この催しがあることを知ったのはネット・オークションでチケットが売られていたからだ。会場は難波にあるキリンプラザで入場無料だ。であるのに、なぜ売られるようなチケットがあるのかと言えば、会期初日前日の関係者招待券で、軽い飲食も出来るようであった。

なお、左に掲げる図版はチケットではなく、チラシだ。一般人の初日は7月23日で、その日は若宮テイ子さんらのスペシャル・トークがあった。彼女とは長い間会っていないので、その日に行ってもよかったが、整理券が朝から配付されるので、それを入手するのは難しいだろう。結局7月30日に行った。『ギュスターヴ・モロー展』や『井上青龍展』を回った後のことだ。ところが、疲れていたこともあって、6階にも展示があることを知らなかった。そのため今月15日にまた出かけた。このイヴェントを知った時、即座に思い出したのは、同じ会場で2、3年前に開催された『大ロック展』だ。これにも行ったことがある。今回はその続編かと想像したが、LPジャケットの展示は4階に少しあっただけで、全く趣向が違うイヴェントであることはただちにわかった。『大ロック展』の時は金沢工業大学所蔵の洋楽アルバムが会場の壁面いっぱいにところ狭しと並べられたが、その数は3000点近かったのではないだろうか。それだけ集まれば壮観で、どのアルバムもそれなりによく知っているが、たまに珍しいものが混じっていて楽しい展示であった。だが、LPレコードのジャケットをたくさん収録した本はよく出ているし、中古レコード店に行けばいくらでもLPはあるから、そうした展覧会もあまり感激はない。お気に入りのミュージシャンのアルバムが欠けていたりするとなおさら失望もするし、金沢工大所蔵とはいえ、しょせんは寄贈されたものであるから、個人が執念で収集したような迫力はない。金沢工大は所蔵するポピュラー・レコードを希望者がいつでも聴くことが出来るようにして、図書館と同じ機能を持たせているようで、これは他にはないありがたいことだが、金沢まで出かけなければ聴けない音楽というのがあるだろうか。その時間と費用を費やせば中古レコード店で同じレコードが買えるのではないかと思う。金沢工大がそうしたレコードを集めて公開しているのは、ビートルズ評論でも有名な教授の尽力で、『大ロック展』も確かその人のプロデュースではなかったかと思う。今の50代半ば前後の世代はビートルズ第1世代だが、そんな中から大学の教授になる人が出て来るのは当然のことで、そんな人はそれなりに青春時代の文化の紹介に努めればよい。筆者もビートルズ第1世代だが、ミュージシャンにはならず、教授にもならず、中途半端なまま今までやって来たが、こうしたブログにしろ、それなりに思い出を綴る年代になっている。中途半端は中途半端なりの意見があるし、それも含んでの60年代、70年代文化の多用性だったと思う。
キリンプラザ界隈は現在戎橋が大改装中だ。橋は公募によってデザインが決まり、完成した時は円形広場のようになる。それに道頓堀川沿いに遊歩道が出来て、歩く場所が増える。遊歩道は川の東方面はすでに完成している。少し歩いたが、川の水の浄化がまだまだで、これではムードもぶち壊しだ。橋は半分しか通ることが出来ず、そうでなくても人通りが多いのに、暑いさなか、キリンプラザ前はグリコなどの巨大ネオンの輝きも相まって、うじゃうじゃの人ごみにめまいがしそうになる。このあたりはもう40年近く前から何度も歩いているが、今後どのように変貌して行くのかと思う。中国や韓国、東南アジアからの旅行客や留学生とおぼしき若い人もよく目立ち、彼らはどのような感想を帰国後に伝えるのだろう。黒と銀を基調にした斬新なデザインの建物であるキリンプラザは、そのあたりの風景にすっかり馴染んでいるが、いつも思うことは、内部の6階は仕切りがないスペースでいいとしても、4、5階はややせせこましい変わった空間をしていて、いつもすっきりした気分が味わえない。通常の絵画や彫刻を並べる美術展には全くふさわしくなく、一風変わった展覧会や催物にしか似合う。こんな目立つ場所に建つビルの中での催しが無料であるのは不思議な気がするが、無料であっても人がたくさん入ることはなく、表のうじゃうじゃの人込みに比べると中は大抵がらーんとして涼しく、それはそれでほっとさせられる空間だが、せっかくの大阪の自慢を紹介するイヴェントも形なしの状況であるのはさびしい。主催はキリンプラザ大阪と放送局のFM大阪で、きっとFM大阪では番組の間に宣伝もしているのだろうが、それにしては『大ロック展』の時もそうであったが、来場者があまりに少ない。もうFM放送を聴くことが時代遅れになっているのだろうか。
