『戦時下の俳句と絵手紙』と同時開催されているのがこの展覧会だ。伊丹市美の2階半分と1階、それに隣の旧岡田家住宅(酒蔵)が会場として使用されている。山口啓介の名前は知らなかったが、チラシ裏面のカセット・ケースを組み立てた作品を見て、それを雑誌か何かで以前に見ていることを思い出した。
1962年兵庫県に生まれ、85年に武蔵野美大卒、大型の銅版画で受賞を重ね、95年には関西ドイツ文化センターとデュッセルドルフ市との芸術交流により同市に滞在、2002年には西宮大谷美術館で『植物の心臓、宇宙の花』という展覧会を開いている。同展は観ていないが、ひょっとすればチラシを入手して保存しているかもしれない。さて、どの美術館でも夏休みにはよく子ども向きの展覧会が行なわれるが、今回の展覧会の一部は山口と中学生が話し合った結果、ワークショップを経て展覧会に結びつけたものという。その作品は旧岡田家住宅に大きなものとしてひとつ展示されていたが、山口の作品を観た後ではその影響が大き過ぎるものに見えた。それが山口の作品なのか、あるいはあくまで生徒たちのものなのかはわからないが、もし生徒たちのものであるとするならば、ワークショップで何をどう話し合ったのかは知らないが、中学生が作品を作り上げる前に山口の話を聞かせ、その作品を見せてしまうと、そこから影響を受けるのは当然で、そのことが山口の思想的なものの中学生への刷り込みになっていなければよいがと思う。これは美術家として山口の思想がよくないと言いたいのではない。ただ、自由であるべきはずの作品づくりが、山口の作品の技術的なところをやや安易に引用したように見えていることは、学校での美術教育との抵触ということも含めて、問題がいろいろとあるように思う。チラシにはこうある。「私たちは無限に広がる宇宙のなかに生きています。しかし、私たちはこころの中にも無限に広がっている宇宙があることを、いつも気にもしないで暮らしています。そんな日常のなかでつい見過ごしてしまいそうな小さな生命にも目を向け、心のなかの小さな宇宙の一員に仲間入りさせる”私の世界模型”づくりに中学生たちがチャレンジします。本企画は、地球上の自然界に異常な変化が生起している現状や中学生たちの心の中の宇宙を日常生活の中から見出し……」。この説明文からは山口の造形に近似したものではなく、もっと違う発想が生まれてよい。「世界模型」という言葉からは、昔夏休みに作った空き箱を水槽に見立てて作った紙の水族館を思ってしまったが、「私の」と題するのであれば、もっと各個人が違う発想と違う造作で作品を提出してよい。にもかかわらず、誰もが同じように植物を密着性の透明な袋に収め、それらを立体的に集合させて1個の大きなオブジェを構成し、内部からライトを当てることでそれを暗闇から浮かび上がらせるというアイデアは、山口のカセットを使用したレディメイド利用作品の焼き直しに思える。立体にこだわらずに平面作品でもよかったし、現物の植物をたくさん使用するのであれば、もっと違うアプローチもあったのではないだろうか。
美術館1階の出入口を入ってすぐに、スリム・タイプのカセットテープのケースに、花や葉をひとつずつ入れてアクリルで固めたものを、高さ3メートル近くにまで塔のようにぐるりと輪状に接続構成した山口のオブジェがあった。ケースは透明だが、うっすらと色がついているものを使ってある部分は虹色に輝いて見えるようにしてある。光を透過すると美しい。同種の作品を以前に本で見た時、まず思ったことは、数千個単位の膨大なカセットテープのケースをどのようにして入手したのか、中身も含めて購入したのだろうかといったごく下世話なことであった。それに作品の保管場所はどうしているのかという、作家としてはきわめて現実的なことを次に思う。それはさておき、カセットは宝石箱の意味であるので、そこに自然の造形物の断片を入れて固めるというのは理解しやすい象徴だ。カセット1個を花や葉の核を持った1個の細胞とみなし、それを大量につないで壁面や、あるいは家の形にすれば、またそこにわかりやすいイメージが浮かぶ。花や葉はどこにでもあるし、またそれを封入したカセット・ケースは個々で完結しているので、それをつないで新たな大きな形を作る場合、たとえばレゴのブロックのように個々は互換性があるから便利だ。カセットに植物を詰める行為はいわば単純作業として空いた時間にそれなりに量産出来もする。この展覧会の副題の「粒子と稜線」だが、カセットは粒子で、それを今回の展示のようになだらかな曲面を構成するように接続する場合、その曲面は山口のドローイングにあるように、山の稜線を意味しているのだろう。それはいのちの象徴となるものを実物の植物を封入した透明なカセット・ケースで構成する他の作品と関連集合してさらに大きな世界を目指しているのかもしれない。1個のカセットは山口にとっては1個の文字の代わりをするものと言える。それゆえ、中身はみな違うのではなく、そこそこ同じ葉や花が繰り返して現われていると考えられる。カセットに入っている植物が全部違う種類であればもっと面白いが、たとえばパンジーが何個かおきに使用されているのを見ると、少々退屈感が首をもたげる。しかし、活字と思えば納得出来る。山口は本というものに嫉妬を覚えると書いていたが、本を蜜蝋で固めて、一部に彩色するなどしたオブジェ作品がいくつか展示されていた。カセットを文字と考え、それをつないで立体化するのは、文字を使わないで自然の現状を報告する本ということにもなる。しかし、山口が言うように、本ならばもっとコンパクトで済むし、思想の直接の伝達にも役立つ。

