王朝文化と改めて聞くと奇異に感じる.天皇は王ではないとする意見を思い出すからだ。最高の権力者を王とするならば、江戸幕府も王朝となるが、日本ではそう呼ぶことはない。

WIKIPEDIAで調べると、「奈良時代・平安時代を指して「王朝時代」と呼ぶ場合がある。また、平安時代中期・後期の律令国家体制が崩れてから院政や武家政治が始まるまでの国家体制を王朝国家と呼ぶことがある。」とあって、本展の「王朝文化の華」は「平安文化の華」を指しながら、それをもっと格調高く表現していることがわかる。昨日取り上げた展覧会は奈良国立博物館が開催するにふさわしいもので、本展は京都国立博物館ならではだ。日本に京都があってよかったと思えることの根底には、1000年前と現在がつながっていることの実感が持てることと、それにはたとえば本展で紹介されるような平安貴族の家柄が今に伝わり、宝物を保存して来ていることにもよる。たいていの人は祖父祖母より以前の代の顔も人柄も知らないから、千年続く家柄というだけでひれ伏すことを好む人もあるが、その千年は万年に比べるとうんと劣るから、長年続く家柄といっても、人間みなちょぼちょぼではないか。だが、そんなことを言うのは下賤な身分である証拠で、少しでも高貴の意味を解する者ならば、千年続く家柄には文句なしに頭を垂れるべきという、貴族趣味を持った人が多い。そういう人がこぞって本展に出かけたはずで、王朝や貴族という言葉にいかに弱い凡人、平民が多いかがわかる。昔から世の中はそうなっている。家柄の長さが無理となれば、次に考えるのは金力であるのは言うまでもない。武士がだいたいそのようにして平安貴族を黙らせた。その後そのことがますます顕著となって、大金持ちになれば今度は長い歴史のある家柄と婚姻関係を結ぼうと考える。そんなことがないようにと、天皇はたとえばイギリスの王とは格が違うのだという右翼側の意見があるが、資本主義国家でなくても今は金が人々を動かしているから、最も憧れられるのは金持ちで、金持ちの方も自分が尊敬されてあたりまえと思っているだろう。その金持ちに合法的になるために大学に行くことが絶対条件になると、国の活力は次第に失われて行くと思うが、王様が作ったイギリスも天皇がいる日本も同じような状態になって、大学を出ても仕事がないことが珍しくなくなっている。いつの時代でもどん底から這い上がって億万長者になる人はいるという意見があるが、その努力と運に恵まれない人はその数百万倍どころでないほどにいる。そういう人の中から革命者が生まれ、国や世界の形を変えても、貴族階級はなくならない。
京都の公家の経済状態が慎ましいものであることを何かで読んだことがある。家柄を誇ることはさぞかし家宝が蔵の中にたくさん眠っているからだと誰しも想像するが、食うに困って宝物は全部売り払った公家の方が多いのではないか。また公家がお金儲けにはそれほど熱心でないとしても、それは彼らからすれば当然で、金儲けは士農工商の最下層の人間が携わることだ。公家は和歌を詠み、文化に造詣が深ければよいこと建前として生きて来た。そんな公家筋が京都にどれほどあるのか、筆者は知らないし、また興味もないが、そのように一般社会からはかけ離れたところにいるのが公家であってそれでいいのだろう。そういう公家の文化教養の高さに憧れる人は、自分が公家の血筋ではなくても、王朝文化にどこかで自分がつながっている思いによって、そういうことに興味のない者を内心憐れむ。これは余談だが、数年前、ある人からそうした公家で催される歌会の写真を見せてもらった。主宰の女性が中央に陣取り、両脇にずらりと一般人が坐る。別にどおってことのない風景だが、驚いたのは主宰者の背後の水墨の対幅だ。それは一瞬でわかる若冲の贋作だ。主宰者は本物と思っているのだが、そこに現在の公家の真実を見た気がした。何百年も続く歴史の中で贋作も混じったのはやむを得ないとして、そういうものを選り分ける審美眼がないのだ。誇るのは長く続いている家柄のみで、中身はとっくに空洞化している。そういう老木をよく見かける。それでもどうにか倒れずに立っている姿は見事だが、空洞化した幹を見ると、哀れさを禁じ得ない。京都の公家とはそんなものだ。一方では新興の成金がいる。