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●『Dr.コトー診療所』
行本のサイズが決まっているのか、表紙が汚れないように透明なカバーがかけられている。マンガ喫茶で読まれていたものであるから、そうしたカバーは必要なのだろう。そんな定型のカバーが作られるほど、マンガの単行本は大量に売れていると見える。



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今年の1月1日、母の家に新年のあいさつに行き、その後妹の旦那と銭湯に行った。筆者は長風呂ではない。先に上がってソファで待った。右手の棚にあった雑誌などを見ながら時間をつぶし、次にマンガの単行本の1冊を手に取って読み始めたところ、妹の旦那の着衣が終わった。そのため、10ページも読めなかったが、なかなか面白いと思った。「コトー」だけを記憶していたが、医者ものであるので、帰宅後ネットで調べ、題名が『Dr.コトー診療所』であることがわかった。ネット・オークションでマンガ喫茶のハンコ入りの単行本22巻をまとめて買ったのは1月7日だ。それから少しずつ読み、今日ようやく22冊を読み終えた。22冊は全部ではなく、残り3冊と特別編があるようだ。未完だが長期休載の状態で、第1巻から22巻だけでもこの作品の中心的な内容を知るには充分だろう。本が届いたのは『ピアノの森』を読んで間もない頃で、筆者の漫画嫌いを知る家内はいぶかったが、気になるものは内容を知りたい。そして家内には面白いので読んでみたらと勧めているが、『ピアノの森』があまり気に入らなかったのか、読もうとはしない。感想を先に言えば、想像どおりに面白かった。『ピアノの森』と比べるのは何だが、同作がかなり非現実的な話で、やや途中でだれるところがあるのに対し、こちらは小説を読むか、映画を見るようなところがある。半分ほどの巻数を読んで知ったが、TVでドラマ化されたという。それはわかる。だが、そっちの興味はさっぱりないし、見ていないので漫画と比べてどうなのかを書くことは出来ない。漫画については「ああ、面白かった」で充分だと思っているので、ここで感想を書くほどのこともないが、せっかく5か月たっぷり費やして読み終えたのであるから、少しくらいは書いておくのがよい。医者を主人公にした作品は、このカテゴリーでも紹介した『サン・ミケーレ物語』がまず思い浮かぶし、昨日書いたツルゲーネフの小説『父と子』の主人公バザーロフがそうであるし、また韓国ドラマではその半分ほどに病院や医者が登場し、ドラマにはなくてはならない存在だ。前に何度か書いたように、医者は人の苦しみや悲しみを治す職業であるので、医者を物語に登場させると感動的な話が作りやすい。これが人の悲しみや苦しみを直接治療することとは無縁の画家や音楽家であれば、平均かそれ以下の庶民を物語に登場させにくい。そこを考えて物語を構成しているのが『ピアノの森』だが、主人公が医者で、老若男女の患者を診る、手術をするというのであれば、平均やそれ以下の庶民と主役が直接関係して人間ドラマのさまざまな形を表現することが出来る。そこを狙った韓国ドラマとして、先日取り上げた『愛の選択~産婦人科の女医』がある。そうした医者ものの作品に『Dr.コトー診療所』を対峙させると、日韓の差やまた映像と漫画の違いなど多くの相違点が目につくが、人々が医者に求めているものが何かという肝心のことは共通している。しかもこの漫画では悪人が登場しても、必ず主人公やそれを取り巻く人々によって善人となる。昨日も書いたように、映画の寅さんシリーズと同じで、殺伐とした味わいを拒否する作者の思いがそこにはある。
