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●ムーンゴッタ・2012年6月
じることはなかったが、曇り空の今夜は満月を拝むには深夜になると思っていると、予想外に早く、9時に外に出てみると、雲の間からくっきりと見えた。



●ムーンゴッタ・2012年6月_d0053294_18415983.jpg

先ほどのTVでは北日本では8時頃に月食が見られたという。南日本では晴れであっても無理だったのかどうか知らないが、9時を過ぎればどっちみちもう無理だ。ともかく、今月も満月の写真を載せられる。いつも自宅周辺で撮るので、今夜は小学校のすぐ近くでと考え、7時半から始まる自治会長会議にカメラを持って出かけた。会議が終わって家の近くまで来たところでカメラを忘れたことに気づき、自治会館まで走って戻った。50メートル手前に来ると、すでに真っ暗だ。これでは今夜は晴れても写真を写せないかと半ばあきらめながら、館の前に着くと、連合会の役員たちがちょうど門を出るところであった。筆者のカメラはある人が手に持ち、今から持参するつもりでしたとのこと。ありがたい。筆者の座っていた位置にあったので、筆者のものとわかったのだ。カメラをもらってゆっくりとまた家に向かうと、先ほどは気づかなかったが、水を張った田から蛙の声が盛んに聞こえ、田の50メートル向こうの民家のオレンジ色の灯りが田の水に反射している。それがとても味わい深く、写真を撮ろうかと一瞬思ったが、撮っても満月の今夜は載せるにふさわしくない。その暗がりの中に灯りをこぼす家の上に満月が出るのであれば文句なしだが、方角が違って水田に満月は反射しない。ところがそこから10歩ほど進むと、街灯が田に写って満月のように見えた。正確に言えば楕円形で、満月と言うには少し苦しいが、写真を加工すれば満月らしくなるかもしれない。そう思いながら、その写真も撮らなかった。満月が昇る方角を見ると、空全体がどんよりと赤っぽく、深夜2時か3時には顔を見せるかといった雰囲気だ。自宅に戻って少し休憩し、食事する前にぶらりと外に出ると、最初に書いたように雲の切れ目から満月が見えた。電線が入り、これぞ月並みそのもののさっぱり面白くない構図となった。だが、満月であることには変わりがない。とにかく今月も目的を果たすことが出来る。その1枚を撮った後、気持ちに余裕が出来て駅前に行った。徒歩で200歩ほど。その途中で振り返って1枚撮った。それが今日の2枚目だ。駅舎の明かりはカメラのせいで強く写り、実際の情緒とかなり違う写真になることは以前から知っている。だが、渡月橋辺りまで行くのはあまりに面倒、それで駅前で茶を濁す。ところが、満月は雲に隠れて全体がぼやけている。雲の流れが早いので、そのうちまたはっきり見えるだろうと待っていると、これがなかなかであった。待てば時間は長い。そこそこのところでシャッターを押した。加工すれば少しは実際に近づく。
●ムーンゴッタ・2012年6月_d0053294_18421948.jpg 先ほどそれらの写真を加工しながら思った。筆者にとっては毎月ほとんど同じ場所から撮っているので、変わり映えのない退屈な写真に思えるが、他の人にはそうでもないかもしれない。以前書いたように、筆者はどの場所でもみな同じ価値がある、あるいはないと思っている。世界遺産の地であればそれだけ大勢の人が各地からやって来て、さぞかし訪れる価値のある場所と思うが、そこに住んでいる者にはさほどの実感がなく、違う土地へ旅をしたいものだ。ないものねだりというか、人間には未知の場所への憧れめいた思いがある。ところが、いざその未知の場所に行ってみると、たいしてよいとも思わない。あるいはよいと思っても、それはせっかくお金と時間を使って訪れたのであるから、半ば以上はそう思いたがっていることによる。そこから筆者が連想したことはたとえば女だ。女はどれも同じではないか。どの女もつまらないというのではない。どんなあばずれであって、どの女も憐れで健気に見える。