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●『カルメン故郷に帰る』
国の言葉が入っていることが放送禁止の理由であるとWIKIPEDIAで知った。中学1年生の音楽の授業で習った「森の水車」で、この歌については以前に書いたことがある。



歌詞の3番は「もしもあなたが怠けたり、遊んでいたくなった時、森の水車の歌声をひとり静かにお聞きなさい。」とで、その後に「コトコトコットン、コトコトコットン、ファミレドシドレミファー、コトコトコットン、コトコトコットン、仕事に励みましょう。……いつの日か楽しい春がやって来るー。」と続く。筆者はこの軽快な曲が好きで、今でもたまに口ずさむ。音楽の教科書に載っていたこの曲はごくわずかな年度だけ教えられたようで、同じ大阪市内に住んでいた2歳下の家内は学ばなかったし、また聴いたこともないと言う。授業で教えなくなったのは、歌詞に問題があると思われたからだろうか。作詞作曲は昭和17年(1942)で、戦時中だ。森の水車のように休まず働けばきっといい日がいつかやって来るというのは、ある意味では真実だが、今ではそれだけ働くのは非人間的で、しかも働いてよくなるとは、世の中全体とは言い切れないと評論家は真面目に言うだろう。この曲が戦時中に放送禁止となったのは、「ファミレドシドレミファ」が外来語が理由らしい。そして学校で教えなくなったのは、水車のように休みなく働くとはロボットのごとく非人間的だとの意見が増えたためではないか。筆者がこの曲を好んだのは、軽快なリズムのためだが、歌詞も無意識のうちに大きな影響を与えたかもしれない。家庭での育ちによって性格は大きく異なるが、時代の影響も大きく、父と息子とではいつの時代も考えが違う。つまり、誰しも時代から逃れられず、また生まれ育った家庭環境にその後の人生が左右される。筆者のこのブログを読む人は、筆者が1951年生まれであることを随所で感じるだろうし、その時代の古さを筆者が嘆いても仕方がない。それに、古いからよくないではなく、古くても新しく感じるものはあるし、新しくても古いものがある。筆者のようなに60年も生きて来ると、この新旧がごちゃ混ぜになって、新しいという理由だけで何事も歓迎するという気にはなれない。また古いから何でも価値があるとは思わないが、世間で古典として通用しているものにはそれなりの理由があるはずで、頭から否定する気は毛頭ない。ただし、縁のないままおさらばということになるものが大部分のはずで、その縁の有無も結局な生まれ育った環境と時代が左右するから、興味の対象に関しては気の赴くままにしておけばよい。
 右京図書館には邦画のDVDがいくらかある。その中に今日取り上げる『カルメン故郷に帰る』があった。この映画は日本初の総天然色という触れ込みで有名であるのは昔から知っていた。なかなか見る機会がなかったが、ようやくそれに恵まれた。図書館にあったのは運のよさだが、この映画に関心を持っていたのは筆者の生まれ育ちが大きい。ともかく、気分の赴くままであったためで、それがこうしてブログに感想を書くことにつながっている。この映画については主演の高峰秀子が近年亡くなった時にNHKで紹介されたと思う。フィルムの感度の問題があって、ほとんど野外で撮影し、またレフ板を常に使って俳優に光を当てたというが、その不自然さは映像から感じる。だが、浅間山の麓を舞台にし、また真っ青な空がきれいで、総天然色映画の醍醐味はよく出ている。DVDの映像はあまり保存のよいフィルもを元にしなかったせいか、全体に細かい雨が入っているように見えるのが残念だ。デジタル・リマスターによってクリアな画面に出来るはずだが、そこまでお金をかけても売り上げが見込めないのであろう。またとても残念であったのは、音声がとても聞き取りにくく、何度聞いてもわからない箇所がたくさんあった。日本映画であっても、こうした古い作品は字幕をつけるべきではないか。この映画は富士フィルムが新たに開発したフィルムを使ったというが、封切りが筆者が生まれた1951年の8月の24日であったことは面白い。筆者は戦後の総天然色映画時代幕開けの人間ということになる。確かに自分でも色を扱う仕事をしていることからしても、これには納得出来る。忘れないうちに書いておくと、「森の水車」は高峰秀子が最初歌った。これを先ほどWIKIPEDIAを見て知った。彼女は昭和4年に小役としてデビューしている。戦前、戦中、戦後と活躍し、その人生は日本を代表する女優と言うに全くふさわしい。もうこういう女優は現われない。名前と顔は昔から知っているが、筆者好みの顔でないこともあって、意識したことはない。だがWIKIPEDIAを読んで、彼女の文章を読みたくなった。梅原龍三郎のモデルになったり、また骨董に造詣が深く、店までかまえたりというから、美術に関心もあった。