和をもって尊しか、このみんぱくでの展覧会は今和次郎(こんわじろう)の業績だけではなく、半数はみんぱく独自の展示で、珍しくも円形の別館の1階のみの使用しながら、展示点数は昨日取り上げた村山知義展並みに多かった。

和次郎の名は今回初めて知った。「考現学」という言葉は、80年代にトマソンで有名になった赤瀬川源平らの路上観察のグループが生み出したものと思っていたが、1923年の関東大震災後に「これからの生活のあり方を考える」学問として、和次郎が創始した。本展の副題「考現学の今」の「今」は、和次郎と現在の両方の意味を兼ねている。和次郎は青森の出身で、東京を中心に活動したから、後に赤瀬川源平らの路上観察が生まれるのは、東京という土地と、関東大震災が大きなきっかけになっていると思える。昨日書いたが、村山知義は関東大震災後に建築団体に混じって「帝都復興創案展」に参加した。何かが一気に壊れると、そこから一斉に新しいものが生まれる。村山も和次郎もそういう動きに乗った。和次郎は村山より13歳年長で、1888年生まれだ。卒業後に柳田國男らが作った農村住宅の調査を目的とする「白茅会」に参加し、日本全国から満州、朝鮮まで調査した。それらをもとに『日本の民家』と題する名著を唱和2年に出版した。その後増補改訂を重ね、岩波文庫にもなっている。今回はまずその民家調査の資料が並べられた。向井潤吉を思わせる住居のスケッチからその平面図、また特徴ある民具など、どれも精緻克明に描き、画家としての腕前も見せる。この展示で思ったのは、みんぱくの本館に所蔵される民家の模型だ。それは本展の後半部でも紹介されたように、みんぱく展示場開館より前の1974年に、生活文化が変わろうとする高度経済成長の生活を徹底的に記録した課程で実施された調査によるもので、4軒が選ばれて10分の1の模型が作られた。みんぱく開館当初からこの民家模型を何度も見ながらが、多大な経費をかけているからでもあろうが、模型でここまでリアルな表現が出来るのかと驚く。まだ40年ほど前の製作であっても、すでに同じ形では民家は残っていないはずで、この半世紀の日本の変貌ぶりは、関東大震災直後の比ではないだろう。大地震など自然災害の多い日本は、ヨーロッパと違って建物は脆弱に作っておく方が合理的かもしれない。頑丈と思っていた住居はことごとく津波で流され、基礎のコンクリートしか残らなかった。それなら最初からごく簡単な建物でよいと思える。現在の日本は100年住宅などと称して長期使用が可能な住宅を目指している。それは食事などの生活が欧米化したので、住居もとう思いの表われだ。それはわかるが、極端な地震の多さを考えると、人間に被害がないことを優先しながら、すぐに壊れてもいいというその最低限を見定めた方が合理的ではないか。それはともかく、和次郎は現在のみんぱくと深い関係があることはその民家の調査からもわかるし、またパンフレットによると、1939年に日本民族学会が現在の保谷市に附属博物館を設立し、渋沢敬三らが日本民族博物館構想を提案した際に和次郎は深く関わり、この構想が現在のみんぱくに結実した。
農村の調査、民家の研究は、青森と発展する一方の東京を知っていたからこそであろう。そして、関東大震災によって東京が破壊され、瓦礫の中からありあわせの材料でバラックが建てられる様子を目の当たりにして、それらを詳細に記録し始め、また村山知義に通ずるところがある、バラック店舗などを装飾する「バラック装飾社」の活動をする。それは後の建築家、デザイナーとしての仕事に直結するが、和次郎の独特な、そして奇妙でまた面白い仕事は、生活の変化をつぶさに記録する「考現学」で、たとえば1925年には東京銀座街風俗記録統計図と称し、男女の服装を観察し、分類記録している。どういう髪型が多いか、どういう帽子、持ち物、履き物、洋服か着物かなどなど、こういうものを統計してどうなるかと思わせられるが、今となっては貴重な記録であろう。