彼らは図太く逞しい直立の幹に多くの葉を茂らせるが、何しろあっと言う間にそのように育ったので、根が浅く、また幹は案外に脆くて軽く、簡単に倒れもする。ま、その下にいるのが庶民としてのしぶとい雑草で、彼らは幹が朽ちて大穴が空いた老木と勢いのよい新木の両方を見上げて、いつか自分たちも木になりたいと思う。ところが、草はどこまで行っても草だ。冬が来れば跡形もない。だが、文化は平等で、老木や新木のそれもあれば雑草のそれもある。そして、しばしば老木や新木は草に関心を抱き、その真似をする。文化は下から育って上に行くものがあるということだ。そのようなことがたとえば本展の全出品作を所蔵する近衞家にあったかどうかは、本展を見ればよい。
本展を見たのは先月26日であったと思うが、嵐山駅で自治会に所属する男性医師に会った。どこへお出かけですかと訊かれたので、博物館と答えると、もう見に行ったとのこと。それで、どういう作品が印象に残ったかと訊くと、まず古文書類は文字が読めず、また読めても意味が不明ということで意見が一致、次にチラシやポスターに印刷される絵は全くつまらないが、立命館大学前にある美術館の日本画家の絵はよかったとのこと。ポスターに印刷される絵は牛車の列を描き、本展にいかにもふさわしい王朝文化を感じさせる。しかもアジサイやユリなど、季節に合わせて画題も選んである。この絵が誰のものかわからなかったが、会場で酒井抱一の作と知った。立命館云々は堂本印象のことだ。医師は書画をネット・オークションなどでたまに買うほどに関心があるが、印象の名前が咄嗟に出て来なかった。好悪はほとんど直感によるようだが、それでいい。誰でも大なり小なり広く浅くなのだ。抱一の作は六曲一双の金地屏風で、展示された絵画では最も大きかったと思う。また、抱一の作が所蔵されるのはわかるとして、堂本のようなまだ歴史的に新しい画家の作品があるのは、近衞家の健在ぶりを伝えるし、また好みもわかる。それは近衞文麿という、明治から昭和にかけて活躍し、総理大臣を何期か務めた政治家を生んだことから当然とも言えるが、興味深いのは、本展の最後の部屋に展示された堂本などの近・現代の日本画家だ。本展は近衞文麿が創設した陽明文庫の十数万点の宝物の中から国宝8件、重文60件のすべてを含む約140件の初公開で、近・現代日本画家の作品は本展以外にどれほどあるのだろう。もちろん十数万点の全部が1000年前のものではないが、それを含みながら今まで伝えて来たのは奇跡と言うしかない。十数万点のうち、重要なものは紙類であるから、保存が悪ければすぐにカビが生え、また虫に食われる。そうした劣化をさせずに保存することはどれほど大変なことかは、書画でなくても本を多少持っている人ならばわかる。十数万点を虫干しするなど、どのように人手をかけているのか、またその人件費はどうかなどなど、考え始めると理解が及ばないことが次々に思い浮かぶ。先に書いたように、ほとんど人は3代前となれば、顔も生活も知らず、伝えられた宝物などもない。それほどに物はいくら大事にしても自分の目が黒い間だけだ。子孫にこれは宝物だと口酸っぱく言ってもまず信じないから、風化させるか、でなければ廃品回収業者にお金を払って持って行ってもらうことになる。1000年も伝わるのは、よほどの強い意思と、家柄に対する誇りがなくてはならない。だが、こうも考えられる。陽明文庫の十数万点が明日売り立てされたとしても、そのことによって変わるのは所蔵者のみで、作品そのものは滅びない。ところが、作品の由来が重視される場合がある。どこそこの名家がずっと所蔵している、あるいは有名な誰かが持っていたといった付加価値だ。そのため、どこをどう流れた挙句に見出されたかわからないようなものは、宝物としての価値は少々低くなる。陽明文庫の所蔵品は、たとえ同じ作家の絵であっても、1000年続く家柄が大事に保管して来たということにおいて恭しさが数段増している。そういう家柄を知っていたので、近・現代の日本画家は案外寄贈したのかもしれない。おそらくそうであろう。金で買うなどは成金のすることで、高貴な家柄には自然と宝物は集まる。
