哲学的と聞くと、たいていの人は敬遠する。版画家の井田照一の名前は知らなかった。何年か前に本願寺の土壁を用いた作品を2点見て印象深く思った。

その作家名が井田であることを記憶しなかったが、17日まで京都市立美術館で開催されていた展覧会に最終日に訪れたが、最後の部屋の最後の壁面に同作がかかっていた。同作は版画とは無縁に見える。ま、それが井田の世界を読み解く鍵でもあるだろう。作家が表現をころころと変えても本質はみなつながっている。それはいいとして、同作は左官屋の絵好きの手になると言えばよいか、キャンバ全体に土を絵具代わりに用いて均一に塗ってある。左右2点揃えで、色合いが違う。日本の土壁の色だが、同じような色は世界どこにでもあるだろう。そういう色調を本願寺が好んでいるのは、ワビやサビに由来するだろう。同作は土をそのまま塗ってはいずれ乾燥してぽろぽろ落下するためか、キャンヴァスの縦横に2センチ間隔ほどに釣り糸か細い針金で縫いつけが縦横に均等かつ緻密に施してある。竹を同じように編む家屋の土壁と同じだ。接着剤を使わねばいずれ剥がれるように思うが、日本の適度の湿度によって案外そうでもないのだろう。この土壁を切り取ったような絵画とも言えない同作は、作者の意図を知らずとも、印象に強かった。それも人によりけりで、こういう現代美術を好まない人も多い。そんなことは重々承知のうえで作家活動を続け、作品を大量に残し、うち400点が京都市美術館に寄贈された。亡くなったのは2006年、65歳であった。生年は1941年で筆者より10年早い。京都生まれで、一風変わった版画家だ。どこかの団体に所属して職人的な腕前で見せるという道を採らなかった。伝統の重みに耐えかねて逃避したのではない。伝統の枠組みに収まらない思いが渦巻いていた。会場には説明パネルや年譜がなく、次々と現われる傾向の違う作品に戸惑った。多様な傾向の作を平行させて制作したのか、あるいは各時代ごとにがらりと素材を変えたのか、作品数があまりに多く、制作年を確認しなかった。また作品の題名はどれもほとんど素っ気なかった。それは思想を端的に示す「Surface ⅰs the Between」といった言葉に類し、その確たる思いによってヴァリエーションを生んだ。それはどの作家にもある、限った時期の同傾向作との意味だが、井田は版画以外に立体も手がけたので、出発点にある版画の仕事そのものが、他の典型的な版画家とは違ったものを内蔵すると見る必要があろう。とはいえ、最初は典型的とも言える、カラフルなポップ調の版画の連作をたくさん作った。60年代後半のことだ。いかにも当時を感じさせ、菅井汲の作品を思わせる。その仕事のままでは井田の名前は残らなかったろう。そうしたカラフルな色面を構成した版画は、最初の部屋の片方の壁にほとんど隙間なくまとめて展示された。これはあくまでも初期作であって、後の茶や黒などアース・カラー主体の渋い色合いの重厚な作とは別物であるという意識が、学芸員の思いにあるためではないか。
普通のと言えば語弊があるが、普通の美術好きはその初期の版画を好むかもしれない。喫茶店の壁にあれば洒落ていると思わせる。井田はそこからすぐに変化を見せる。まず、半透明な紙や、透明なビニールに刷ることを始めた。そうして刷ったものを別の版画に重ねるが、それはちょうど衣服を重ね着したような感じで、上の衣服と下の衣服が絵柄がつながったりしている。これは1枚ものの平面的な版画をどうにかもっと立体的なものにしたいという思いの表われで、珍しくはない。誰しも同様の作品を考える。次に井田は1枚の紙の両面に別々の絵を刷るシリーズを始めた。そうした作品は壁面に飾ることは出来ない。宙づりにして両面から見せる。そこに版画とは何かの思考がある。版画は通常の絵画とは違って、立体の直接の雌型を取ることが出来る。両面刷りの作品にはその思いがすでに見え透いているが、両面に刷る作品は、片面刷りの単なる2倍というものとは全く違うもので、刷られる紙の存在が圧倒的だ。刷る絵よりも、紙そのものが大事であるかのようだ。それはさておき、紙は微妙に透けるので、どちら側からも裏側の絵が表側に半分重なって見える。1枚で2倍楽しめる。だが、井田の思いはそこにはなかった。版画とは何かを煮詰め、刷って現われるものと、刷られる存在との関係を思索した。ここからは鑑賞者各人が哲学的に考えねばならない。人間は原始時代から刷る行為を知っていた。