 週刊誌に連載されたものであり、また事件が一段落すると次の患者が登場するので、いくらでも全体の長さは引き延ばすことが可能だが、この漫画にはそういう水増しの思想がほとんど感じらず、全力投球の思いが伝わる。これは最初に登場人物をしっかり揃え、しかも彼らをどう絡ましてどう物語を構成して行くかの用意周到な計画が作者にあったからだ。もちろんそれは全25巻全部ではなく、連載の途中で考えた人物や物語も多いだろう。だが、破綻の跡のようなものが見られない。また中途半端のまま放り出された人物や物語もない。この点が『ピアノの森』では弱く、話が広がり過ぎて作者が持て余しているところが感じられる。『Dr.コトー診療所』の登場人物は大半が島の住民だ。それに本土からやって来るさまざまな人間が問題を引き起こすという形で話が進む。もちろん主人公のドクター・コトーこと五島健助も島にやって来た。島は閉鎖的な人間関係だ。五島は最初全く信頼されなかったが、本土の病院に運ぶという患者を船上で手術し、その患者の親の信用を獲得する。これが第1巻の最初の話だ。その島の男は五島を一旦信頼して二度とそれを曲げず、どんなことがあっても五島の立場から五島に反対する者を説き伏せる。この絶大な信頼というものが、この漫画の最も大きな見どころになっている。それは親鸞が悪人でも成仏出来ると言ったことと似ている。文句なしに信じることは医師からすれば患者にそうしてもらいたいだろう。そういう信頼がなければ手術も成功しない。そのことを繰り返しこの漫画は描く。五島は最初の手術がもとで、少しずつ島の住民に溶け込んで行くが、本土からやって来る者はこんな田舎に優れた医者がいるはずがないと高をくくっている。ところがそういう人もみな五島の腕に舌を巻くことになる。この漫画は鹿児島の下甑(しもこしき)島で診療を続けている医師をモデルにしている。そのように離島の医療に一生を捧げる医師がいるのは当然としても、やはりそれは普通の医者ではなかなか出来ないことであると一般人は思うし、またこうした漫画の題材になるほどに珍しいことであろう。「医者」ではなく「癒者」という表現がこの漫画に出て来るが、人は病を治療してもらう前にまず医者から安心感を与えてもらいたいものだ。そのあたりまえのことが今はなおざりにされているのではないだろうか。この漫画のテーマはそのことだ。五島は単に機械的に病気を治すことで終わりという立場を取らない。手術の生々しい場面やまた医療の専門的な言葉などが頻出するので、作者の山田貴敏は医学部を出たのかと思わせられるほどだが、それほどに迫真的な作品にしようとの覚悟だろう。ともかく、けがや病気の治療を描きながら、患者が抱える精神的な悩みが必ず描かれ、それをも治癒する姿が描かれる。そして、面白いのは医者もまた患者と同じように深刻なトラウマを抱える普通の人間であることが描かれる。五島にしても精神的な強さを持った人物ではあるが、ガラスのように繊細な、また脆さも持っている。それを乗り越えながら自己に課せられた役割をこなして行く姿が神々しい。
 五島が赴任する少し前に若い看護婦の星野彩佳がひとり診療所にいて、彼女は五島の片腕となって働く。五島とは恋仲になって結婚ということになるのが普通だが、話はそうなりそうでそうならずに意外な方向に進む。第19巻あたりであったろうか。星野は五島に恋しながらも乳癌を患い、寿命が4,5年という宣告を受ける。本土に行き、そこで働きながら医者になるための勉強をするが、無謀を悟り、筆者が読んでいない第23巻では島に戻って以前のように看護婦となって五島を手伝う。その先がどうなるか知らないが、限られた登場人物をうまく絡ませながら物語に起伏を持たせるところは巧みだ。また、脇役たちが面白い。島の老若男女は大家族のように仲がよく、何かと五島の周囲に集まって世話を焼く。また、子どもたちがみな素朴かと言えばそうではない。素直であった女の子が本土に行って不良になってしまったりもする。それにはそれなりの理由があることが説明されるが、医者が不幸な患者と日々接することを思うと、そういう非情な現実がこの漫画で描かれることは納得せねばならない。そこで思うが、昨日心斎橋の東であった刺殺事件だ。殺人者の男は中学の時は将来は社長になっていると卒業文集に書いた。家は裕福であったが、そうではなくなってから暴走族となり、やがて覚醒剤、そして刑務所入りだ。出所後に希望をなくして自殺願望、それが出来ずに死刑を望んで人を殺すのであるから、どこで人生を間違ったのか、精神的な弱さゆえの転落で、弱いからこそ思い切っての自殺も出来ずだ。死刑にしてもらうために殺人を犯すというのは、つまるところ「甘え」が見え透いている。経済的に恵まれ、ちやほやされた幼少時がよくなかったのかもしれない。『Dr.コトー診療所』には精神的に弱い人物が、医者も含めて何人も登場する。そしてそういう人物がその弱さから脱する様子が描かれる。