志賀直哉の時代では裕福な男は妾のひとりふたりを持つことは世間の常識で、『暗夜行路』もそのことが書かれている。時代が変わって、今では妾を持つことの出来る男性が少なくなったかと言えば、案外そうでもなく、これはいつの時代でも大差ないはずだ。妾という形ではなく、援助交際というもっとドライでインスタントなものに変わり、また女性も男性と同様に行動的になって、自らセックスだけが目的の友だちを持とうとする。こういう世の中になると、『暗夜行路』の妾として登場するお栄のような女性はまだしも、そのお栄の苦境を身内のことと思って助ける時任健作のような人物はいない。妾は日陰者だが、お栄は人間らしく扱われ、幸福と言える。今でもそのような人生を送る女性はいるだろうが、あらゆる権利が男性と平等になって、かえって女性が生きて行くのは大変な時代になったところもあるのではないか。それが、たとえば援交したり、セフレ(セックス・フレンド)を求めることにもつながっている気がする。女性にも性欲があるからだが、昔はその性欲は、妻になるのでなければ妾として囲われて特定の男性によって満たされていたのが、今では結婚難ともなって、性欲を金に変えるか、あるいは金とは無関係に片っ端から後腐れのないその場限りの性行為で満たすことになった。男女平等のそういう行き着く果ては予想されたことだ。そして、女は自分の価値が若い頃が価値の頂点で、以降は下降線をたどることを知っているから、男とは違う悲哀さを持っている。『エヴゲーニイ・オネーギン』のタチアーナではないが、売れ残らない間に誰とでもいいので結婚するのが幸福への近道だ。ところが、その結婚相手の男性が、よほどの能力を持っていない限り、ろくに稼げない世の中だ。そこで妻も働くことになる。そうなれば子育ての問題も出て来るし、また夫婦の間も擦れ違いが生まれる可能性が高まる。そんな現状を知っていることもあって、女は結婚に躊躇し、そうこうしている間に30を越え、理想の相手とはますます出会えない。今は女にとっては生きにくい時代に思う。
●ムーンゴッタ・2012年6月_d0053294_18423724.jpg

 昼にたまたま読んだが、ネット・コラムに女は夢を持つ男を好きになるというのがあった。書いているのは、そういう男と出会ったことのある女性だろう。小学校の文集で必ず将来の夢を書かされる。その統計を取って、今は子どもの夢が小さくなったと言われて来てから久しい。昔は社長とか総理大臣が子どもの夢であったろう。その後は野球かサッカーの選手だ。今は男子は普通のサラリーマン、女子はパン屋といったところではないだろうか。それだけ普通に生きることが難しくなっていると見える。そこで20代の未婚男性が女性を口説く時に、「おれには大きな夢がある」とでも言えば、普通の女ならうっとりもするかもしれない。だが、女は用心すべしで、男は口ではいいことを平気で言う。大きな夢を持っているのは本当でも、それに向かって努力しているかが問題だ。本音は「夢に向かって努力する夢を持ちたいと思っている」であるのに、ついつい女は「この人は頼り甲斐があるかも」などと騙されてしまう。そう言いながら、筆者もかつては家内にそんなことを言ったかもしれず、家内は今頃になってはたと騙されたことに気づいたか。これがサラリーマンなら退職金を半分もらってさっさと離婚ということになるが、そんな資産のない筆者では、別れたところでどうにもならず、騙されついでにもう少し一緒にいようかという考えかもしれない。それはともかく、若い男性は女性との交際とは無関係に夢を持つべきで、そういう羅針盤がなければ、人生の荒海の中をどっちに流されて行くかわからない。そのうち座礁して終わりというのが関の山だ。どんなことがあっても舵は自分で取り、目指す方向へ船を進めねばならない。そのような意思があっても、まずたいていは途中で難破する。ところが、そういう大人びた思いは若者にはなかなか通じない。知った時にはすでに時は遅かったりするし、また自力でとにかく知らねば、いずれ早々と沈没する。そうはいっても、そういう漂流船にはふさわしい女性の漂流船もあるので、荒海に激しく揉まれ続けながらも、2艘が沿いながら人生航路を進む場合も多い。安泰と思っていた豪華船が呆気なく沈没してしまう世の中であるから、羅針盤を持たないそういう貧者の船もまたそれなりにいいのかもしれない。どっち道人生が荒海であることには変わりはないし、夢としての目的があっても、それがかなえられない間がかえって夢として楽しいと言うことも出来る。
