卒業式や入学式の案内が地元の小学校からやって来る。自治会長としては参加すべきだが、この4年間、一度も出ていない。先日は運動会の案内が来た。

これも出なかったが、当日郵便局からの帰り、背後から自治会のある委員から声がかかった。その人にも案内があったそうで、律儀にも参加したのだ。そのお礼として紅白の上用饅頭をもらって来た。そんなものがもらえるとは知らなかった。また、その人の服装を見ると、普段着も甚だしい。そういう格好でいいのなら筆者も行ってよかったが、他の自治会長は黒の礼服かもしれない。それを思うと、やはり億劫になる。また、筆者が出席せずともほかの人が出てくれるのでいい。筆者がPTAとして卒業式に参加したのはひとり息子の小学校と中学校だ。どちらもPTAが数人ごとのグループに分かれて準備作業をした。
先日書いたように、その時に知り合った婦人が数名いる。ところが、小学校と中学校の卒業式の記憶がごっちゃになって、ある婦人についてはどちらで知り合ったかがわからない。小学校の卒業式では筆者がPTA代表で奉書紙に毛筆でしたためた送辞を書き、そして読んだ。それは本当は別の婦人が担当すべきであったのが、尻込みしてしまい、代わりに筆者が担当した。その婦人とは今でも半年に一度ほど擦れ違う。いつも彼女は自転車に乗っているので、先方が筆者に気づいて目で挨拶したと途端、もうはるか後方だ。中学校の校区は、隣接するより大きな学区が合わさり、自然とPTAはその学区の婦人が牛耳り、筆者は送辞を書かずに済んだ。たぶん中学校だと思うが、筆者より数歳年長で、いつも黒い服を着る婦人とグループとなって卒業式の準備をした。当時も今もその女性はわが家から直線距離で150メートルほどに住んでいる。やはり半年に一度は道ばたで会う。そう言えばこのブログに彼女の後ろ姿を載せたことがある。今調べた。
「嵐山駅前の変化、その30(脇道)」の最初の写真で、2年前の3月15日に撮った。左端に両手に荷を持つ後ろ姿で写っている。やはり全身が黒であることに笑ってしまう。冬でも夏でもいつも黒で、それ以外の色の身なりを見たことがない。寡黙な人だが、この写真を撮っている時、通り過ぎながら笑顔で、「この急に建ったプレハブは現代美術の作品みたいで、その向こうの白い覆いはまるでクリストやね。」と言った。クリストの名前が出たことに少々驚いた。10数年間、ごくたまに道で擦れ違う時に挨拶するだけの仲となって、彼女の名前はとっくに忘れたが、きっと彼女も同じだ。そう言えばPTAで一緒になった時も個人的な話は全くしなかった。

その彼女が、先日22日だったか、今日取り上げる展覧会を見に行く矢先、嵐山駅のホームに停まっている電車の中で見かけた。4人がけの横長ソファの右端に座ると、左端に黒づくめの彼女がいた。筆者の着席に気づかない。声をかけようかと思ったが、名前を知らない。それに、筆者とは反対の方向を見つめている。8分後、電車が桂に着いた時、ドアの前に立つと、彼女はようやく筆者の姿を認めた。お互い挨拶をした。筆者が真っ先にドアから出た。それっきりだ。筆者は古書店にまず行き、そこで小1時間ほど時間を費やしてから国立近代美術館に向かった。館内に入って5分ほどした頃、黒づくめの彼女とばたりと会った。彼女は驚いて声をかけて来た。それから話が弾んだ。気にはなっていたが、係員の女性が声が響き過ぎると注意にしにやって来た。その後も場所を変えて話を続けたが、意外なことがわかった。彼女は現在の京都市立芸大を卒業し、井田照一のことをよく知っていた。同窓生ではないようだが、制作の姿をよく見かけたらしい。彼女が常に全身黒づくめというのは、芸術を学んだ人らしいこだわりで、クリスト云々の言葉もようやく納得出来た。息子が中学の時から彼女の芸大卒を知っていればもっと芸術の話をしたというのに、今からでは遅いか。彼女もまた筆者を展覧会場で見ることが面白かったらしく、息子の中学卒業以来、長話をした。彼女は同世代らしき連れの女性がいた。芸大当時の仲間なのだろう。人は見かけに寄らないというが、案外芸術家らしい風貌の者ほど中身はたいしたことがない。このブログには数回書いたと思うが、京都市芸大は筆者の中学校の美術の先生の母校で、そのF先生が筆者をしきりに同校へ進学させたがったので、この年齢になるまで筆者には微妙な思いがある。京都に出てから、何人もの同校卒の人と知り合いになったが、とても地味で目立たない人もあればそうでもない人がある。家内は筆者が同校を出ていると人生がどのように変わったかと今でもよく言う。たぶん同じことになっていたと筆者は答えるが、内心は気の合う友人をたくさん作って今よりもっと楽しく過ごしていたかもしれないと考える。ついでに書いておくと、友禅工房にいた頃、当時40半ばの主宰者、は親譲りの美術好きで、筆者と同じく土木工学を学んだにもかかわらず、絵筆を持つ世界に踏み込んだ。当時の工房には九州の芸大を出て独学で染色を学んで独立している30代の男性が外注としていた。主宰者は芸大出ではないことを無念に思い、今から入学しようかとその人に話したことがある。すると九州芸大出のその人は失笑した。本当に描きたいのであれば、芸大など関係ないという意見であった。それは芸大を出ている人の意見で、そうでない者は内心引け目を感じている。

