泳ぎは苦手だ。先日増水した裏の小川にのこぎりを落とした際、それを拾うために片足を水底まで漬けた。その時、流れの強さに一瞬たじろいだ。
小川や用水路でも子どもはよく溺れ死ぬ。水の勢いを侮ってはならない。去年の大地震の津波は、画面で見る限り、ゆっくり迫って来るので、サーフィンのようにそれに乗れそうな気がしたものだ。ところが、そんな人はひとりもおらず、それどころか死体が見つからない人がまだ大勢いる。さて、いよいよ蒸し暑くなって来ると、夏をどの乗り切るか、体力勝負であるので、年々疲れが大きい気がする。一昨日はムーギョで全体を16分の1の薄さに切った西瓜が売られていて、よほど買おうかと思った。もう西瓜が食べたくなっている。昨日は家内と京都駅に出かけ、食事後に喉が渇き、コーラが飲みたくなった。ヨドバシ・カメラの地下にスーパーがあり、そこで500ミリリットルではなく、1.5リットル瓶を買った。これはふたりで一気に飲める量ではない。500ミリリットルより少し高いだけなので、得だと思ったのだ。多少は飲んでもまだまだ重いものを家まで持って帰る手間があるが、家でもガバ飲みしてやろうと考えた。このようにたまにコーラが飲みたくなる。それも蒸し暑くなって来たからだ。そうなると水辺を思い出すというのでもないが、水辺は好きな方だ。そう言えば先月買って3階で毎日使っているパソコンのVISTAは、スイッチを入れて立ち上がった時に表示される画面を、いくつかの候補から選べるようになっている。筆者は迷わず夕日の海辺を選んだ。どうすればその画面のみを保存出来るかがわからないので、液晶画面を撮影して上に載せる。左側はアイコンがたくさん邪魔をしているが、美しい夕暮れの海辺はわかるだろう。(投稿後10分して画像の保存方法がわかった。それを下に表示する。)この写真を最初に見た時、思わず涙が出そうになった。この海辺にたたずんでいるこが実感出来たからだ。どこで撮影したものか知らないが、日本ではないだろうか。あまりにきれいで胸に迫るので、本当は毎日見ない方がいいが、なるべく写真から最初に連想したことを思い出さないようにしている。その一種の緊張感と、自分の制御感がいい。だが、ごくたまに、その制御が暴走しそうな時がある。そういう時、すぎさま頭の別の箇所が警告を発し、暴走を留まらせる。理性というやつだ。
それはいいとして、この夕暮れの海辺写真と対になるような1枚を去年の今頃、ある人のブログからダウンロードしていた。そのブログはダウンロードした翌日か翌々日に消去された。そのため、撮影者に断ることが出来ないが、サイスその他、ほんの少し加工してその写真を次に転用させていただく。撮影は2010年1月1日の日の出だ。いわきのとある海辺で、震災に遭って今はこの姿はないという。どのように変わってしまったのか知らないが、美しい様子がまた長年経って蘇ることを願う。震災のひどい被害のことを思い出すと、また辛くなる。なるべく思い出さないようにする。これは忘れたというのではない。覚えてはいるが、別の形で思いたい。そんな思いがあるので、VISTAのトップ画面に夕日の海辺の写真を使う。そして、波の音、カモメの声などを想像し、涙を流しそうになる。
海辺ではなく、池辺の写真が少したまった。今日を含めて3回に分けて投稿したい。まず最初は、
「今年の桜、その13」で紹介した4月19日の撮影分。円山公園の有名な枝垂れ桜の真正面の池辺だ。そこにひとりのおじさんが烏やアヒル、鯉にスナック菓子を与えていた。烏が近くに寄って掌から直接ついばんでいたのには驚いた。おじさんはたまに菓子を空中遠くに放り投げる。それをすかさず烏が飛び立って空中でくわえる。たまに池に落ちると、鯉がどぶりと飲み込む。水中にいても鯉は陸の様子がよく見えるようだ。そうであるから、人影があるとすぐに寄って来る。餌をくれるかもしれないことを知っているのだ。そう思えば鯉は健気でかわいい。飼いたくなる人の気持ちがわかる。おじさんはよくそのように餌を与えているのだろうか。烏を増やすのでよくない行為だが、烏は残飯を漁るのではないし、あまり責めることも出来ない。また、烏や鯉の身になると、そうしたスナック菓子が体にいいのかどうか問題があるが、そんな行為をする人はあまりいないし、烏や鯉にすればめったに食べないもので癌になる心配はないだろう。おじさんが袋の中をからっぽにするまで筆者は見続けた。その間、最も面白かったのは手前のアヒルだ。急きも慌てもせずに、半分眠っているような様子だ。たまに菓子が近くに落ちると面倒くさそうにそれをついばむが、ほとんど無関心であった。烏とアヒルの間に落ちた餌は烏がさっさとついばむ。それはいかにもすばしっこい烏で、アヒルはたまに太った体をゆさゆさと左右に振りながら滑稽に狭い範囲を歩く。このアヒルは前にも同じ池で見かけた。居ついているのだろう。誰かが飼っているのでもないはずで、いわば池の主か。以前は確か白鳥も見かけた。置き物のように水面でじっとしていた。 アヒルも白鳥も、背後に山が迫っていて、人間が餌を与えずとも、どうにか生存出来る環境だろう。池のほとりでそんなのんびりした鳥を見つめながらのんびりした気分に浸るのはいい。花だけを見るのではなく、鳥や虫など、飛ぶものがいてこそ楽しい。烏やアヒルにスナック菓子をそっくりやってしまうおじさんもそんな思いだろう。老いると孤独になるらしい。一昨日は自治会の配り物をしていた時、あるマンションの管理人から相談を受けた。深夜3時過ぎにどさりと残飯の袋を抱えた老人が自転車に乗って渡月橋の向こう、つまり右京区からマンションのすぐ隣の駐車場にやって来るそうだ。その餌を求めて野良猫と烏が集まり、周囲を糞だらけにする。一度管理人は待ち伏せして注意した。その後しばらくましになっていたが、また場所をすぐ近くに変えて再開した。そうした人はたまにいる。人間より動物が好きなのだ。あるいは人間嫌いだ。昨日だったか、町内の組長が20歳ほど年下の弁護士に刺されたというニュースがあった。他人と関わり合うことは難しい。一般に高度な知識を持っているとみなされる人でも簡単に切れたりする。ストレスが大きい社会になっているようで、であるから人間嫌い、動物好きが増える。わしゃそんなことどうでもいいとばかりに居眠りしているようなアヒルが面白い。泳ぎが苦手な筆者はよたよたしながら世の中を歩いて行く。だから「歩録」であって、また水辺がかえって好きなのか。