今回の最大の呼び物は、藤原道長が書いた国宝の「御堂関日記」という日本最古の千年前の日記全14巻だ。これは書や和歌に関心のある人が見るべきもので、筆者には猫に小判であった。それより目を引いたのは、中央の休憩場所がついている吹き抜けホールに広げられた「大手鑑」だ。何とその最初は聖徳太子、光明皇后、良弁の筆になる色紙が貼られていた。これらの人物は藤原道長から2,300年前に生きたので、その真筆を入手し、大切に保存したのは充分あり得るが、真筆であるかどうかを保証する他の書がない。当時すでに骨董趣味人相手に贋作を製造する輩がいたことはあり得るので、「大手鑑」の冒頭の数人は話半分に思っておいてよいが、その一種大風呂敷具合も近衛家なら真実味を持って迫って来る。この古い有名人の書を大切に扱う思いは、洋の東西で変わらないと思うが、毛筆で書かれた文字は、そこに時代の特徴と、書き手の人柄が立ち表われるので、珍重ぶりは東アジアではことのほか強いだろう。そこで思うのは、「大手鑑」最初の聖徳太子の書だ。紫色の短冊に金泥で書いたあったように思う。その文字はじっと見ていると、確かに聖徳太子の神々しさのようなものがある。今ならば当時やそれ以前の書は、写真製版された本などで容易に見ることが出来る。つまり、学ぶことはたやすい。それは藤原時代の比ではないだろう。だが、いくら模倣すべき資料が豊富でも、この1000年の間に人々がすっかり変わってしまい、聖徳太子の時代の雰囲気を醸し出すことはまず無理だ。模筆すべき資料が少なかった藤原時代ではあっても、まだ人々の思いは聖徳太子からさほどかけ離れたものではなかったはずで、「大手鑑」の聖徳太子や光明皇后、良弁の筆跡は、仮に別人が書いたものであっても、平安時代の人たちが見て納得出来る古風なそれでいて威容を示すしていたに違いない。大事なのはその古様の品格ということなのだろう。それは大きな穴が空いていても老木だけが持つことの出来る貫禄だ。
さて、筆者が近衛家で最初に思い出す人物は近衛家熙で、その名前を知ったのは京都に出て来て間もない頃だ。週刊朝日百科「世界の植物」を近所の書店で毎週取っていたが、その裏表紙が世界のボタニカル・アートで、家熙の「花木真写」からも数点取り上げられた。それがとても気に入って、長らくその全貌を知りたいと思っていた。それが本展でようやく実物の巻物を見ることが出来た。また、今では近衛家熙がどういう文化的な人物かは知識があるが、「花木真写」の素直でしかも香り高い写生は、よほどの人物の筆になるもので、本当に家熙が描いたのかどうか疑問視もされるが、筆者はそうであると思っている。それは平安時代の五摂家の筆頭という家柄に生まれた者だけが持つことの出来る気品が溢れていて、近衛家が腐らずに江戸初期から中期へと重要な文化人を生んだことの証となっている。書が中心では面白くないという向きには、ホールから後の会場は現代に近づく分、接しやすくもあって楽しかったのではないだろう。筆者が特に注目したのは、賀茂人形だ。これは数年前に亡くなった平安画廊の中島さんが筆者が伏見人形を集めていることを話題にするたびに話した。中島さんは上賀茂に住んでいた。そのこともあって賀茂人形に思い入れがあったのだろう。この一種の木目込み人形は、本では知っていた。だが、本展を見て思いを新たにした。想像以上に精緻でまた小さい。よくぞこれほどの細工をと思う。同じ形ものが数個あるなど、形はきわめて多様というほどではなかったが、隣に陳列された御所人形とはまるで違う味わいがある。御所人形の白い肌を見なれた目からすれば茶色に変色した木材の賀茂人形は郷土玩具の素朴さを思わせ、美しいという言葉はさほど似合わない。だが、そこにごくごく細かい金襴などを織り込んだ織物を衣装として被せていて、その木と布の合体した味わいは、その目鼻の独特の表現も相まって、他のどのような人形にもない風格をたたえる。高さ2センチほどの小さなものできちんと衣装を着せてあって、さすが京都の人形との思いをさせる。江戸中期に始まったものらしいが、近衛家熙が集めたものかもしれない。そうだとすれば、彼は新しい文化の理解者で、しかもその新しいものの中から価値あるものを見抜く力があった。そういう人物をたまに生み出さねば、公家の家柄も長くは続かない。公家には関心がないと言いながら、さすが歴史ある近衛家に空恐ろしいものを感じた展覧会であった。家柄に国宝はないが、定めるとすれば近衛家はその筆頭格だ。