話が大きく脱線した。係員に注意されるまでに語ったことを書く。
井田の展覧会が京都市美術館でも開催されていて、それにも行ったことを彼女に話すと、残念ながら時間がなくて見に行くことが出来なかったと言った。次に、井田についてはほとんど初めて知ると伝えると、東の池田満寿夫、西の井田を思えばよいとの返事で、それにはなるほどと思いながら、池田の有名度に比べると井田の地味さを思った。さらに、井田は母校で版画を教えたのかと訊くと、作家活動オンリーで、教えることはなかったとのことで、それでこそ芸術家だと言った。芸大を出ると、すぐに食うに困って学校の先生に収まったりするが、それは作家としてはつまらないとも言った。彼女が卒業後に何か制作しているのかどうかは知らないが、その言葉から芸術観がわかる。学生を教えるような中途半端な生き方では激しい作品は生み得ないと思っているのだろう。それには筆者も賛同する。京都市美術館での展覧会に井田の年譜がなかったことを言うと、彼女はそんなものは必要がなく、ただ作品のみを見せるべきと言った。本展でも年譜はなかった。作品だけに対峙し、また気を配るように仕向けられている。どの作家の展覧会でも必ず年譜のパネルが最後にかけられているが、それがない井田の展覧会は、生前の井田がそう望んだからであろうか。何とも潔くてよい。また話は変わるが、数年前に読んでなかなか立派な内容と感心した本がある。著者は筆者より年配の女性で、本の裏表紙には、ただ素気なく「○○市、○○年生まれ」とだけ自己紹介してあった。それが本から立ち上る強さのようなものとよく似合っていた。話を戻して、彼女に最後に質問したのは、井田が学校で教えずにどのようにして収入を得たかであった。彼女はそれには答えなかったが、考えてみれば愚問だ。誰でも生きて行くからには何かを食べる必要があるが、そんなことは制作や作品にとってどうでもいいことだ。生きている限り、誰しもどうにかする。とはいいながら、彼女は、「高橋アキのLPがあったでしょ。そういう仕事とか、知り合いが多かったから、作品は売れたんじゃない?」と言った。「それにしても市美術館とこの美術館に数百点単位で作品を寄贈しましたから、あまり売れなかったのかと思いました。けれど版画は複数制作で、手元に作品を残しやすかったし、また売りやすかったでしょうしね。」 彼女は筆者のこの言葉にうなづき、そこで足早に連れの女性がいるコーナーに去って行った。

前置きが長くなった。市美術館とは違って、本展が開催された近代美術館は井田の遺族から版画に絞って寄贈を受けた。展示はそれでも市美術館とだぶるものがあるが、本展は井田の版画家としての業績の集大成と言ってよい。そう言えばまたどこか誤解を与えかねないが、いわゆる紙に刷って額縁に収めて鑑賞する作品が主体と思えばよい。もっとも、井田の作品は厳密にそのように分類出来ないものがあり、本展も通常の版画展の枠にははまらない作品が目についた。それは池田満寿夫とは違う。池田は井田より7歳上で、この差は大きいと思うが、池田対井田を考えると、日本の戦後の版画の多様性がわかる。この対比は筆者には東京対京都にも思え、その見方は間違っていないのではないか。どう間違っていないかを言えば、戦後の日本は経済的に未曾有の成長を遂げ、版画の需用も劇的に増加したが、美術界を牽引したのは東京であり、京都が本場になることはなかった。ついでながら、平安画廊がオープンしたのは60年代末期だが、当時は版画が売れ始める時期で、同店の中島さんはその版画ブームの推移を見届けて亡くなった。同画廊で井田の個展が開催されたのかどうか知らないが、たぶんなかったであろう。そこに井田の前衛さがあるだろう。池田の版画は空前の人気を得て、本人は芸能人としてTVに盛んに登場したが、その姿は傍目には東京を本拠におく人物さながらであった。井田が池田の作品をどう思っていたのか知らない。だが、池田が描いた裸婦などには見向きもせず、また画面の色合いも地味で、一方の多様多作ぶりは「ストイックでアクティヴ」と表現してよい。正直な思いを書くと、筆者は池田の作品をいいと思ったことがない。裸婦を描くカラー・メゾチントは緻密な仕事で、個性的であることは認めるが、ほしいとは思わない。そうそう、筆者は銅版画ではシュマイサーが好きで、10点ほど作品を所有する。なぜ好きかだが、その線に惚れる。筆者は古典主義者だ。そのため、井田の版画の意図は理解出来ないだろう。かといって池田の作品にも心惹かれない。ということは、日本の70年代以降の版画はどれも面白くないと思っているのかもしれない。