そして当時はまだ流行が明確にあった。今もそうだと言えるが、ある年度に多くの男女の身なりを調査しても、2,3年前のものを平気で着ている人は多いであろうから、時代の変化に乏しい年度であったと記憶されるだろう。それもまた調査研究があってのことで、漠然と誰もが思い知っていることを学者が記録として留めておかねばやがて誰にもわからなくなるかもしれない。だが、関東大震災頃と今とでは、映像の記録が格段に違うし、週刊誌も大量にあるので、和次郎が銀座で行なったような男女の、しかもあまり数が多くない調査は意味をなさないだろう。ただし和次郎は当時そんな未来を想像せず、とにかく目前に生じている変化を見て、何らかの形でそれを記録に留めておく必要を感じた。その考現学の態度は結局みんぱくの活動にもつながったから、無駄ではなかった。あると思っているものがすぐに見えなくなってしまう。それを強く感じることが、考現学には重要だ。それは収集癖と言えるし、またそれは物を面白がる態度だ。そして、その物の向こうに人生、人を見ることでもある。震災の瓦礫の中からバラックを建てることは、みんぱくで2010年に展示があった
エル・アナツイの作品と共通する造形態度で、それは動物の巣作りと同じ本源的な考えだ。古き民家の研究の延長上に、震災後のバラック装飾を手がけることは、和次郎の一貫性を示しているが、どこか遊びの余裕を見せる銀座街風俗記録とは違って、本展のセクション3で紹介された建築家、デザイナーとしての業績は、どこか民芸を建築にまで拡大した図太さが感じられ、それらだけでも和次郎が歴史に名を留めたと言えるだろう。
パンフレットから引用すると、「東北地方の農村厚生・振興のための東北セツルメント運動への関与、大越村娯楽場、秋田県立青年修練農場などは、近代化の中で地域が抱える問題への回答や提言であり、合理化・効率的な建築提供のための標準設計の仕事も、今が生涯取り組んだ農村の生活改善をすまいから見つめた例だ。……」とあるが、こうした建物の設計図や模型が展示された。また1934年頃の渡辺甚吉邸の設計では、内装から家具調度、食器までデザインを手がけ、その重厚なたたずまいはまるでウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動を思わせる。柳宗悦の民芸運動は当時すでに始まっていたが、木工家の黒田辰秋が最初の個展を開催するのが同じ1934年であるので、和次郎のデザインした重厚な椅子は美的な才能にも優れた学者ならではの仕事で、やはり村山知義と同じように、枠を超えて才能を発揮した才能を思わせる。だが、今回のチケットやチラシに印刷された和次郎の写真からわかるように、その持ち味はざっくばらんな飾らない人柄と言ってよい。真面目に学問をしはするが、考現学という、今生じている事柄を対象にするところ、誰でも研究に参加出来る、一種遊び的な、またそれゆえに笑いを伴ったところがあって、楽しみつつ興味の赴くまま、現在のあらゆるものを研究の俎上に載せたところがある。それは赤瀬川源平のトマソンにもつながっているが、和次郎の活動の後を継ぐものとして、本展ではテーマ2として、「岡本信也・岡本靖子氏の「超日常観察記」」と「「田中千代コレクション」と洋服史」が展示された。誰もが大いに面白がったのは前者だ。銭湯で見かけた下着を観察し、それを布のパッチワークとして百点あまり並べて縫いつけた作品があった。若い女性ほどパンティの幅が狭く、また柄も華やかだが、老いるほどに幅が広くなり、また地味になるというが、これは調べなくてもわかることであるにしても、実際に人目を忍んで調査したという点が説得力のあるところで、考現学が誰でも参入可能なものであることの一例となっている。女性の下着を調査して何になるかだが、この岡本の調査は和次郎の銀座街風俗記録に連なるもので、数十年以上を経ると、そこにまた明らかに時代の特徴となるものが見えるだろう。となれば、こうしたブログも大量に収集すれば、そこに現在特有の何かが見えて来るであろうし、考現学のネタはすぐ身近に転がっている。