このことは自分について考えればよい。ステレオにはFMチューナーがついているが、それにスイッチを入れたためしはもうこの10年以上もない。FM放送を聴いていた時間が今は完全にネットをすることに切り変わり、新しいヒット曲をFMからいち早く知ることもなくなった。今もFMが最先端のポップスを逐一紹介しているとは思うが、10年、20年と長生きする大物ミュージシャンの登場が今はどうなっているのだろう。あまりそういった才能が期待出来ない時代になっているのではないだろうか。このイヴェントの副題は「’70年代以降の大阪サウンド・シーンをたどる」で、大阪万博以降の大阪の音楽事情を紹介している。1970年よりもっと以前にロックを聴き始めた筆者としては、70年以降は自分にとっては完全に個人主義の時代で、みんなと同じFM放送の番組を聴いて楽しむというライフ・スタイルとはほぼ無縁であった。こういった音楽の歴史を紹介するイヴェントであれば、焦点を少なくとも60年代半ば以降に定めてほしいが、FM大阪が開局したのが70年4月で、それは東京についで日本で2番目の民放FM放送局だったというから、60年代はすっかり遠い別世界だ。FMはAMとは違って、音がステレオでよいために音楽番組には最適で、FM放送が流行音楽の動向を大きく左右して来たことは紛れもない事実だ。そこにはディスク・ジョッキーの存在もやがて欠かせなくなるが、一方で70年代以降はFM雑誌がいくつか発刊され、番組のつぶさな状況が予め把握出来た。これはカセットテープに録音する人たちへの羅針盤のような役割を果たし、1本のカセットに音楽だけをぴったりと収められるように放送局も音楽の時間を編成していた。LPレコード1枚を丸ごと演奏してくれる番組はNHKにもあったが、FM大阪では夕方7時だったかに放送される1時間番組の『ビート・オン・プラザ』がその牽引役となり、日本でレコード発売される以前に輸入盤などに頼りながら、流行しそうなアルバムを番組内で1曲もカットせずに流してくれた。A面とB面の合間にわずかな曲目紹介と話が入り、その間にカセットを早送りして即座にテープを裏返すといったことをしたものだが、当時同じようなことは何万人もの若者が同時に行なっていたのであろう。カセットはまだ比較的高価であったし、カラー・コピーもなければ今のように縮小拡大が自在のゼロックス・コピー機もまだなかったから、そのようにしてテープに録音してもレコードの売行きが悪くなることはなかった。70年代のLPレコードはジャケットが豪華であり、歌詞カードがついたりしているので、ちゃちなカセットに音だけ録音しても、気に入った音楽であればいずれレコードを買うことになったからだ。それにFM局の強みは、レコード化されないLIVE演奏を中継や録音によってよく放送してくれたことで、これらをテープにエア・チェックしたものは今でも貴重な資料になっている。これは記憶がかなり曖昧だが、大阪のキング・コングという中古レコードの草分け店が出来たのは70年代の終わり頃ではなかったろうか。その後レンタル・レコードのブームが来て、カセットに録音することは新たな時代を迎え、そしてCD時代が来て、カセット文化は終焉に向かう。こうした音楽を聴く形態の変遷は本当に目まぐるしく、200年後に1970年以降30年間の歴史が書かれる時、人々は状況を適切に把握するのに苦労するほど、よくぞあれこれとさまざまなものが次から次へと登場したものだと慨嘆するだろう。
レコードで所有していると、いつでも好きな時に聴くことが出来るが、同じ音楽がラジオから流れて来るのを聴くのはまた格別のよい味わいがある。それは自分が所有して知っている音楽をまた別の人が聴いてどう感じているだろうかという、一種の未知なる期待感と、音楽を未知なる人と共有している一体感が混ざったもので、特に後者は重要な何かを含んでいる。ラジオがよく公共のものと言われるが、公共の電波という恐れ多い権威に自分が好む音楽が適合して放送されるというのは、その音楽が権威づいたことのちょっとした証になり、その音楽を自分がレコードで所有していたり、あるいは所有していなくても好きであったりする場合、自分までもが何だか偉くなったような気がするのだ。今はそんなことはないが、少なくとも70年代前半はそうであった。