充分に納得という気分になっても、時が経てばそのことが変わっている場合が多い。たとえば先月筆者はザッパの曲「SON OF MR. GREEN GENES」を思い出したかのように連日何度も聴いた。曲の隅々までわかっているつもりであるのに、また聴く。
そこで思った。よく知っているとは何か。よく知っているので、もう興味がなくなるかと言えばそんなことはない。音楽は目に見える形がないので、よく知るということは手に持った時の重さや感触とは違う。そのため、何十年聴き続けても、目に見えるものとは異なる取り留めのなさのようなものがある。実際は目に見えるものでもそうで、いつ見ても同じと感じられるものには飽きが来て、別のものと出会いたいと思う。そのため、人は違う場所に旅したり、離婚したり、そして人生に飽きる頃には死の世界に踏み込む。それはともかく、人生が飽きないように、世の中には無数の関心事がある。あるいは人は常に新たなことに関心を抱くと言い換えてよい。その全部に関心を持つことは出来ないし、また持とうと思うことは煩悩であるので、関心事はわずかでいいのかもしれない。わずかであっても、先に書いたように、時が経つとまた触れたくなっている場合が多い。その一方、かつて関心のかけらを抱き、それが長年そのまま心の片隅に留まっていることは誰にでもある。そんな長年の気がかりを少しでも減らしたいと思うのは、人生の残りが少ないと感じるからだろうか。3年前の7月に亡くなったNは、亡くなる数年前に筆者との会話の中でキャビアを食べたことがないと言った。筆者は20年かもっと前の誕生日に妹が小さな瓶ひとつで4000円ほどするものと、1000円ほどの安物を買って来てくれて食べ比べをした。また、その後も何度か食べる機会があってそのことをNに言うとうらやましそうな顔をするので、早速食べるべしと言った。次に会った時に食べた感想を聞いたが、予想したほどおいしくなかったと言う。安物でもなかったようなので、その意見は意外であったが、Nは歯が悪く、食べ物が味がかなりわからなくなっていた。ともかく、Nが心の片隅にあったキャビアをようやく食べたのはよかった。ほかにも気になりながらも食べずに終わったものがあったのかどうか、死ぬまでには気になることはひとつでも減らしておくのがよい。筆者にはそういう気がかりが無数にある。それだけ煩悩が多いのかと自問するが、気がかりそのものを忘れるようにするのが一番いいかもしれない。人間は知らず知らずのうちにそうしている、またそうなって行くのだろう。
『エヴゲーニ・オネーギン』を先日読み終えた後、同じ筑摩書房の世界文学大系の巻末にツルゲーネフの『父と子』が入っていることが気がかりで、試しに最初のページの冒頭20行ほどを読んだ。そのまま1週間ほど放置したが、20行の印象が鮮やかで、本文3段組で文字がとても小さいと思いながらも、読み進むことにした。そして一気に3分の1ほどを読み、数時間置いてまた3分の1、翌日に残りを読んだ。図書館に返却せねばならないという理由からではない。この小説は隣家を探せば別の出版社から出たものを所有する。それで読んでもよかったが、探すのが面倒だ。手元にあるものをさっさと読めばそれで済む。丸1日かかって読んだ計算で、10代半ばから気になっていたものを読み終えることが出来てよかった。この小説はここ数年気になっていた。「父と子」とは、筆者と息子の関係のように、何か親子の内面の関係が詳しく書かれ、それが何らかの価値ある意見であるかとの期待があったからだ。結果を言えば、筆者の想像とは違い、親子関係の問題について書かれたものではなかった。その点ではまだ『暗夜行路』の方が父と子の対立問題に触れている。そうではあったが、ぐいぐいと読ませる面白さは群を抜いていて、途中でだれることがなかった。このような小説は珍しい。さすがロシアの代表的な小説というだけはある。ただし、結末はあまりに予想外で、そのことをどう捉えていいのか、読み終えた後でも戸惑いが去らない。そのため、こうして感想を書くべきではないのかもしれないが、印象が鮮やかなうちに書いておくのもいいと判断した。まず、ツルゲーネフはプーシキンより19歳年少で、19歳の時にプーシキンの葬儀に参列している。この点ではプーシキンが父、ツルゲーネフが息子という関係だ。またこの小説では登場人物に『オネーギン』を素晴らしいと言わせる場面や、またプーシキンを時代遅れと主張する人物も描かれる。そして前者は父、後者は息子の世代だ。ツルゲーネフはプーシキンを賛美しながら、新しい時代が来ていたことを自覚していたことになる。父と子はいつの時代でもそのように考えが違う。そのことがこの小説の主題だが、考えが古い父が先に死に、考えが新しい息子が新時代を作るかと言えば、国家全体、人類全体で見ればそうであっても、ひとつの家庭ではそうとは限らない。父が改革派で息子が保守である場合はいくらでもある。同じ味を保つ老舗の食堂などはそうだろう。よく何代も続く店を自慢するが、初代だけが立派で、それに続く代は保守の「でくのぼう」と大差ない。父と子とは、旧世代と新世代の対立関係ばかりではない。
