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●『解脱上人貞慶-鎌倉仏教の本流-』
倉時代の前期に活躍した貞慶というお坊さんが亡くなって800年経つだ。それを記念した特別展が奈良国立博物館であった。今は規模を変えて神奈川の金沢文庫で開催されている。



●『解脱上人貞慶-鎌倉仏教の本流-』_d0053294_2323285.jpg解脱上人は貞慶が自ら名乗ったのではなく、天皇から賜ったものだ。オウムなどの新興宗教が使ったせいもあるのか、「解脱」という言葉は今は垢にまみれたように聞こえる。自分で「解脱しました」と言えば、周囲はその大風呂敷ぶりに呆れながらも、そう思ってしまうところがある。この手は芸能人がよく使う。それとは反対に、周囲からあの人は解脱したと言われるのは、よほど人柄が素晴らしいからだ。僧も人間であるから、まるで駄目な者もいれば、貞慶のように愛された人もあるが、解脱上人と呼ばれる僧がいたことは、だいたいその時代、堕落していた僧が目立ったからではないか。さて、本展を見に行ったのは、貞慶に関心があったからではない。本展のチラシを見て初めて解脱上人という僧がいたことを知ったほどだ。チラシ右下に数珠を持って坐る貞慶、左上には阿弥陀来迎図が印刷される。阿弥陀の両眼から光線が発せられ、それが貞慶に当たっている。その光線をさえぎる形で、「ストイックでアクティヴ!」と書かれている。これは貞慶をうまく形容している。本展はその禁欲的で行動的な貞慶を紹介するが、「禁欲的」と「行動的」はどことなく相反するところがある。行動的であれば他人と関係せざるを得ず、そこで多くの軋轢を生ずる。そして、それに関係する資料などが豊富にもたらされるので、こうした展覧会では展示物には事欠かない。一方、禁欲的であれば、慎み深くて世との関わりを避け、形となるものをほとんど残さない。本展はその矛盾するようなところをそのまま見せていた。そのため、貞慶についてよくわかった気になりながら、さっぱり記憶に残らないと言える。この不思議な空気のような存在感こそが貞慶で、そのアクの強さとはほとんど無縁であるところが愛されたのだろう。とはいえ、後述するように、ただただ温和で争いを避けた弱虫といった性質とは違う。そして、僧とは、まさに「ストイックでアクティヴ」であるべきと思うに至る。この「ストイック」は、仏教の教えを守り、よく信心し、また学ぶという態度で、本来僧侶にこそぴったりの言葉だ。「アクティヴ」はそのストイックさを徹底させる態度を言い、そのことによって周囲を感化もし、また自ずと一定のところに留まらず、理想を求めて転々とする。僧の一生はけっこう多忙ということだ。
●『解脱上人貞慶-鎌倉仏教の本流-』_d0053294_1430539.jpg

 新興宗教が絶えず生まれるのは、時代が変わり、社会が動いているからだ。いつの時代でも新しいものが必要だ。流行という言葉は軽薄な印象を与えるが、宗教にも流行がある。それは本質は普遍で表面的な部分のみが変わると思っていいが、宗教ではその本質と表面的なところを分け隔てにくいところがある。そのため、本質をがらりと変えようと考える宗教家が出て来る。それでもない宗教の最も核心的な部分は変わらないと言えるが、現在の世界を見ていると、宗教の違いで殺し合いが絶えず、どの宗教の本質も同じとは言えないことを思う。そうなると、人々はますますより絶対的な新しい宗教を求める。そうして新興の宗教が絶えず生まれる。需要と供給の関係だ。80年代にオウム真理教が一部の若者の心を捉えたのも、時代に見合った何かを彼らが認めたからだ。結果的にとんでもないことをしでかしたが、そこに宗教が持つ力の怖さを思う人は多い。そういう力を狂信と謗るのはたやすくても、誰でも信じているものはあるし、それは他人にとって狂信と映る場合はある。本展の副題「鎌倉仏教の本流」は、「傍流」があったということだ。それを新興宗教とみなしてよい。つまり、貞慶は鎌倉前期に興った新興宗教ではなく、もっと昔からあった宗派に属する。貞慶が行動的であったことのひとつは、本展で紹介されたように、法然を批判し、「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも成仏出来るという教えの停止を天皇に求めたところに見える。他人は他人、好きにさせておけばよいという考えを、こと宗教に関しては持たなかった。そこに「ストイック」と「アクティヴ」の言葉が似合う貞慶らしさがある。