翻訳の上手下手によっては同じ小説でも印象が違うが、筆者はあまり気にしない。原語を多少は読むことが出来て、翻訳との差がわかるというのが理想だが、ロシア語になるともう全くお手上げだ。

その文字すらどう発音するのかわからない。たとえば今日取り上げる小説も、岩波文庫では『オネーギン』とだけ題されているが、本文では名前の「エヴゲーニイ」はたぶん「エフゲニー」か「エウゲニー」と記されているではないだろうか。その方が正しいと思うが、ロシア語の綴りを見るとその「ヴ」か「フ」に相当する文字は「B」だ。これは英語の「V」か「F」のどちらの発音に近いかはわからない。そういうややこしさもあって、岩波文庫は「オネーギン」とだけ題したのかもしれない。さて、この小説を知ったのは10代半ばだ。小説好きならだいたいそうではないだろうか。だが、プーシキンの代表作であることは知りながら、読まなかった。当時友人は何度かこの小説を話題にした。気にはなりながらも40数年経った。また、この小説をチャイコフスキーがオペラ化し、それをNHK-FMで断片を聴いたことがあるが、その後全貌を知る機会に恵まれなかった。昨日の『暗夜行路』もそうだが、長年気になっている作品に触れることを今年はなるべく積極的に行なおうとしていて、この小説もついに読む気になった。それは右京図書館でこの小説のオペラのDVDを借りたことによる。鑑賞したのは2週間前だ。それからすぐに小説を借りて少しずつ読んだ。中編なので、その気になれば数時間で読み終えられるが、全8章を章ごとに合間を空けて読み進んだ。これはプーシキンがそのように本を書き、また出版もしたので、読み方としては理想的ではないだろうか。各章ごとに単独の本として出版することは、当時珍しかったのかどうか、厚さにすればごく薄い冊子のようになって、すぐに読み終えて物足りなかったのではないだろうか。なぜプーシキンがそのように発行したのかは知らないが、年譜を見るとめまぐるしく各地を移動し、全8章を書き上げ、順に出版するまでに10年費やしている。各章を単独に出版することは、それだけ充分推敲した内容で自信があったからだろう。読み始めて知ったが、この小説は韻文で書かれている。つまり全編が詩の形式だが、各節の長さはまちまちで、しかもたとえば一二三と三節まとめて一節になっていたり、四五六と題しながら、それらの節が空白になっていたりもする。これは物語の筋は簡単に決めても、書き進むことがとても困難であったためであろう。『暗夜行路』はそこまで言葉を選んでおらず、すらすら読める。それに対してこの小説が読みづらいかと言えば、韻を踏んだ翻訳ではないので、散文と同じようにあまりつまずくことなく読むことが出来る。ともかく、プーシキンの代表作で、ほかにこれもオペラ化されている『スペードの女王』や、映画化された『大尉の娘』がある。これらも気になりながら読んでいない。
図書館で借りたDVDは2006年にTDKが発売した。2000年のボリショイ劇場での収録だ。本場のロシアでの演奏で、このオペラを楽しむには理想的と思うが、観客の反応は、ごく一部の人だけブラボーの声を上げていて、全体にはかなり冷めているように感じる。それは寒い国であるので当然と思えばいいのだろう。オペラの感想を書くより、原作の小説を読んでからこのカテゴリーに感想を書いた方がいいと判断したが、それはチャイコフスキーが原作から抜粋して作曲したことを知ったからだ。また小説を読んでわかったが、原作にはないものも加えている。それがなかなかよくて、原作とは違う深みの付与に成功している。そのないものとは、第1幕第1場のラーリン家の夫人が歌う内容だ。ラーリン家の夫人ラーリナはロシアの辺境の地主で、ふたりの娘を持っている。彼女は、昔は恋もしたが、今はそんなことは忘れ、平凡に暮らしているといったことを歌う。この言葉はこれから始まるオペラの内容とはとても対照的だ。ラーリナの立場からは、娘たちが熱烈な恋をしても、家庭を持つとやがてそれをすっかり忘れてしまい、またその方が自然で幸福でもあると主張していることになる。このラーリナの思いは、このオペラを鑑賞する人がそれに賛同するかどうか、そのことも暗に問うているところがあり、プーシキンの原作から脚本を書いた人物の考えが強く反映している。