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●『草原の王朝 契丹』
丹という王朝がだいたいどこにあったかは知っていても、その文物をまとめてみる機会はなかった。それが大阪市立美術館で開催されていた。



●『草原の王朝 契丹』_d0053294_182388.jpg行こうかどうか迷いながら、以前出かけて店主が留守であった天神橋筋の古書店をついでに再訪しようと考え、会期最終日の10日に家内と見た。帰りに古書店に行くと営業時間であるのに店は閉まっていた。今度行く時には連絡してからの方がいいようだが、買う本がなければ悪いので、その気にはなれない。近いうちにまた大阪に出る用事を思いついたので、三度目の正直で店主にはいてもらいたい。さて、本展について書くためにチラシを探すと、あると思っていたものがない。毎回同じようなことを言っているが、ネットで調べると、3種類が制作され、確かにそのうちの1枚を持っていた記憶がある。出て来ないのがかなり不満だが、仕方がない。代わりでもないが、本展のチラシによく似た展覧会のものを見つけた。9月から大阪歴史博物館で開催される『ウクライナの至宝 スキタイ黄金美術の煌き』だ。似た展覧会は20年ほど前に京都で開かれた。そう言えば、東京の新国立美術館ではエルミタージュ美術館展が開催されるか開催中かで、先ほどそのチラシも見つけたが、そこには25年ほど前に日本で展示されたマティスの絵が大きく印刷されている。25年も経つと世代交代するので、たとえ全く同じ内容の展覧会を開催しても人は入る。近年そうした二番煎じ的な展覧会ばかりが目につくのは、作品の貸し出し側が儲かる仕組みになっていることと、筆者が長生きしているからだ。『ウクライナの至宝』展のチラシには、「2500年前にユーラシアを駆け抜けた騎馬遊牧民、スキタイ」と印刷される。この「スキタイ」は「契丹」と似ている。WIKIPEDIAによれば、「スキタイ」は「4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族」とあって、「契丹」の英語読みは「キタイ」だ。となると、「スキタイ」が「キタイ」になったのかと思うが、直接には双方は関係ない。前者はユーラシア大陸というし、またウクライナであるから、大陸の西だ。一方、キタイは大陸の東端で、スキタイより1500年ほど後、日本で言えば平安時代後期に相当する。
 日本と中国、朝鮮の対比年表を義務教育の間に社会で見かけるが、中国は複雑でそれを全部覚えるのはよほどの歴史好きだ。複雑であるのは、中国が日本のように領土の範囲が同じはなかったからだ。国が陸続きで隣り合わせになっていると、力関係で国境が絶えず動く。また、国が滅びて新しい名前の国が出来たりもする。そのため中国の年表は地域ごとに分けねばならない。そんな大陸から見れば、島国の日本は地の果ての別世界に思えたであろう。日本地図を見ていると、沖縄が本州に思えることがある。細長い形が似ているからだ。その本州の添えもののように、たとえば佐渡島がある。その佐渡島は本州を大陸として見た場合、日本に思える。こういう見方、つまり日本が世界の中では小さな島国であることを上田秋成も知っていた。そのためもあって、日本の天皇を世界の神と見る本居宣長の考えに反対したが、宣長はにべもなくそうした考えを蹴散らして相手にしなかった。多くの国がひしめく丸い地球を知っていたのは秋成も宣長も同じであったが、宣長のように物事を考えられるのは、その多くの国の価値をあまり認めない狭量さに思える。国が接して覇権争いを繰り返す大陸では、いいのか悪いのか、物事の考えは日本とは違って当然だろう。日本の常識は世界の非常識とよく言われるが、それは島という閉じた狭い国の考えを、国同士が常に緊張関係にある大陸から見てのことで、日本が自己主張、宣伝に弱いこともそこから理解出来る。生死を分ける競争に晒されない状態では、国は平和になるとしても、それは平和ボケという欠点と見ることも出来る。そのためにどこかの知事が南の島を買って中国に有無を言わせないことを考える。だが、中国が万里の長城を築いたように、日本が四囲の海を常にパトロールすることは物理的に不可能で、島国は島国の考え方を持たねばならないし、また持つことしか出来ない。ま、そうして来たからこそ、契丹のようにわずかな年月で消えてしまうことにはならなかった。スキタイは騎馬遊牧民だが、契丹は半農半牧場であった。また、王朝は10世紀前半から12世紀初頭までで、短命であった。北の女真と南に接する北宋に滅ぼされたが、このことは契丹の文物がどういうものか想像がつく。
 今回の出品は、近年の王族の墳墓の発掘成果が中心で、中国が「一級文物」すなわち国宝に指定するものが多く含まれた。全128点を収録する図録は契丹に関しての初めてのまとまった本らしく、その意味で本展は実に貴重な、今後はひょっとすれば見られない規模のものであったのではないか。「一級文物」はさすがに作りが丁寧で状態もよく、よくぞ墓が荒らされずに伝わったと思わせられる。展示の最大は、「彩色木棺」で、一室丸ごと占めていた。同じ部屋の片隅には、この木棺の発掘から修復までを簡単に紹介する映像がエンドレスで流されていて、九州国立博物館が修復のノウハウを伝授し、また手伝ったことがわかった。そう言えば、本展は同館からの巡回ではなかったか。また、そのように日本が手伝ったことによって日本開催が決まったのだろう。映像では、発掘された棺は空気に触れて彩色が瞬く間に退色したとあった。