ふたりの若い男がいちおう主人公として登場する。バザーロフと、彼より7,8歳年少で22歳のアルカージィだ。このふたりはオネーギンとレンスキオーを思わせる。『オネーギン』を連想させる場面はほかにもある。たとえばバザーロフとアルカージィはある姉妹の家に滞在し、バザーロフは姉を、アルカージィは妹に恋をする。最初はアルカージィも姉に魅せられるが、バザーロフと恋仇になることを遠慮し、そのうちに妹にプロポーズし、そして結婚する。ほかに『オネーギン』と共通する点は、バザーロフが決闘を申し込まれることだ。だがバザーロフは相手を打ち殺さず、怪我を負わせる。このように差はあるが、重要な部分は『オネーギン』の影響があるように思える。その最大の点は、バザーロフが破滅することだ。だが、彼はニヒリストである点はオネーギンに通じていても、無為に時を過ごす貴族ではない。田舎の退役軍医の息子で、医者を目指しており、科学のみを信じている。女の肉体に惹かれることはあっても恋愛を信じておらず、女性は男の意のままになる存在であればいいと思っている。アルカージィはそういうバザーロフをとても頼もしく思い、いつか名を遂げて大物になると確信している。バザーロフはそんなアルカージィを弟のように扱ってはいるが、田舎のちょっとした大きな地主の坊ちゃんに過ぎず、中途半端で大したことの出来ない男と内心見限っている。そして実際そのようにアルカージィは描かれ、全体に温和で影はうすい。だが、結末を書くと、そんなアルカージィが父の後継ぎとして立派に役割をこなし、また結婚もする。先に書いた老舗の食堂のようなものだ。ツルゲーネフはそういう存在を肯定し、過激なとでも言ってよいバザーロフを破滅させる。これをどう読み解けばいいかは、ツルゲーネフの時代のロシアを知る必要があるが、そのことはこの小説のあちこちに書かれている。プーシキンがそうであったように、ツルゲーネフも農奴解放に加担し、時代の流れを見据えていた。だが、プーシキンもツルゲーネフも、またバザーロフもアルカージィもみな貴族だ。だが、この『父と子』は『オネーギン』とは違って、貧しい雇用人が貴族と同じほどに登場する。それは確実に時代が下っていたと見るべきか。バザーロフは比較的貧しい地主であるので、農奴には同情的で、アルカージィの実家の下僕たちの人気をすぐに得る。ざっくばらんであるからだが、そういう改革派、開明派を破滅させるところ、ツルゲーネフが農奴解放に関してどう見ていたかの問題がまず浮かび、それはこの小説が発表された時でも同じであったようだ。バザーロフのような新しい考えを持った青年は当時の若者の鑑となったが、そのバザーロフが破滅し、平凡なアルカージィが幸福になる結末は、旧い思想に偏りがちな層からは歓迎された。それはツルゲーネフの望むところではなかったであろうが、ではツルゲーネフはこの作品で何を言いたかったかが問題となる。
そこで思うには、ツルゲーネフがプーシキンを意識していたことだ。それは旧世代派ということになる。ツルゲーネフは西洋から新しいものがどんどん流入するロシアを見定めながら、とにかくロシアの現状を徹底的に破壊するというバザーロフに全面的に賛同しかねたのだろう。バザーロフには実在のモデルがあったというから、それはツルゲーネフにとって息子の世代であろう。となると、父と子の対立は、父としてのツルゲーネフが正しくて、息子としての急進な改革派は退けられるべきものであったということか。バザーロフやアルカージィの父親は農奴には同情的で、それなりに農奴のために行動している。ところがバザーロフはその農奴も信じていない。小説にも書かれるが、バザーロフは表向きは農奴に理解を示すが、農奴の方はバザーロフを内心嘲笑っている。それは地主の坊ちゃんが何がわかるかという思いだ。そこをバザーロフは知らない。ツルゲーネフが言いたかったのはそこかもしれない。農奴に理解を示すと言いながら、バザーロフは農奴のように働かなくてもいい身分だ。この小説は『オネーギン』、あるいは『暗夜行路』と同じく、主人公が汗して働かない。