ヘルツォークの映画『世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶』でもあったように、たとえば岩肌に手形をつける行為だ。これは版画だ。井田がそんなことを考えていたかどうかは知らないが、人間を含め、存在の本質とは何かを常に思い巡らしたであろう。そうそう、会場半ばの休憩室に古い新聞記事などのコピーが6,7点あって、それらを斜め読みした。それによると、井田はたとえばボールを空に向けて放り投げると、どんどん上昇し、これ以上昇らないところで今度は下降に転じる様子に、ある日とても感動した。禅で言えば悟りの手前のちょっとした啓示だ。それを悟りの境地に導くには全生涯を費やす必要があり、そしてそれはまずほとんど不可能だ。悟るとしても、それは意識を失って死ぬ寸前だろう。この放り投げたボールの話からわかるように、井田は重力に魅せられた。重力の存在はあたりまえと言えば全くそうだが、地球上でのことであるし、人間が生み出す美術もまた地球上のものだ。これまたあたりまえだが、あたりまえをとことん考えると、美術や人間が見えて来る。そう井田は考えたのではないか。重力の存在をことさら鑑賞者に意識させるには何をどう用いてどういう表現を行なえばよいか。そんなことを思ってさまざまな分野の表現に手を広げて行ったのだろう。本願寺の壁土を用いた作品は最晩年のもので、すぐ傍らには高さ2.5メートルほどの葉を全部落とした枯れ木が立てかけられていて、よく見るとその幹や枝には紙が巻きついていた。これは紙を巻いたのではなく、紙漉きの繊維を絡ませたものだ。紙は木から作られる。その木にパルプ繊維を密着させるのは、木が人の手によってその本質が抜き取られ、また表面に貼りつけられたことであって、自然と人間の営みのつながり、美術の根底に横たわる人間の手技というものを感じさせる。この作品は、盆栽のように人間が手を入れた小さな模型のような自然によって雄大な自然を想像させるという見立ての美とは違う。人間の造形的な営みとは何かを考えさせる点で、もっと人間寄りの、人間本位の、すなわち真の意味での芸術作品となっている。だが、筆者のそうした見方を井田は否定するかもしれない。「何を勘違いも甚だしい」と言われるかもしれないが、作品をどう感じるかは鑑賞者の勝手だ。
紙の造形作家は珍しくない。だが、井田は普通の紙作家とは違う。普通の紙作家は、紙を漉くにしても、そこに何か挟み込んだり、あるいは粘土のような素材として考える。それとも、提灯のように枠に紙を貼りつけて立体を作る。井田の紙作品は最初に版画をしていたこともあって、版とは何かを考えた果てにあるものだ。これも現代美術家にはひょっとすれば同じようなことを考えた作家が以前にいるかもしれないが、井田はたとえばある地面の区画にパルプ繊維を流し込み、その地面の雌型を取る。世界各地を旅して同様の制作をした。これも「版」ということなのだろう。だが、「刷」ではなく、厳密には「拓」と呼ぶべきかもしれない。拓本は紙と同じように中国生まれで長い歴史がある。井田は中国の思想に関心があったかどうかわからない。ただし、60年代を過ごしているのでインドには関心があったろうし、また作品の題名に「Meditations」の単語が使われ、西洋人にはなり切れない思いを抱えていたのではないか。「Surface ⅰs the Between(表面は間である)」は、「間」というところに日本的な感性への思いが込められているだろう。この「間」は版画から見い出した思想だ。刷られた表面が間であるということの説明は、会場に乾由明の文章があった。それは哲学的な内容だけに一度読んだだけでは理解も記憶も出来ない。井田の文章にもそういうところがある。一方で英文でも書いているので、きわめて論理的な表現だが、そうした弁証法的とも言える文章を何度も読み返しているうちに井田の作品の意図がわかるかと言えば、さてどうか。