筆者が好きな有馬稲子にもそういう面はあるが、戦前生まれの名女優は、戦後生まれとは違って教養も頑張りも桁違いに大きかったと思わせられる。昨夜ネット・ニュースで沢尻なんとかいう若い女優が薬物中毒になっていることを知ったが、日本の女優の底は浅くなった。それだけ映画監督も小粒になり、また観客も少なくなったということだ。娯楽が多様化し、映画ファンが減少した。そう言えば先日はサッカーのある選手が、自分が出た試合の視聴率が30パーセントであることに不満を抱き、国民の3分の1しか見ないではまだまだといったようなことを発言した。筆者は全くサッカーには関心がないので、この発言には驚いた。30パーセントは空前の数値だが、サッカー選手はうぬぼれが強いのか、国民全員が見るべきと思っているようだ。北朝鮮ならそうなるかもしれないが、スポーツは娯楽であり、サッカーに何の関心を持たない人があって当然で、それでこそ文化が多様な国で喜ぶべきだ。
 『カルメン故郷に帰る』は大ヒットしたという。総天然色という触れ込み、そして高峰秀子がストリッパーを演じるという衝撃さもあったからだろう。そして、映画は晴天のように明るく、放牧された馬や牛がよく映る牧歌的なところは見ていて気分がよい。またこの裸の馬や牛は、人間の女が裸になることに引っかけていて、ストリップが健全なものであるという監督の思いを暗示している。この映画については、4月の終わり、このブログにオペラ「カルメン」を取り上げた時に思い浮かべていた。カルメンという女の名前が日本映画のタイトルにも使われるほどに有名で、しかもこの映画では高峰秀子が東京のストリッパーという設定であるから、オペラ「カルメン」の主役がだいたいどういうように一般に知れわたっていたかがわかる。オペラのそれは男を破滅させる「悪女」だが、この映画のリリー・カルメンは悪女ではないどころか、全くその逆で、天真爛漫で義侠心に富む。これは高峰秀子の実像にかなり近いのだろう。『二十四の瞳』で見せる演技とは全く違い、ちゃきちゃきした活力溢れる性格で、物事を前向きに捉える。この深刻ぶらない性質はストリッパーには欠かせないものなのかどうか、男を喜ばせるにはそうあるべきだ。男は女性が裸になって惨めになっている様子を見たくはない。そのことをこの映画はもともに捉えている。それもあって、リリー・カルメンを食い物にするような悪い男は登場せず、またそもそも悪人を描かない。わずかにそれらしき商人を描くが、借金の形に取った盲目の作曲家のオルガンを、カルメンの痛い言葉によって作曲家に返却するという、現実にはまずあり得ないような筋立てにし、聖女としてのカルメンの前に誰ひとりとして気分を害する者はいない。これは当時の木下惠介監督の社会の底辺にいる人々への眼差しであろうか。ともかく、脚本も木下惠介であるのでヒューマニズム溢れる話であることは最初から予想出来るが、喜劇タッチで描くところにストリッパーを主役にする際どさから免れている。また、現在のアダルト・ビデオにもよくあるだろうが、笑いとセックスを同居させる手法は、セックス行為の映像を見る者に罪悪感を与えない。監督はそのことをよく心得てこの作品を作っている。この映画を笑いを除いて撮ると、ただ悲しい物語になって、観客は気分が滅入る。いや、この映画も笑いの向こうに悲しみは漂っている。主人公が懸命に逞しく生きるという意思を持っているので、観客にはすぐに伝わらないだけであって、現実問題として捉えると、田舎から出て来た、そして少々頭の弱い若い女性は、ストリッパー程度にしかなれないという事実が明らかで、その状態は現在も大差ないのではないか。しかも、今はストリップはもっとえげつなくなって、性産業は供給過剰で女性の裸の価値は減少した。
 この映画の始まりは、カルメンがもうひとり年下のストリッパーのマヤ朱美とともに久しぶりに実家に帰るために、カルメンの実家のある北軽井沢の駅に到着する場面だが、その前に漫画を背景にしたてタイトル・ロールがある。それは映画の中でも二度歌われるが、盲目の作曲家が書いた歌で、それを児童が合唱する。悲しみを帯びたメロディで、今ならとてもはやらないと思うが、1951年を思えばまだそういう時代であったのだろう。このいかにも日本の田舎を連想させる童謡っぽい曲とは対照的にリリー・カルメンが帰郷して、その盲目の作曲家の妻が引く牛車に乗りながら歌う曲がある。それはアメリカのブルースと言ってよい都会の音楽で、それを歌うところに、当時の田舎と都会の差が際立つ。そのどちらを監督が肯定しているかと言えば、この映画が美しい日本の風景を背景にしている点で前者と言うしかないようだが、それでは東京からやって来たカルメンが否定されなければならない。監督はカルメンを否定せず、また当然のことながら田舎を嘲笑していない。