和次郎の展示のセクション4は、「教育普及活動とドローイングのめざしたもの」と題する。和次郎は早稲田大学で建築科の寡黙全般を60年近く指導し、また多くの大学で建築とデザインを教え、学問としての家政、生活研究へと講義の幅を広げた。それらをわかりやすく伝えるために和次郎はドローイングを重視した。民家研究での写実的なスケッチや間取り図からすれば、和次郎のドローイングはよりこなれて自由自在の赴きがあって楽しい。和次郎は学生時代に舞台美術や衣装考証を手がけ、そのことから服装研究に進んだが、そうした展示物の中に、女性のボディを透かしてその上に衣服の輪郭を線で描き重ねた図があった。クリノリンを用いていた時代から少しずつその衣服の線は体に密着して行ったことが一目瞭然で、漫画のような面白味があるが、学問的でもあるところが和次郎らしい。こうした漫画やイラストに通じる表現も村山知義に通じる。またこのセクションには、平均的な家族の24時間の作業の図示があったが、その中にペットの猫が含まれているのも冗談か真剣なのかわかりにくい和次郎らしさがある。この1日の家族の仕事図は、家内が見て驚いた。妻は夫のように外に出て働くことはないにせよ、15分刻みでびっしりと作業が埋まっていて、先頃ネット・コラムで中国が日本の妻の働きぶりに驚いていた記事を想起させた。和次郎の記録は戦後すぐの頃だったと思う。今とは違って洗濯機などの便利な電化製品が整わず、妻は家事に終日追われ続けた。そういったことは当時の新聞や雑誌からもわかるが、小さな紙1枚に整然と記された図ひとつで、家族全員の動きが比較出来、また睡眠時間の量も即座に量的に把握出来る。これが和次郎が重視したドローイングの威力だ。ほかにも独特な図がいろいろと展示され、現在を見つめていた和次郎の眼差しが伝わる。現在が日々古くなって行くのでそれらはほとんど現在にはそのままでは当てはまらないが、方法論としては風化していないだろう。和次郎の考えは、たとえばみんぱくが2002年に開催した「ソウルスタイル・李さん一家の家財道具一切しらべ」という展覧会にも及んでいる。同展は見たが、ブログを始める以前であったのでこのカテゴリーに感想を記していない。韓国ソウルに住む李さんという中年家族の生活財7827件すべてをみんぱくが買い上げて展示したもので、和次郎の思想をもっと徹底させた試みであった。和次郎は実物を収集せずに、そのスケッチなどあくまで自分で描いた図や表で現在を学問した。それがみんぱくという巨大な収蔵庫を持つ機関が出来てからは、物それ自体を膨大に収集することが可能になった。本展のテーマ3「住まいとその環境の記録・研究・再現」のセクション1は、京都の随筆家であった大村しげの家財道具の紹介であった。大村は遺志により、2000年に家財道具一切、約15000件をみんぱくに寄贈した。その全部が展示し切れないので、ごくわずかが並んだが、京都のまだ古さを残す民家での暮らしの家財がまとまって保存されることになったのは喜ばしい。だが、それら全部がレトロ感溢れるものばかりとは限らない。たとえば、ちびった鉛筆ばかりが収まった箱があった。それらを大切に使った大村であることがわかるが、その中に少なくなった消しゴムが1個混じっていて、それが鉛筆の古さには似合わず、現在も売られているプラスティック製の商品であるのが気になった。そこはせめて昭和30年代の名もないメーカーのゴム製のものであってほしい。考現学はある時代を切り取るが、その時代はいつも新旧が混じっている。そのことは数十年ほど経つとほとんど誰にもわからなくなるが、大村のようにまだ亡くなって間もない人物が使用したものは、古い家具類に混じってごく新しい消耗品があって、そのゴッタ煮具合に考現学の面白さと困難さが同居している気がする。