せている。こういセンスを井田と高橋は共有したのであろう。
●「GNOSSIENNES」_d0053294_254841.jpg 筆者はサティのLPやCDを何枚か持っている。最初に買ったのがいつかは忘れた。今日は「ジムノペティ」を取り上げてもよかったが、『季節はずれの……』にはB面にサティの曲として「グノシェンヌ」の全6曲が入っている。これをレコード・プレイヤーでまともに聴くことが出来ないのが残念だが、幸い高橋が演奏するサティのCDを所有する。高橋はサティに決定的な出会いをし、その代表的演奏家となった。その役割はとても大きく、国際的にも意味がある。富士正晴がラジオで聴き、またカセットに録音してもらったのはきっと高橋の演奏であおう。高橋はサティのピアノ曲の全集を録音している。8枚組で、その中から代表的な11曲を選んで1枚に収めたものを所有するが、いつ買ったのか記憶にない。今これを書きながらBGMにしているのはそのCDだ。そこに6曲の「グノシェンヌ」が入っている。『季節はずれの……』のヴァージョンとそっくりだが、本格的に聴き比べていない。収録年月は『季節はずれの……』が1976年9月で、CDは1988年4月のデジタル録音だ。12年の開きがある。井田はこのCDもきっと聴いたであろう。『季節はずれの……』がジョン・ケージの作品名を題名にしているのに、高橋がサティ専門のような形になったのは、ケージがサティを敬愛していたことにもよる。ケージの前衛はサティが用意したところが大なのだ。ケージの曲もいつかこのカテゴリーに取り上げるつもりでいるが、ケージの音楽との出会いはサティのそれとは違って、音楽そのものが明確な形で印象には残らないが、もっと突飛な何かに遭遇した驚きをもたらした。これも誰しもではないだろうか。ま、その話はいいとして、ケージのように現代音楽の作曲家はみな経済的には恵まれない。聴き手が圧倒的に少ない。また作品が繰り返し聴くには耐え難いものという思いも一般的には根強い。それは全体にサティの音楽のように音が少なめと言うか、静かである場合が多いことが原因ではないかと思う。そういう静けさを好む音楽ファンもあるが、同じ時間を使って聴くのであれば、気分をうきうきされてくれるものがよく、わざわざ「CONCEPTION」とい言葉の意味を考えずとも楽しめるものをとの「CONCEPTION」を持つのは人情だ。ケージはサティの曲には常に新しい発見があると考えていた。前衛とは本来そのようなものだ。その担い手が今はどういう状態にあるのか。あまり何事にも感心しなくなって来ている筆者は、新しいものより古いものにより興味がある。前衛は古いものに新しさを見出すことだ。言い換えれば、古いものを知らねば新しさも見つけられない。ところが、いつの時代でも新しいものは古いものを嘲笑する。だが、何も知らない若者が大手を振るのはそれはそれで頼もしくもある。ただし、サティのように周囲の音楽と深くつるむのではなしに、いずれは自己に沈潜する覚悟はほしい。それには圧倒的な何かとの出会いが必要だ。
by uuuzen | 2012-06-30 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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