握手出来たのかどうか、今月2,3日は本を買えばツヴェルガーのサイン会に参加出来たことをチラシで知った。ただし、予めはがきを送って当選しておく必要がある。本は彼女が今までに出版したものを展覧会場で買わねばならず、その中には本展の図録も入っているだろう。

両日とも50名ずつで、ひとり30秒として30分ほどだろうか。握手の時間くらいはあったのではないだろうか。ツヴェルガーは1954年生まれで筆者より3歳下だ。正面から撮った笑顔の写真は40歳くらいに見える。最近撮ったものではなく、10数年前のものかもしれない。それを確認するために、またまた知的な美人なので、握手出来るのであればサイン会に行ってもよかった。だが、いつものように、チラシを見るのはこうして展覧会の感想を書こうとする気になってからで、サイン会はとっくに終わっている。彼女が会場に来たことは会場に入ってすぐにわかった。自動扉が開いて正面の赤い紙を貼りつめた壁に、本展が12年ぶりであることなどの紹介パネルがかかっていた。そしてパネルの下、しゃがまないと書けない位置に、マジックインキによる彼女のサインがあった。サイン会も合わせて来日したようだ。本展が終わった後、その壁は解体され、サインも破棄されるであろう。サインは流麗で、ヨルク・シュマイサーほど複雑ではないが、それに似る。そのサインを見ただけで彼女の画才のほどがわかる。彼女の名前は知ってはいたが、12年の展覧会は見た記憶がない。絵本原画展はさほど関心がないが、15日に家内と京阪七条で待ち合わせをして京都駅まで歩き、本展を見た。こうも各地で頻繁に絵本原画展があると、世界にどれほどたくさんの絵本の描き手がいるのか、またそれらの大半をまだ知らないことを思って、いかに世界が広大で、知らないことだらけであるかを自覚する。それほど無数とも言える絵本作家がいることは、絵本が膨大に売れているわけで、子どもたちにとってはいい時代になっている。先日取り上げた村山知義は大正時代から絵本の挿絵を描いていたから、絵本の歴史は日本でも長い。筆者がそれを実感出来ないのは、育った環境に絵本がなかったからだ。貧しい家庭には本がない。いつの時代でもそうだ。半世紀以上前の昔ならさおさらだ。小学生になる前にすでに貧しさをよく自覚していた筆者は、近所の両親が揃う家には『キンダーブック』などの子ども向けの本があったことを知っていた。また心のどこかでそうした本を借りて読みたいとは思わなかった。むしろ避けた。そうした本を手に取ることは、自分の家の貧しさをより実感することであった。実感してもかまわなかったが、そうした本をほしがると、懸命に働いていた母はきっと食べるものを削って筆者に買い与えた。母にそんなことをさせたくなかった。
そうした子ども向けの本のある家の子に限って、そういう本をあまり好まなかった。親の思いはいつの時代でもそのように子どもに伝わらない。子どもがほしいとも思わないものがある家と、本当はほしいのにそれが手に届かない子どもの家庭がある。いつの時代でもそうだ。そして前者はさして本を好まないだいたい普通の人間に育つ。後者は子どもの頃の反動で本を集める人間になる。筆者は典型的な後者だが、この年齢になるまで、絵本への興味は大きくはない。sのためか、息子にも買い与えなかったし、読み聞かせた記憶もない。きっとそれは、筆者が小学生になるかならない頃の、よその家庭に転がっていた『キンダーブック』のせいであることが大きい。それを思い出すたびに母の苦労も浮かぶ。先日ふと思い出したが、小学生になってからの筆者はクリスマス・プレゼントに毎年本をねだった。いつも母が買って枕もとに置いてくれたのは「少年」や「少年画報」という漫画月刊誌であった。毎月買ってもらえるほど裕福ではなかったが、3年生頃にはほぼ欠かさず買ってもらったと思う。ふたりの妹は筆者のみがそんな贔屓をされることに差別を感じ、今なお「母は兄だけを大切にした」と恨み節を言うが、筆者が近所の裕福な家庭の子どもの境遇について思ったのと似たことがわが家でも密に起こっていたということか。人の心とはそのように根深いものがある。今では図書館がまるで無料のレンタル屋と化して、どんな貧しい人でもその気にさえなれば絵本でもCDでもDVDでも、好きなだけ楽しむことが出来る。そんな時代になったのはここ20年ほどと思ってよい。