同じ仏教でも宗派が違うと、このような排斥がある。法然は言うまでもなく新しい鎌倉仏教を興したが、当時はまだ本流と呼ぶほど勢力は大きくなかった。ついでながら、貞慶は法然より22歳下で、1歳長生きした。貞慶は初めは興福寺の学僧となった。また、戒律をよく守ったとされるから、法然の言うように、無学文盲の徒でも成仏出来るとする教えに反対するのは当然であろう。どんないい加減なことをして人生を送っても、自己を厳しく律した者と同じように救われるのであれば、こんな不公平はない。またそんな教えを釈迦が説いたであろうか。一方で、法然が出現するほどに、当時は庶民にはあまりに悲惨な社会であった。そのため、貞慶のような出自のよい僧のみに阿弥陀が迎えにやって来るというのでは、庶民の側からすれば不公平だ。武士が政治を司り、時代が大きく変わった鎌倉時代前期は、新しい仏教がその後現在に至るまで勢力を拡大し、また人々がよく知るものとなった。そのため、貞慶よりも圧倒的に法然の名が知られる。そして親鸞が法然に続くが、法然や親鸞の教えを伝える大学がむしろ学僧を抱える時代となった。貞慶がそうした現代の仏教を見ればどう思うだろう。
●『解脱上人貞慶-鎌倉仏教の本流-』_d0053294_14302763.jpg 貞慶は興福寺の学僧であったから、その宗派は南都仏教であったことがわかる。興福寺はそのうちの法相宗であったが、これは遣唐使によって中国からもたらされた。WIKIPEDIAによると、現在は興福寺と薬師寺がその本山になっていて、また「学派的のものであり、寺が固定されたり、教団となったりすることは少ない」ともある。このことは貞慶の後の行動を見ればわかる。本展の後半は、貞慶が住山した笠置寺と海住山寺関連の仏像やお経などの紹介となっていた。ところで、南都仏教の「南都」は、京都人にはあまり身近な存在には思えない。「南都」とは、京都の南の都である奈良を指すが、その奈良は今の奈良市内だけではない。本展には海住山寺の巨大な航空写真が壁に貼られていたが、寺はとても立派で意外であった。この写真を撮影したいなと思っていると、会場地下の売店に通ずる空間に他展のポスターが貼ってあって、そのうちの1枚に同じ写真を使ったものがあったので背伸びして撮った。その写真を掲げるが、町の家並みを見降ろす山中に海住山寺の大きな境内が見える。笠置寺も海住山寺の名前は知っていても、実際に訪れたことのある人は少ないだろう。それほどに交通の便の悪いところにある。京都から近鉄電車に乗って奈良に行き、展覧会を見ただけで疲れて京都に戻るような筆者では、たまに足を延ばして笠置寺や海住山寺に行くという気にはなかなかなれない。場所を地図上で確認すると、とてもついでに訪れることなど出来ないことがわかる。そして、貞慶がそのような不便な山中に住んだことがやはり「ストイック」であったと納得する。だが、それは交通が発達した現代人の考えで、どこへでも徒歩で行くしかなかった貞慶の時代、笠置寺や海住山寺は京都と奈良の中間の山にあって、案外便利であり、またそれなりに人里を離れているので、寺の立地としては文句なかったかと思う。話は変わるが、家内の母方は柳生の出で、柳生は笠置山の南の麓だ。笠置寺は西の麓にある。電車はJRの関西本線しか近くに通っておらず、ハイキング好きでなければ一生無縁の土地と言ってよい。前述した海住山寺のポスターを撮影した後、すぐ近くのチラシなどを置いている場所に、「木津川市てくてく」と題する手帳サイズに折りたたんだ地図つきの観光案内書が1部だけあることに気づいた。1部のみの場合、見本であることが多いが、そういう断り書きがなかったのでもらって帰った。それを今広げながらこれを書いている。
●『解脱上人貞慶-鎌倉仏教の本流-』_d0053294_14304592.jpg 「木津川市」があることは知らなかった。その範囲は京都府の最南部で、奈良市に接している。また市の中央を木津川が東から西へと流れている。つまり、貞慶は上流の笠置寺から下流の海住山寺へと移り住んだ。もちろんこの川はそれから北上して八幡の背割堤で宇治川、桂川と合流して淀川になる。木津川市は京都ではあっても、「南都」に属する。筆者は木津川市をほとんど知らないが、ほとんど奈良に接する場所にある浄瑠璃寺や岩船寺には20代に2回訪れた。ついでながら、本展には浄瑠璃寺の吉祥天立像が展示された。これは今までに何度も見たことがあるが、浄瑠璃寺で見たのが一番印象的であった。