ラジオが与えた影響は今では想像がつかないほど大きかった。新しい音楽はすべてラジオから得たが、これを逆に言えば、ラジオから流れない音楽には接する機会がなかったことになり、そのことに気がついたのも70年代初期で、その頃すでにラジオでは決して流れないようなロックのレコードを買い始めた。したがって今回のこのイヴェントに筆者が関心のある部分はほとんどないと言ってよいが、6階の展示と、80年前後、アメリカ村が急速に有名になって以降は興味も知識もないが、4、5階の展示の一部については多少書くことが出来る。まず、前述した『ビート・オン・プラザ』は今回の展示では「ビート・オン・プラザ館」として独立したコーナーがあった。そこにはディスク・ジョッキーであった現在の田中正美の写真もあり、声だけはよく馴染んでいたので、初めて顔を知って何だか感慨深いものがあった。テーマ曲はこの番組が始まった当時に発売されたポール・マッカートニーの初アルバムから使用していて、それが会場でも流れていた。不思議なもので、ポールの同曲だけ今聴くと別に古さもさほど感じないが、『ビート・オン・プラザ』のテーマ曲として田中正美の声と一緒に聴くと急に20代の自分が蘇る。ただ残念なのは、『ビート・オン・プラザ』の全放送データといったものが展示されていなかったことで、これは誰かネット上で公開していないだろうか。
『ビート・オン・プラザ』は10代の筆者が『9500万人のポビュラー・リクエスト』が決定的な影響を与えたとすれば、20代前半に大きな意味を持った番組だ。いつも番組を聴いていたわけではないので、記憶にあるアルバムはほとんどないが、ただ1点、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの2枚組アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク』が2夜にわたって放送された日のことははっきりと覚えている。ビートルズが解散した後、筆者はジョン・レノンの新作をいつも待ち焦がれていたが、2枚組アルバムはジョンにとってはこれが唯一のもので、アメリカにようやく在住出来るようになってからの闘争的なその音に頭が沸騰したものだ。『イマジン』は名作と言われているが、その気が抜けたソーダーのような音はどちらかと言えば失望した。何と言っても『サムタイム・イン・ニューヨーク』の真夏の汗のにおいがするような過激ぶりがいい。そのアルバムを紹介する2日目にアルバムの第3、4面が全部放送されたが、その時のわけのわからない衝撃は、おおげさに言えば筆者のその後の人生の方向を定めた。それはフランク・ザッパとの共演で、アヴァン・ギャルドなその音は今までのジョンにはない、そして今までに聴いたことがない音楽がこの世にはあることを感じさせ、たちまちのうちにザッパのアルバムを買い込むことになった。つまり、『ビート・オン・プラザ』によってザッパを知ったのだが、それを改めて思い出すと、今回のこのイヴェントのチラシの裏に書かれている『「なにわ」の夏をKPOキリンプラザ大阪が熱くする!』というコピー文句に素直に応じたくなる。未知なる音楽との出会いはラジオに限らず、いろんな方法がある。だが、いずれにしても、関心をまず持って、その後は自分で調べて行く気力の持続が必要だ。そういったマニアックな音楽ファンはいつの時代でも一定の割合はいると思うが、今はネットのおかげで、簡単に調べて即座に聴くことが出来るから、マニアになりやすい反面、飽きるのも早いかもしれない。それに人生に決定的な影響を及ぼしたなどという濃い関係を音楽と築くことなど格好よくないと思う人が多いかもしれない。いや、これとても今も昔も同じことだろう。『ビート・オン・プラザ』から『サムタイム・イン・ニューヨーク』が流れても、ジョンのファンが誰しも筆者と同じように反応したことはないはずだからだ。