A4サイズのチラシ(左掲の図版)いっぱいに印刷されるのは、山口がネット上で検索して見つけたイラクにおける劣化ウラン弾の被害に遇った子どもの顔を木版画で表現した「DU Child」だ。サイズは縦が3メートル近いもので、それだけ大きなものを木版画で表現することの労力は大変なものだが、同じ子どもをより縮小した作品もあって、ひとつのシンボルとして位置づけようとしていることが伝わる。そのシンボルが訴えるものは、簡単に言えば戦争の愚かさや、それによって被害を受ける弱者への凝視だ。これは山口の直接的な思想伝達であるかもしれない。言葉を使うよりも、もっとダイレクトにぎょっとさせるものが絵にはあるからだ。劣化ウランによる被害はたまにTVで特集番組がある程度で、ひとつ目の子どもやシャム双生児といったショッキングな映像はネットの世界で探索するしかなかなか見られない。ヴェトナム戦争後にも同じような被害が出たから、ある意味では人々はそうした人間が人間に下す犯罪的映像には観念的には馴れが生じている。そして、安全な国や地域に住んではいても、いつ理不尽な事件に巻き込まれるかわらない予測不可能な時代であることを考えれば、ネット上の映像に触発されて、それを木版画や銅版画の題材にそのまま使うというのも、昔に比べれば現実感が増している行為と言えるだろう。目をそむけたくなるような大きな子どもの顔ではあっても、それが現実であるという事実を前にしては異論を唱えることは許されない雰囲気があり、美術が美しさを伝達することではもはやなく、醜の表現を通じてさえ、現実にある問題に今一度目覚めさせ、そうした微力と言える行為を地道に介して「いのちを考える」というのもよくわかる。だが、あまり感動しなかったのも事実で、それではせっかくの作品も意味がないではないかと思えた。山口の作品からはヨーゼフ・ボイスを連想したが、ボイスに感化を受けた作家はみなどこかボイス風になってしまうようで、そうした影響関係は作品がよければ別に悪いことでも何でもないが、ボイスがボイスになったのは彼だけの経験の裏打ちがあってのことで、そうした、たとえば実際の戦争体験といったものが体得出来ない国に住む者は、どうしても情報のみで悲惨な状況を認識することが出来ず、作品が観念の上滑りをしてしまうものになりがちになる。『戦時下の俳句』における前線俳句と銃後俳句の差だと言ってしまえば酷かもしれないが、ネット社会における新たな取り組みをしている作家として山口を評価することはやぶさかでない。
伊丹市美の地下にも展示室がある。そこには『所蔵品展・ ドイツのまなざし』が開催されていた。これは『2005/2006 日本におけるドイツ』に因んだもので、ケーテ・コルヴィッツ、マックス・ペヒシュタイン、オットー・ディックスらのドイツの画家たちによる銅版画や木版画が並べられていた。どれもよく知っている作品だが、コルヴィッツやディックスが実際どのように戦争にかかわったかを知っている者からすれば、作品が訴える迫力は圧倒的なものがある。造形的にも素晴らしく、卓抜な技術と熱い思いとが幸福な結婚をしている。今回の展示にはなかったが、ディックスの有名な銅版画『戦争』シリーズは崩壊した顔面をした兵士などをさんざん描いたもので、そこから感じられるものは、山口の劣化ウラン被害を題材にする版画から伝わるものとはいささか違う。それが単に、実際に従軍せずに、ネット上の画像に感化を受けたことの違いゆえとは言うつもりはないが、人間界の暗黒面を表現するには重要な何かが必要であることは示してくれていると思う。それが何かはここでは断定しないが、名品として残って行く作品であるよりも、現状告発することが大切であるともし山口が考えているのだとすれば、どうもそれは違うように感じる。山口の木版画や銅版画はモノクロームの暗鬱な画面だが、一方で非常にカラフルなドローイングをたくさん描いている。それらはエミール・ノルデなどのドイツ表現派の絵を連想させるが、花の一部を拡大するなどして、その点ではジョージア・オキーフに似てもいて、そのはかなさと力強さがない混ぜになったたたずまいは、確かに「いのちを考える」山口としては適切な題材でもあり、こっちの方の仕事をもっと拡張してほしい気もするが、劣化ウランによる人の奇形が植物にも生じている現実を考えれば、奇形児も花も山口にとっては同じ地平に並ぶテーマということだ。影が黒いほど光が明るいとはよく言うが、植物を収めたカセットケースの塔の透明感はそんな生命の本質を伝えるかもしれない。光を透過することで明るさを伝え、同時に地面に植物の影を落として、命が存在しているものであることを認識させているからだ。さきほど、山口の造形はわかりやすい象徴と書いたが、ボイスを連想させると書いたように、現代芸術特有の思考方法が前提としてあり、それを造形を通じてわかりやすく中学生に伝えることはそうとう困難なことに思える。思考が先走って頭でっかちになることは戒めるべきあるし、もっと描いたり作ったりする体を使った作業で、いのちを考えさせる方法もあるのではないかと思う。