それでもさすが見事な像で、これだけを見るだけでも訪れた価値があった。館内のチラシによると展示は筆者が訪れた日を含むわずか6日で、神奈川展では展示されるだろうか。浄瑠璃寺を訪れると、必ず岩船寺にも立ち寄るが、2回とも引率者がいたので、どこをどう歩いたのか記憶にない。筆者はハイキングで山辺を歩くのが苦手だ。だが、浄瑠璃寺と岩船寺を知るので、木津川市の全体的なイメージは何となくわかる。「木津川市てくてく」は、全体から4つの小区域を選んで裏面に拡大地図を載せる。見所が多い区域ということだ。これを懐に入れてたまにはぶらりと古道を歩くのはいいだろう。本展では写真でしか紹介のしようがなかった磨崖仏は、現地で見てこそ感動も深い。そう思えば笠置寺や海住山寺には一度は訪れておくべきだろう。話を戻して、「木津川市てくてく」で浄瑠璃寺、岩船寺が属するのは、「当尾 石仏の里」の区域だ。後の3つは、最も西、JR木津駅周辺の「木津 木の津と奈良路」とある。その北に隣接するのが、「山城 山背古道」で、中央をJR奈良線が走る。その東、「当尾 石仏の里」の少し離れた北に、「瓶原(みかのはら) 万葉の里」があり、その区域の北端が海住山寺だ。最寄の駅はJR関西本線の加茂だが、駅から5,6キロある。また、「木津川市てくてく」には笠置寺や柳生は載っていない。海住山寺から東10キロほどが笠置寺で、京都市内から日帰りで行くには早朝に出る必要がある。今は車で訪れるのが便利になっているだろうが、運転しない筆者はその考えが最初から欠落している。負け惜しみではないが、貞慶の思いを少しでも知るには最寄の駅から歩くのがいい。長々と位置関係を書いたが、それは筆者には必要なことだ。繰り返すが、京都の最南端部は筆者には未知の土地だ。それだけではなく、奈良でもまだ行ったことのない区域は多い。古墳や万葉集に関心を持つとよいが、老年になるとそうしたことに興味が湧くかと思っていたのに、その気配がない。それでせめて奈良国立博物館の仏教に因む特別展は見ておこうかという気になる。
 笠置寺と海住山寺は真言宗で、貞慶とどう関係があるかと思うが、前述の「学派的のものであり、寺が固定されたり、教団となったりすることは少ない」という法相宗からそれは理解出来る。本展の展示を紹介しておくと、1「興福寺の貞慶と法相宗」では、上人を描いた掛軸がまず数点、そして法相曼荼羅が並んだ。法相曼荼羅は中央に弥勒菩薩、それを法相宗の僧たちが取り囲む。そのほか興福寺曼荼羅や春日曼荼羅もあったが、興福寺は平安時代に春日大社の実権を得ていたから、この展示は当然だ。本展の4が「貞慶と春日信仰」となっていて、そこでは春日大社に因むものが展示された。2は「笠置寺の貞慶と信仰世界」、3「貞慶と南都復興」、5「海住山寺の貞慶と観音信仰」、6「貞慶思慕」で、興味が惹かれたのは2に展示された「明恵上人像」だ。これは筆者が訪れた時には展示はなかったが、会場には明恵も貞慶と同じく法然を批判したことが説明されていた。ついでに書くと、明恵は貞慶より18歳下で、19歳長生きした。同じ学僧としてお互い存在をよく知っていたはずだが、明恵の華厳密教と貞慶とではどう考えが違ったのか共通点があったのか、門外漢にはわからない。本展のチラシの文章はごく短い。そこに「戒律を大切にした貞慶は、釈迦如来・弥勒菩薩・観音菩薩・春日明神をとりわけ深く信仰し、由緒ある寺々の復興や仏教の再生に大きな貢献を果たしました」とある。2と5の展示物はこの言葉から想像出来るように、主に笠置寺と海住山寺にある仏像や仏画となった。それらは同寺に訪れても間近には見られないものだろう。こうした博物館での展示はその点まことに便利でありがたいが、そのことで山深い寺を訪れた気になることは間違いだ。ましてや図録のみでとなればさらにそうで、実際に寺を訪れなければ、信心についても本当は触れることが出来ないだろう。筆者は明恵上人が住んだ山からさほど遠くない場所に住むというのに、10年に一度もそこを訪れない。これでは笠置寺や海住山寺がはるか彼方にあると思えるのも無理はないが、一旦思えば何事もすぐで、それは信心も同じではないかと思う。
●『解脱上人貞慶-鎌倉仏教の本流-』_d0053294_14354051.jpg

by uuuzen | 2012-06-23 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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