市美術館での展覧会に乾由明の難しい文章が紹介されていたことを書いた。今回それがまたあった。全文ではなく、(1)(2)を省いて写して来た。「……。(3)紙の両面に刷られた版画においては、その表裏がそれぞれ作品なのではなく、両方の版が出会う場である紙自体が作品なのである。この場合、紙は、版と版とのかかわり合いによって、それらのあいだ(The Between)に成立する「面」となる。そして表裏に刷られたイメジは、この面の存在をあらわすためにはたらく。(4)このthe Betweenとしての面は、単一な物質の固定した表面ではなく、刷りの動的なプロセスのなかから生まれた、関係としての面である。(5)それゆえ、the Betweenとしての面は、刷るという作用の場であり、したがって非物質的である。(6)しかしそれにもかかわらず、この面が作品として垂直に立てられ、一方の側からのみ見られるとき、それはことばの真の意味において表面(Surface)となる。そしてその作品が表面として観衆に対立すれば、それはまさに壁のように眼をさえぎる物質として現前する。」 こうして書けば意味がよく通じるが、あたりまえのことを言っているようで、井田は両面刷りで何を言いたかったかはよくわからない。本展のチラシ裏面にはこんなことが書かれる。「井田版画の昭和50年頃の変化、それ以降の版画との乖離が、「日本の【現代版画】に何が起こり、何が起こらなかったか」という未検証の問題を考える上で重要な示唆に満ちている……。1980年代以降に写真や映像表現で提起される「表象/再現」の問題として解読されるべき内容を含んでいます。これらの作品はまた、「版画とは何か?」という当時の日本の現代版画が執着した問いへの、井田の解答であり、決別であったような気がします。……」 昭和50年頃の変化とは、先日の市美術館での展覧会の感想にも書いたが、菅井汲をどこか思わせるポップでカラフルな時代から、モノクロームのわずかなイメージを用いる作風への移行だ。その作風の大きな変化が、日本の現代版画に何が起こって起こらなかったかということの答えになっているという読み方が出来るが、これは池田の版画を例に挙げると、井田のような作風はブームにはならなかったということだろう。井田の名は圧倒的に池田に劣り、その意味では井田は時代の寵児にはなれなかった。ただし、それは「日本の」現代版画でのことであって、井田にはそういう狭い世界を見つめる気持ちもなかった。日本の現代版画は古くは江戸時代の浮世絵から大正時代の創作版画、そして戦後のサンパウロ・ビエンナーレ展でのたとえば棟方志功のグランプリなど、長い伝統が背景にあって戦後急速に市場を拡大し、また多くの作家を生んだ。井田は自刻自摺という作業をしたことで創作版画家の仲間に入るが、伝統を意識しなかった。そこが版画家を超えた現代美術家に属する行為につながっているが、「版画とは何か?」という命題を、紙に片面だけ刷り、それを額縁に入れることで作品が完成するような世界の中にとどめず、先の乾由明の言葉にあるように、版画の概念を押し広げた。それには、写真や映像表現で定義される「表象/再現」の問題を取り込み、市美術館でも本展でも展示されたインスタレーションとしての作品にまで入り込む必要があった。そうした作品においてもなお井田は刷るという行為を中心に据えており、「常套的な版画」を制作することからはかけ離れている。
井田は1969年から70年にかけてアメリカに滞在した時、ジョン・ケージから小石をもらったそうだ。それを紙の上に長らく置いていると、やがて紙は石の重みでくぼんだ。そこに着想を得て、小石を刷ったり、またそうした版画を四方で大きな石で挟む作品を作る。このジョン・ケージとの出会いは重要だろう。彼が音楽でやったことを井田は版画で行なおうとしたのかもしれないが、偶然が支配する作品は井田にはないように思う。ただし、その現代芸術性はたっぷり吸収して帰国し、その後の作品に活かした。そういう版画は日本の現代版画では珍しいものとなったが、それが東京ではなく京都で生まれたことが筆者には面白い。京都は案外革新的なのだ。市美術館と本展を見たことでようやく井田の考えたことのわずかな部分が見え始めている気がしている。本展ではストロボを灯さなければ写真を撮ってよかった。それで撮ったものを順に載せる。長くなった。最後に書いておくと、井田は石版画を独学で始め、次にシルクスクリーン、最後は銅版画も手がけた。確か木版画だけはない。銅版画は本展で初めて見たが、大きなサイズで、制作には多大な労力を要したであろう。これは陶芸やブロンズも同じで、ちょっとした美術愛好家に作品を買ってもらおうという考えが見えない。