みな遺産があったり、また農奴の働きによって食うには困らない。だが、ツルゲーネフはバザーロフをまだ貧しい地主の息子とし、またバザーロフはいずれ町医者となりたいといった夢を抱く青年として描く。そこはオネーギンとは大違いだ。そういうバザーロフが結果的に親不幸者となってしまうのは、ツルゲーネフにすればバザーロフのような考えの持ち主が憎かったのではなく、そういう夢のある青年が挫折してしまうほどに当時のロシアが時代の激変期でしかも深刻な状態にあったことを伝えておきたかったのかもしれない。それは当時のロシアだけではなく、今でも同じかもしれない。実際バザーロフのような男は今でも見かける。いや、意欲ある青年はみなバザーロフのようだと言ってよいほどだ。60年代の学生運動に身を投じた連中はそうではないか。旧い価値を破壊し、それに代わる何か新しいものを内面に描いているかと言えばそうでもない。何事も信じず、またどんなことがあっても自分の意思は揺れないと思っているが、それは間違いで、たとえば出会ったことのない女を前にしてたちまち自分を見失う。そしてそのことに戸惑い、戸惑ったその自分が許せない。バザーロフはそんな男だが、それは現代の日本の若者にも珍しくない姿であろう。
この小説は学位を取ったアルカージィがバザーロフとともに帰郷するところから始まる。最初はアルカージィの実家のことを詳しく描写しながら、次第にバザーロフが物語の中心となって来る。バザーロフは数年ぶりに故郷に帰る途中、アルカージィの実家にしばらく滞在し、蛙や虫を捕獲してそれらを解剖したり顕微鏡で観察するなど研究をする。父と子の関係は、バザーロフ、アルカージィともに描かれる。つまり二組の父と子の関係を描く。そして双方の父は交流がない。どちらの父も人柄はよく、昔の人間であることを自覚している。またバザーロフには老いた母がいて、彼女はいつの時代でも同じである典型的な息子思いの普通の女として描かれる。アルカージィの母は早死にし、父ニコライはアルカージィの妻になってもよい若い娘と暮らして子どもまでもうけている。このことにアルカージィは何の反対もなく、むしろ父がその若い娘と正式に結婚することを望んでいる。つまり、アルカージィはすくすくまともに育ち、父親思いだ。その点はバザーロフもそうなのだろうが、彼は何年かぶりに帰省しても、わずか3日で退屈を覚える。そこには、親が子を思うほどには子は親を思っていないという姿が描かれる。さてニコライは、45歳の独身の兄キルサーノフと暮らしている。キルサーノフはある公爵令嬢と熱烈な恋をしたが実らず、またニコライとは違って社交会の洗練された身ごなしや服装、習慣、考えに染まっている。この点、キルサーノフはオネーギンのその後の姿を想像させる。実際その見方は正しいであろう。キルサーノフはたちまちバザーロフと対立する。この小説の副主人公はアルカージィではなくキルサーノフとしてよい。キルサーノフはバザーロフに決闘を申し込む。その理由は、バザーロフがニコライの若妻に手をつけようとしたからだ。それを垣間見たキルサーノフは紳士的な物言いで決闘を申し込むみ、バザーロフはすぐに同意する。キルサーノフは足を撃たれはするが命に別条はなく、やがて快復する。そこには医師の卵のバザーロフの治療もあった。バザーロフの性質は把握しにくいが、ニコライの若い妻を見染めたり、またある人物の紹介で別の村で若い姉妹が暮らす屋敷でしばらく過ごす間、その姉に魅せられたりと、自分に似合うと思える女には手が早い男として描かれる。しかも女心を理解せず、思いは実らない。この小説の面白さは、女の思いがよく描けていることだ。特にバザーロフが迫るふたりの対照的な女がそうだ。屋敷に暮らす姉妹の姉もどこか謎めいたところのある、そして30近い年齢になっているが、彼女とバザーロフの関係はこの小説の最も面白い部分を形成している。その彼女の生まれ育ちがまた特徴があり、この小説は主要人物の両親の生にまで言及して実在感を伝える。そうした迫真的な面白さとは別に、プーシキンの作品にあるように、自然の描写にも優れ、何本ものロシア映画を見た気にさせる。すらすらと読めたのは翻訳がよかったからであろう。錦織綾紹の訳だ。そうそう、最後に書いておくと、ひとまず物語が終わった後、各登場人物のその後を書き添えている。それは読者へのサービスだが、物語であるのでそうした後日談はそれぞれが正反対の内容であっても実際はかまわない。だが、この各人の後日談はバザーロフの生涯と対比させるために必要であって、この小説に書かれる内容であらねばならない。