日本が世界有数の金持ちになったからだ。昭和30年代のままならば、市や区の図書館は充実せず、借り出しが許可されなかったか、大きく制限があったに違いない。筆者が小学5年生の時、学校で図書室で本を借りることが同級生の中でブームになった。とはいえ競って借りたのは学級で数名だ。ある日、空いていた棚に20から30冊の新しい本が並んだ。今でもその背表紙と手触りを思い出す。ベルヌなどの外国の空想小説で、ページを開くをインクの臭いが漂った。月刊漫画誌とは違って、ハードカヴァーの重さは格別で、図書室に入ったばかりでまだ誰も読まない本を最初に手に取ることが嬉しかった。そうした本に載る絵は、子ども向きの絵本の絵とは違った。当時の月刊漫画誌は、漫画ばかりではなく、小説も載っていたが、その挿絵と似たタッチであった。その写実性を好んだというほどではないが、『キンダーブック』に見たようないかにも子ども向きを思って描かれた幼児性がない分、つまり大人びていた分、筆者は好んだ。今にして思えばそうした空想小説の挿絵は原本のものそのまま使っていたのかもしれない。となれば、とても古い西洋の子ども向きの本の挿絵に触れていたことになる。
さて、本展はツヴェルガーの今までの絵本のほぼすべての原画が展示されたのではないだろうか。彼女の絵本はまだ全部が邦訳されていない。その点は重要だ。邦訳しても売れないような物語が含まれているからだ。つまり、いかにも西洋的な画家であることが見える。筆者の20代であった頃と違って、今は絵本作家や画家を目指す若者が多く、そのための専門誌もあるので、ツヴェルガーだけではなく、もっと知られない絵本画家の作風は日本でよく知られているであろう。そのため、どのように描けばよいか、どのようなスタイルの絵がまだないかといった情報は簡単に入手出来ると思うが、絵本画家は物語に添える絵を描くので、まず物語を深く理解せねばならない。そしてイソップやグリムといった西洋の古典となると、今まで多くの画家が描いて来ているから、それらを参考にするのは言うまでもないとして、それと並行して行なうべきは、やはり物語をどう解釈するかで、この点は西洋人に比べると日本の作家は弱いのではないだろうか。そのことが、ツヴェルガーの絵本のうち、日本で未発表になっているものがあるところに現われている。会場で面白い場面に出会った。中年の女性がふたり筆者のすぐ隣にいた。ストラヴィンスキーの音楽でもよく知られるナイチンゲールの物語だ。中国の皇帝が機械仕掛けのナイチンゲールを本物のそれよりほしがる。病に伏してから初めて本物の鳥のさえずりがいいと思うが、この「ナイチンゲール」がそのふたりにはわからない。よけいなおせっかいをしようかと思った矢先、ふたりの片方がバッグから電子辞書を取り出し、「ナイチンゲール」を打ち込んだ。そして、「夜鳴きウグイスとあるで」といったことをもう片方に言った。ツヴェルガーの原画展を見に行こうとする者が「ナイチンゲール」を知らないとはかなり意外だが、平均的な人とはそのようなものかもしれない。また、ツヴェルガーが描いた絵本が全部日本で出版されない事情はそのふたりを見てもわかる。西洋の何でも知っていると自惚れる日本は、実は奥深いところはまだまだ知らないということだ。となると、ツヴェルガーの人気も底が浅いのではないか。なぜなら、ツヴェルガーが描く物語は、どれも彼女が描いてみたいと思ったものであり、物語に関心を寄せ、それを彼女なりに理解しているからだ。そうでなければ絵など描けるはずがない。描けたとしても人に感動を与えられるだろうか。そんなことを思ったのは、先の「ナイチンゲール」の数点の原画に描かれる中国人の表情や服装、家具調度などが、とても自然で、それを描くための彼女がどれほどの資料を駆使し、しかもそのうえに想像力を高く働かせたかがわかるからだ。