それをどう修復したのだろう。鮮やかな色に戻すことは不可能であるから、汚れを落とし、これ以上は退色しないという状態に保たれた程度ではないか。大型の立派な装飾がついた棺で、ツタンカーメンのものほど古くはないし、また金だらけでもないが、よくぞ日本に運んで来たと思う。内部にはまだ生々しい艶の髪をした女性が眠っていて、30代半ばで死んだ王族だ。展示物はそうした墓や棺の内部の副葬品が大半で、また寺院にあった仏像や仏具もあった。中国の影響を受けた壁画や陶磁器のほか、シルクロードを通って運ばれた西域のガラスの器など、契丹の位置をよく示すが、契丹独自のものはないのかとなると、文字は漢字に似るが独自のものを使い、また中国では重視しなかった琥珀や茶色の瑪瑙を装身具によく用いた。それでも仏教を信仰していたので、全体としては中国の文物の二級品あるいは地方色豊かなものを見ている気分になった。契丹は現在の中国領の内蒙古自治区にあったから、それも当然と言ってよいが、現在の中国が解体すれば、内蒙古自治区が独立してまた契丹を名乗るかもしれない。これはチベット自治区にも言える。中国はそれを望んではいないが、内蒙古としての歴史を認め、その発掘品を大切に保存する思いはある。それは1000年前に契丹を飲み込んだという自負もあるからかもしれないが、北宋に接していた国が200年ほどの間に宋からどのような影響を受けたか、またその逆はあったかを考えることで、中国の北方について新たなことがわかるという期待が大きいためだろう。その点、日本は天皇の陵墓の発掘を一切認めておらず、学者は最新のハイテク機器を使って、発掘せずに内部をどうにか知るというもどかしい行為で茶を濁すことを余儀なくされている。先の棺の発掘映像では、大きな石の扉が数十人の人夫が一斉に綱を引くことで手前に倒される様子が映った。天皇の陵墓も同じような構造になっていると思われるが、発掘を許可しないのは、大陸の影響が絶大であることがわかっては困るからか。本居宣長が生きていてもまず許さないだろう。科学といった胡散臭いものを超える存在が天皇であるからだ。
 木製の棺がさして風化せずに当時のままの形で発掘されたのは、乾燥した草原という気候によるだろう。金製品を初めとする金属、そして陶磁器がそのまま残るのはわかるとして、木製品が形や色を留めるのは貴重だ。先日、九州から最古の木簡の断片が出土したが、保存状態がよければ木でも長年保つ。本展で面白かったのは木の板に描いた絵や、木製の四神だ。絵はどちらかと言えば拙いが、太湖石のような穴空きの奇岩や、樹木の表現、そして人物の身なりや表情など、中国に似ながらも少し違うかと感じる。絵としては、もっと拙い絵つけを施した陶磁器が目についた。白い肌に緑の釉薬で花紋を描いてあるが、北宋の陶磁器とは似ても似つかず、もっと後の李朝の奔放なものに近い。だが、それは例外であろう。型を使って量産した細かい造作のものや、また唐三彩と同じものがあって、陶工は中国に学んだか、あるいは中国からの輸入品も混じるだろう。本展のような発掘品が主体の展覧会を見るたびに思うのは、職人の存在だ。彼らはじっくり腰を据えねばいい作品を生むことが出来ない。それには国家が安定している必要がある。契丹がわずか200年ほどで王朝が滅びても、そこには数々のあらゆる文物を作る人たちがいた。王族がいなければ国がなく、また職人が見事な仕事をすることは困難か不可能であったが、逆に言えば職人が作った品物があるために契丹の存在が伝わる。結局本展はそうした名のない職人たちの展示会であって、今で言う工芸展だ。そして、「一級文物」とそうでないものとが峻別されているが、現在の誰の目からも明らかなように、「一級文物」は群を抜く技術を見せている。無名の職人が自作を後世に伝え得るのは、偶然の前にまず卓抜な技術が欠かせない。その工芸技術というものが、今はほぼないがしろにされ、頭優先になっている。見るべき技術がなくても、作家の考えを重視する態度だ。現在はもはや手作りの道具を用いる時代ではないからだ。話を戻して、木製の四神は墓の扉か棺に貼りつけたものだろう。厚みが10センチほどで、幅50、高さ30センチほどだ。当初彩色が施されていたのかどうか、生地のままになっている。残念ながら玄武の亀は上半分が欠落して顔や甲羅の表現がわからない。その半分だけうまく朽ちたことは考えられないので、発掘とその後の管理などの間に紛失したのではないか。中国ならありそうなことだ。朱雀は真正面から捉えた形で、全体を菱型にまとめていた。白虎と青龍はスキタイの獣の表現に通じて躍動感がある。これは遊牧民特有の造形性で、契丹の動物表現は中国にはあまり見られない生々しさが横溢している。それを言えばチラシにも採用された仮面もか。鍍金されたそれは王族の遺体に取りつけられていたものだろう。同じようなものはスキタイにもあったように思う。大陸の真ん中ではないが、周囲に考え方の違う他国があって、国を維持して行くのは大変であったのだろう。隙を見つけていつどこから隣国が攻めて来るかわからない。短い間だけ栄えた国が、王族の墓の内部にあった文物からその存在が鮮やかに浮かび上がる。現在の日本人は墓を見守る後継者がいないので、個人の墓を作らない傾向にある。今の日本は1000年後の世に残す何かを生んでいるのだろうか。
by uuuzen | 2012-06-16 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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