ここには戦後一挙に流入するアメリカ文化の前で、何が重要かを問うているのであって、あらゆる文化を肯定する思いがある。そうであるから、カルメンはストリップは芸術であると信じている。それは、たとえば画家や彫刻家が裸の女性を前に作品づくりするところからも言える。同じように裸になり、しかも人を楽しませるのであるから、絵や彫刻が芸術であってストリップがそうでないというのは理屈としてはおかしい。カルメンが帰る故郷では、小学校の校長がこれからの日本は文化が重要という意識を持っていて、カルメンの到着を心待ちにしている。ところがけばけばしい身なりで現われたカルメンとマヤ朱美を見て驚く。予想と違ったのだ。村の人たちはカルメンをパンパンであると陰口を叩き、カルメンの父は娘のあられもない姿を嘆く。ところが、この映画で最も感動的な場面はその父から語られる。カルメンは自分たちの行動が周囲を混乱に陥れ、さっぱり歓迎されないことを知ってすぐに村を去ろうとするが、その前夜にカルメンと同じ汽車で東京から戻って来た村の有名な商売人を興行主としてストリップ・ショーを急ごしらえの小屋で演じるアイデアを思いつく。その売り上げを父にわたすつもりなのだ。校長はショーを中止させようとするが、カルメンの父は娘を恥と思いながらも、校長を説得して娘の思いどおりに上演させる。それはストリップが国で禁止されているものならば東京で娘がそれに携わることが出来ないはずで、国が承認しているものならば、田舎でも悪いわけがないという理由だ。
 校長に比べて無学なカルメンの父親のこの態度は重要だ。そこには娘への全幅の信頼がある。筆者はこれに感動した。そして、自分がカルメンの父の立場なら、カルメンの行為を許すだろうかと思った。村人の一部はカルメンを売春婦として嘲笑うが、独身男性たちは大喜びで、演じ終わって帰途に着くカルメンに、また故郷に戻って裸を見せてくれと言う。マヤ朱美相手にカルメンも言っていたように、独身男が女の裸を見たくないわけがなく、公演は絶対に成功すると踏んだのは正しかった。そして、カルメンはお金を父に残して東京に帰るが、カルメンの父はそのお金を校長に手わたして文化に使ってほしいと言う。ここも泣かせる場面で、カルメンが体を見せて稼いだお金が、子どもたちの教育のために使われる。木下監督はそういうつながった社会を示したかったのだろう。それも1951年という、これから日本が発展して行かねばならない時代という思いが誰しも強かったためだ。同じテイストを寅さんシリーズで山田洋次が引き継いだが、さて現在の日本ではそうした流れを汲む映画が可能だろうか。可能だとすればまだ日本の本質が変わっていないことになる。だが、その本質とは何かという問題もある。悪人がいっさい出ない映画が現実の比喩であるかは人によって考えが異なる。そんな甘い話を信じるのは子どもかあるいは不幸な目に遭ったことのない人物だけだという見方もあるだろう。つまり、ハッピーエンドなんか信じないという立場だ。だが、木下監督が現実を知らない、あるいは見ないようにしていたはずはない。現実が悲惨であればあるほど、それとは反対の物語を描くという立場もある。また、悲惨な生涯を送る人でも自分の悲惨を客観視し、この映画や寅さんシリーズを見たい場合はいくらでもあるだろう。そういう考えがなくならない限り、日本に限らずどの国でも悪人が登場しない映画は作られる。最後に書いておくと、ふたりが今の水着よりもまだ多くをまとった姿で青空の下の草原で踊る場面がある。それは滑稽味もあるが、全体として絵画のように美しく、カラー映画ならではだ。その場面からよくわかるが、高峰は小柄で、その太腿はマヤ朱美を演じる背の高い小林トシ子より太く、スタイルはあまりよくない。そのふたりの体形が、映画の終盤のストリップ場面で全裸になるふたりの後ろ姿とは違うと直感した。そのストリップの場面は、裸の下半身のアップを瞬間見せるのみで、尻は映さない。それに、その下半身の向こうに固唾を飲んで見守る観客の顔に焦点を合わせる。またふたりの裸の下半身は別人で、高峰峰子ではない。そういう替え玉は今でも行なわれている。天下の高峰が大勢の男の前で素っ裸になる必要はない。それに後ろ姿だけでは誰かわからない。監督はそう考えたのだろう。今の日本映画では有名女優が陰毛を見せても平気というのが相場になっているが、高峰の時代はまだそこまでセックスへの解放はなかった。カルメンの名前は今でもセックス・シンボルに使われているが、この映画よりもっと過激になっているのは言うまでもない。それは、相変わらず人々は水車のように休みなく働いているとして、いい日がやって来たことなのかどうか。
by uuuzen | 2012-06-09 23:59 | ●その他の映画など
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