●ムーンゴッタ・2012年6月_d0053294_18425896.jpg なぜこういう話題になっているのか、読者はうすうす気づいているかもしれない。それはオウム真理教で指名手配されていた女性が逮捕されたからだ。彼女は昔の写真とは違ってかなりやつれて逃亡生活の苦労が滲み出ているともっぱらTVでは意見されている。筆者はそう思わない。結婚してほしいと言う男と同禽し、小さな幸を手に入れて、満ち足りていたのではないだろうか。ただ、オウムを信仰しなければ今頃は子どもを2,3人産んでもっと幸福になっていたかもしれず、それを思えば憐れだ。もうひとつ違うことを筆者は思っている。それは息子が明日引越しすることだ。その手配を本人はほとんど親に言わずにひとりでした。ベッドを注文したり、荷物を運んだり、それなりの苦労はあったようだが、全く親がかりに一切ならずに自立すべしというのが筆者の思いであるから、後は息子がどうなろうともういい。深刻な重症のアトピーであるし、また家賃が給料の半分ほど占めて、冗談ではなく、餓死する可能性もあるが、経済観念の欠如を見つめるのはいいことだ。息子が完全に自立すると、今度は筆者と家内が家を売って、息子とは会えない遠くにでも転居しようかと思わないでもない。それを家内は息子を見捨てるのかと責めるが、親の顔を一生見なくてもひとりで生きて行くのが男だ。動物でも、ある年齢が来れば親は子を怒って絶対に近寄らせない。そのことを例に挙げて家内を説得する。筆者は父を知らずに育った。そのため、息子に愛情を感じられないのかもしれないが、そうでもないことは自覚している。というのは、一昨日、息子が出先から雷雨に遭って借りたアパートからこっちへ来れないことを電話して来た時のことだ。最初の言葉が「おとーさん」であった。その言葉を息子から聞くのは何年ぶりだろう。それにまるで小学生の頃と同じ声で、どこかに甘えたい様子があった。その一声を聞いた途端、憐憫の情が沸き立ち、胸にこみ上げるものがあった。筆者から見ればまるで小学生にしか見えないほどの頼りないさで、勇気なく、友人もなく、これからの人生をどう過ごして行くのかと思う。だが、どう生きても人生は短いし、どの人生もある意味では同じだ。先に書いたように、世界に名だたる場所であっても、そこに住めばどうってことはない。人生も同じだ。華々しいように見える他人でも、それにはそれの苦労もある。息子は夢を持たない。そのため、女性には今後も無縁のはずだが、これも前述したように、同じように夢のない女性と事故のように出会っていつか暮らすことになるかもしれない。そのはかない夢を筆者はまだ捨て切れていないが、女性の方がたくましい今、まず息子は相手にされない。それに息子が結婚して子を作れば、それこそもっと貧しい生活に陥って、嫁さんには大迷惑だ。本人はそれを自覚しているだろう。そのため、今後も荒海に揺れる木の葉のような小さな舟として人生を過ごすだろう。息子に言った。「この世でお前のことを心配しているのはおとーさんとおかーさんのふたりだけや。それを忘れたらあかんぞ。本当に何か困ったことがあればいつでも連絡して来い。」 息子の幸運を念じたい。
by uuuzen | 2012-06-04 23:59 | ●新嵐山だより(シリーズ編)
●『京大日食展 コロナ百万度を... >> << ●嵐山駅前の変化、その210(...

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