それは醒めた人からすればお涙頂戴のセンチメンタリズムに過ぎないが、漫画が小説や映画と同じような感動をどこまで与え得るかという作者の熱意、覚悟がこの作品には溢れていて、それはこの漫画を読む人をごくわずかな時間であっても、現実はこうあるべき、またこうだという真実味を感得させる。それは五島が私利私欲に走らず、ひたすら「癒者」であることに徹しようとしているからだが、そんな医者が今時いるはずがないとたいていの人は思う一方、ひょっとすればごくごくわずかにまだどこかにいるのではないかと思いたがっているから、そのわずかにでも残る人間の他者への期待あるいは信頼にこの作品は寄りかかって人気を得ている。
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 この作品が現実らしさを描こうとしているのは、登場人物や背景が写真のように実物が想像出来るほどに個性的であることからもわかる。だが、肝心の五島と星野は現実にどのような顔を思い浮かべればいいのかわからない。あまりにも漫画過ぎるし、また過去の他者の作品に登場した人物の模倣を感じる。つまり匿名的だ。五島はごく普通の男前、星野もごく普通の美人といった表現で描かれ、22巻を読んでもさてどのような顔であったか思い出せず、また現実ならばどういう俳優に似るかがさっぱりわからない。これは作者の技量の問題ではない。五島を初め全員は架空の人物でありながら実在感を持たせる必要がある。だが、脇役は脇にいて個性を発揮させるべき存在で、顔や体を個性的に描いて性格を明確に示さねばならない。これは映画でも同じだ。韓国ドラマでもそうで、筆者は脇役がむしろ面白い。主役は美男美女というのがあたりまえだ。それはある意味ではどれもみなよく似て、他の人気俳優と互換性がある。それを言えば脇役もそうだが、時に脇役はその人物でしか出せない味を見せる。韓国ドラマの面白さはそういう名脇役の演技を見るところにあると言ってもよい。同じことがこの漫画にも言える。五島と星野は欠点のほとんどない美しい性質の、つまりアクのない人物で、その顔や姿に個性があっては作品としてはかえって邪魔になる。したがってこの作品のTVドラマ化は、五島と星野に実物の個性ある人間をあてがうという、無謀と言える行ないをせねばならず、この漫画とは全く別の味わいをかもすことは必至だ。さて、五島と星野は平凡でありきたりの顔として描かれるのに対し、他の村民、本土から来る医者その他はみな作者に実在のモデルがあったと思わせるほどに個性的で印象深い。たとえば、江葉都という外科医が出て来る。複雑な少年期を送り、そのことが医師になっても深く影を落としているが、その顔は全くビートルズ時代、特に1967年のジョン・レノンだ。これが面白い。江葉都は五島のライヴァルと言ってよいが、やがて五島に感化されて立ち直り、五島と同じように離島の医師となる。江葉都と五島の関係はこの漫画の大きな見どころだ。それに続いて、かつて江葉都が手術した患者が医師となって江葉都に復讐しようとする物語があるが、挙句やはり五島によって目覚める。となればまるで五島がスーパーマンで、悩みのない人物のようだが、涙ながらに母に電話する場面が用意されている。つまり、作者はどんな人物でも悩みを抱え、懺悔すべき思いを抱いているといった表現を忘れない。最後につけ加えておくと、船酔いする五島はしばしば星野に頭から吐しゃ物を浴びせる。このギャグを初め、あちこちに描き方のタッチを変えたコミカルな描写がある。これは手塚治虫あたりから顕著に始まったことと思うが、そういう常套手法はもう少し工夫があっていいのではないか。あるいはハリウッド映画から始まって今では漫画にはなくてはならない完成された挿入句的手法で、もはや改変の余地がないのだろうか。様式であるからそれでいいと言えばそうなのだが、その様式はいつでも批判に晒されるべきではないか。今の漫画にはそういう無批判的な月並み表現が多い気がすることが、筆者が漫画を好まない理由になっている。様式を再現なく踏襲するでは進歩はない。
by uuuzen | 2012-06-11 23:59 | ●本当の当たり本
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