会場の6階は「なんば一番館」「なにわイベント歴史館」「なにわアーティスト館」のコーナーがあり、壇上ではFM大阪の出張スタジオらしきものがあって若いDJが音楽を流していた。「なんば一番館」から登場したタイガースなどのグループ・サウンズはそれだけでひとつの大きな展示がなされていいと思うが、大阪が東京よりもむしろ日本ロック発祥の地であるというのは正しいだろう。そんな意味もあってのこのイヴェントで、大阪の音楽シーンを回顧するにはネタが事欠かないということだ。6階の展示物で面白かったのは、有名な「春一番」コンサートの映像がTVモニターで流れていたことだ。筆者は先輩に連れられてこのコンサートの確か72年の第2回を観た。会場は天王寺野外音楽堂で、これはその10年後に壊されて移転したが、大阪市立美術館の南方にあったのではないだろうか。87年だったか、天王寺公園では博覧会があって、家族3人で観に行ったが、それはよく言われたように溢れるホームレスを締め出す意味もあったようで、公園内に入るのは有料になり、地面にはタイルが敷き詰められてきれいにはなったものの、温かみがなくなって公園片隅に建つ安藤忠雄設計のガラスのピラミッド型の施設も博覧会の時に一度入ったきり、今はすっかり誰も訪れないようなものになっていて、改装以前の温室などを知る者からすれば、昔の方がそれなりに大阪らしくてよかったかなと思う。野外音楽堂が移転したのは老朽化が原因だとは思うが、修復するなどしてそのまま天王寺公園にあった方が、人集めにはうんとよかったのではないだろうか。とにかく公園内はすっかり様変わりし、美術館に行くにもわざわざ陸橋をわたる必要があったりで、不親切な造りになったと言ってよい。話を戻そう。先輩はフォーク・ファンで、70年の第1回の中津川のフォークジャンボリーにも出かけたほどで、「春一番」のコンサートに行くのも当然だ。「春一番」コンサートでよく記憶するのは、ギター1本で歌う歌手が放送禁止用語の「お○こー」を歌の中で何度か言い放ったりしていて、それをみんなが淡々とした表情で聴いていたことだ。お祭りであるので、全員が真剣に聴いていたわけではなく、会場の和気あいあいのムードを楽しんでいたのだが、そんな自由空間であることが、放送禁止用語でも平気という状況を生んでいた。「春一番」を企画した福岡風太はその後難波で小さな音楽喫茶を経営し、そこには何度か行ったことがある。ある日などは水の入ったコップをテーブルから落とし、割ってしまったが、黙々と風太氏は掃除していた。奥さんもいたと思うが、美人であった記憶がある。
「春一番」の後に何度かフォーク・ミュージシャンのコンサートに行ったが、元来ロック・ファンであり、「春一番」が企画されることになったきっかけのアメリカでのウッドストックやあるいは71年2月、フェスティヴァル・ホールでのブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの公演、7月の大阪球場におけるグランド・ファンク・レイルロードの公演にあまり関心もなかったため、フォーク・ブームなるものとはほとんど無縁のまま今まで来た。グランド・ファンク・レイルロードについてはまたこのブログで取り上げるつもりでいるので、ここでは詳しく書かないが、当時同窓生のひとりがこの公演を観て来て、翌日大変な興奮ぶりで話していたのをよく記憶する。彼はそれまではロックなど聴いたことがなかったが、たちまちにしてロックの魅力がわかってようで、それが筆者にはおかしかった。つまり、かなり遅れていると感じたのだ。10代半ばですっかりビートルズのファンになってた筆者からすれば、20歳でロックに開眼するなど何を今さらという気分であったのだ。10代で好きになる音楽によって微妙に大人になってからの性格がわかると判断するのは無謀かもしれないが、フォークと言えば、筆者は「サウンド・オブ・サイレンス」を発表したばかりのサイモンとガーファンクルに関心があった程度で、ボブホディランやその日本での影響を受けたフォーク系ミュージシャンには、そこそこ名前は知っているものの、ついぞ深い関心が持てないままであった。そこが先輩とは違うところで、今も当然好みの音楽は違う。それでも好みの音楽などたいした問題ではない。趣味が違っていても話は通ずるし、むしろその方が得ることも大きい。そのため、筆者はザッパ・ファンではあっても、あまりザッパのことをザッパ・ファンとは話したくはない。話がそれてしまった。キリンプラザ6階の小さなTV画面に映る「春一番」は74年の時のものだったが、その頃はさすがにロックの嵐が高まっていて、エレキ・ギターを持った人がステージ上に目立っていた。72年はまだそうではなかったはずだ。画面に映る人々はどれも時代をそのまま体現しているように見えたが、今も昔も若者が集まって祭りをするというのは同じ気持ちからだろう。35年前の昔は遠いようでいて、すぐ隣に位置しているようにも感じる。そして、自分のロック音楽に関する興味のルーツが出身地の大阪文化に少なからず関係していることを誇りに思う。