井田は自作の説明におそらく哲学的という言葉は用いていないので、その作品を美しいかどうかと見るべきかと言えば、通常の意味での美しい花や女を描く絵からは全く遠いところにある。ではどこが美術なのかと言われると、美術の範囲を広げた仕事をしたと言うしかないが、それもまた当たっていない。先の地面の拓本とでも言う作品は、アイデアとしては事件現場の犯人の足跡を石膏で取ることと同じだが、版画で用いる紙を、版という思想の核とでも言える部分の表現を通じて得た考えだ。その作品は凹凸が顕著で、現実がそのままでは存在し得ない状態のその雌型を固定化している点で、版画でありながら、その行為を成した井田の存在が、自然と作品との「間」に彷彿とする。芸術家は媒介者であるという思いか。実際会場にいて不思議な思いに捉われた。紙繊維を流しこんだ作品は、かつて井田がいたことをはっきり感じさせるが、紙や作品はそこにあるのに井田はもうこの世にいない。作品を生む媒介者が芸術家であって、作品の向こうにその姿が見え隠れする。だが、その前にまず作品の存在感だ。
パルプ繊維を流し込む版画でもあり立体でもある作品はヴァリエーションがかなりあった。それらは壁にかける点で絵画に分類してよいが、制作の完成には重力が必要であった。いや、重力のみを抽出した作品と言ってよい。このことを、壁面に飾る立体のブロンズ作品でも形を変えて表現した。立体的なオブジェは普通は床に据えられて鑑賞される。同じオブジェをキャンヴァス状の枠に貼りつけて壁面に展示すると、普通は重力で下に向かおうとしているものが、壁に取りつけられているために、奇妙な浮遊感がある。版画は通常は額縁に入れて壁面に飾るが、そのこととこうした彫刻作品との関係を思ったのだろう。重力についての思いは、陶芸作品にも見られた。先の立体の壁画的彫刻と同じように、壁に取りつける作品と、床に据えるものがあったが、後者は巨大で、どうして焼いたのかと思わせる。京都市内の北部に住んで芸術家仲間が多かったであろうから、陶芸に手を染めたいと言えば助言者がすぐに見つかったのだろう。だが、井田の陶芸作品は手すさびで作ったものとは言えない迫力がある。たとえば一片が30センチ角の長さ150センチほどの角柱を3段に横たえた作品があった。木の角材を積んだような雰囲気と色合いだ。木でもそうなるが、重力によって、最下段のものが一番大きく中央がたわんでいる。そのことを見せるために製作したのかどうか、この陶芸作はパルプ繊維を使った立体絵画とでも言うべき作品と通じるものがある。また、陶芸ではやはり四角柱を井桁に組んだ上に鉢を置き、一体化させて焼いたものがあった。鉢や井桁のみで駄目であったのだ。焼成過程で鉢は井桁にくっついたが、そのことが重要であったのだろう。鉢と井桁の接触部分は版画の表面のようなものであり、その「間」こそが自分であると考えたと思える。そういう井田は自分の仕事は無名の中にやがて埋もれると思っていた。確かにそうかもしれない。美術館に大量に寄贈されたことは、生活費をどのようにして稼いでいたのだろう。現代美術は美術館に購入してもらうしかない。それには評論家の注目が欠かせない。評論家だけが理解出来るような作品は、一般には難解なものとして敬遠されても、現代美術家にとっては評論家の眼差しを意識することは宿命だ。そうした評論家が、ごく普通の美術愛好家にもわかりやすいたとえ話を用いてでも作品を説明してくれればよいのに、そんなことをすれば作品の哲学的な味わいが下落すると思っているから、何度読んでもよくわからない表現を取る。だが、筆者もそんな言い方で逃げてはならない。井田が自作がいずれ無名性を得ると思ったのは、ひとつの自負でもある。無名性であろうが有名であろうが、作品それ自体が確固として人々に記憶されればいい。井田はデュシャンのような名前が先行するような作家ではなく、むしろ職人芸的な版画から出発し、それがどんどん重力によって落ちるところ、つまり形として安定を得るところまで見届け、その作品は同時に無名性の獲得であると思っていたのではないか。自然の力に比べればどんな人間でも無名に過ぎない。それこそが井田が西洋の美術家に伍する態度と考えたように思う。自然は偉大な無名性なのだ。