彼女の絵の特徴は、繊細な線と、背景の塗り潰しに駆使するたらし込みの技法だ。このたらし込みはほとんどが褐色か灰色で、全体に暗い。またもやもやとしたその表情が物語につきものの幻想性にうまく似合っている。たらし込みは一発勝負に近く、うまく行かない場合は絵全体を描き直さねばならない。その緊張感が絵にはよく出ている。また、このもやもやした、また重々しくて暗い空気は、彼女のどこかさびしげな笑顔によく似合っているうえ、オーストリアの風土を感じさせる。先日投稿したカール・マリア・フォン・ウェーバーのオペラ『魔弾の射手』の世界に通じると言おうか、ドイツ・ロマン主義の香りがする。彼女はもちろんそれを自覚しているはずで、またそういう自分から逃れることは出来ないだろう。どの絵にも西洋画ではあたりまえの影が描かれる。言い換えれば太陽の光を受ける部分とそうでない部分をはっきり描き分ける。背景を陰鬱にたらし込みで描く一方、中心となる人物の顔や衣服の一部は、光が当たる部分として紙の白を残す。それが見事で、人物などの物体の輪郭は、その明暗対比の向こうに沈んでほとんど見えにくい。これは日本の伝統的な絵とは著しく異なる。村山知義が自作のアニメーションを「線絵画」と呼んだこととは相容れない世界だ。「面絵画」とわざわざ言葉を作るまでもなく、西洋では光が当たる面とそうでない面との対比で絵を描いて来た。写真の発明もその延長上にある。日本ではまず絶対に写真は発明されなかった。陰陽で平面的な絵を見る歴史がなかったからだ。ツヴェルガーの原画は子ども向けの絵本であるので、赤などの派手な色を使うのはもちろんとしても、背景の渋い色合いのたらし込み効果によって、全体に重くて寡黙な印象がある。それはグリムなど西洋の物語にはぴったりだ。日本にもそういった渋い色合いは存在するが、もっと平明で、奥行きを感じさせない。そこでまた彼女の笑顔の写真を思い出す。たった数秒見ただけであるのに、その顔は印象に強い。筆者好みであるからかもしれないが、彼女の顔には、現代のドイツ語を話す女性画家の特質が作品以上に深く刻まれている気がする。同じことは、昔、チェコスロヴァキアのクヴィエタ・パツォウスカーの写真を見た時にも思った。筆者はパツォウスカーの作品を大いに好むが、彼女は東欧のツヴェルガーと言う以上に表現豊かで様式性や特徴をよりふんだんに持っている。彼女はツヴェルガーより26歳も年長だが、絵本のノーベル賞と言われる国際アンデルセン賞をもらったのは1992年で、ツヴェルガーの2年後であった。これは不公平ではないかと思うが、西洋での人気度の差なのだろう。
ツヴェルガーの絵本は所有せず、またまともに読んだものは1冊もない。よく知られるあらゆる物語に描いているので、もうネタ切れではないかと思うが、そのようにたくさん描くのは、人気があるので依頼が来るという理由とは別に、それほどたくさん描かねば生活が出来ないという事情もあるのだろう。図録をぱらぱらと開き、彼女が書く絵本画家になるための方法といったような文章を1,2分斜め読みした。そこに書いてあったことは、まずは家族など周囲の援助は受けられるのであれば受けるべしとの忠告だ。若い頃はまだ技術も表現力も未熟で、自信もない。おまけに経済力がないから、仮に絵の個展を開いても売れずに挫折する。そこで家族や身内の支えが大切だと彼女は言う。またどうにか絵本を出版出来るようになっても、毎年1冊程度では生活は無理だと書く。それは絵本の売り上げにもよるだろうが、概して駆け出しの画家では画料は安いのだろう。ツヴェルガーが幸運であったのは、最初の家族の経済的援助によってイギリスで暮らして絵を学ぶことが出来たことと、夫が絵本を海外で出版する会社を設立したことだ。日本で展覧会が開催され、多くの若者が見ることは、それだけ名前がよく知られ、また絵本が売れているからであって、オーストリアやヨーロッパ内部の知名度とは桁違いの収入をもたらすだろう。パツォウスカーは日本でも展覧会が何度か開催されているが、ツヴェルガーほどに絵本は多く出版しておらず、またそのあまりに独特な絵は子ども向きではないだろう。つまり、わかりやすさから言えばツヴェルガーは格別だ。代表的な子ども向けの古典はあら方網羅しているその器用さからもそれは言える。また、その何でもこなすという点がパツォウスカーのような独特さに欠け、筆者には物足りない。だが、どの画面にも漂う一種のさびしさの気配はヨーロッパならではで、その味がいいとは思う。同じヨーロッパでも北欧はまた違い、以前にこのカテゴリーで取り上げたフィンランドの
ユリア・ヴォリは、本展と同じ会場で昨年またやって来たようだが、その時は見に行くことが出来なかった。彼女はツヴェルガーより14歳若く、まだこれから活躍するはずだが、筆者好みの美人でサイン会があれば握手したい。何を書いているんだか、絵本画家は女性に限るということか。しかも個性的な。