また、小説を読み終えてこのオペラに戻ると、この冒頭のラーリナの若い頃の恋の思い出は、プーシキンのそれとは相入れないように思える。というのは、プーシキンはこの小説に描かれる重要な出来事と同じく、ある男と決闘をし、そしてそのために38歳の若さで死んでしまい、ラーリナのように老後を穏やかに過ごすこととは無縁であったからだ。しかもラーリナのような穏やかな老後を拒否していた思いがこの小説には書かれている。つまり、プーシキンはとても激しい性格で、あちこちで上官と対立し、行動を制限されたほどで、平凡な老後を望むような人格ではなかった。そのため、このオペラでのラーリナの若い頃の恋を微笑ましく回顧する場面は、ラーリナの娘タチアーナとオネーギンとの恋は、どっち道いつかはお互いきれいさっぱり忘れるものとして軽視していることとなって、それはプーシキンの思いとはずれがあったのではないかと思わせる。だが、このオペラを楽しむ大多数はラーリナのような考えをいずれ抱くであろうし、若い頃の恋を余裕を持って客観視し、このオペラを単なるひとつの娯楽として楽しむから、やはりラーリナの独り言は小説にはない巧みな設定と言うべきかもしれない。
オネーギンは22歳であったろうか、叔父の遺産である屋敷と土地を手に入れ、そこに移住する。その隣家がラーリン家だ。オネーギンは変わり者で、社交界を退屈なものとみなし、何をしても面白くない。以前父が死んだ時にも遺産が入ったが、あちこちからやって来た債権者らしき人物たちに全部取られても平気で、それほどに人生に執着がない。賢くて、また女性に関心はあるが、これぞといった女に出会ったことはない。ラーリン家の隣に引っ越しても、ラーリン家を含め村人とはつき合わず、変人で通っていた。ところが、一時故郷に戻って来た18歳になるレンスキーという詩人の若者とは馬が合い、レンスキーは頻繁にオネーギンのもとを訪れる。レンスキーの恋人はタチアーナの妹オリガで、ある日レンスキーはオネーギンを誘ってラーリン家に行く。オネーギンはレンスキーから姉妹のどちらがいいかと訊かれ、姉のタチアーナと答える。またタチアーナも一目でオネーギンに恋をし、たちまち熱烈な恋文を徹夜して書く。タチアーナは18歳で小説を好む夢見がちで控え目な性質だ。そういう彼女が都会の洗練された、しかも女性の経験も豊富なオネーギンに魅せられることはよく理解出来る。賢い女性ほどそうだろう。オネーギンはタチアーナの手紙を読み、やがてふたりは戸外で会うが、オネーギンは自分はあたなにふさわしくないといったことを伝え、タチアーナの胸膨らむ思いは無慈悲にも打ち砕かれる。オネーギンにとってはタチアーナは、これといって取り柄のない、平凡な田舎娘に見えたのだ。これもまたよく理解出来る。そのことがあってからもレンスキーはオネーギンと仲がよく、村の有力者の家で開催される舞踏会にオネーギンを誘う。そういう場所は苦手なオネーギンで、退屈を噛みしめる。そして、レンスキーにちょっとばかし復讐してやるつもりで、オリガと一緒に踊る。無邪気なオリガは、タチアーナとレンスキーが驚く中、それに応じるが、一旦踊り終わった後、レンスキーがオリガを誘うと、オリガはまたオネーギンから誘いを受けているのでそれを断る。レンスキーは激怒し、オリガを責めずにオネーギンを恨み、ただちに決闘を申し込む。それを受けたオネーギン、そしてレンスキーはオネーギンの弾で死ぬ。そのことがあってからオネーギンは家を後にして旅に出る。オリガは間もなく別の男と結婚、タチアーナはオネーギンの去った家を何度も訪れ、書斎でオネーギンが読んで書き込みをした本を貪り読み、オネーギンがどういう考えを持った人物であったかを探る。その下りはオペラには描かれないが、タチアーナのまだ冷めぬ恋心を描いて印象深い。やがて年頃になったタチアーナに、モスクワに1,2年行ってみないかと誘う人物があった。ラーリン家は田舎の地主で娘をモスクワで住まわせる余裕がないが、その人は金を貸すと言う。そうしてタチアーナは流行遅れの衣装や家財を詰め込んで馬車でモスクワへと経つ。これもオペラには描かれない。さて、小説では最後の第8章、オペラでもやはり最後の第3幕はモスクワが舞台となる。オネーギンは26歳になっていて、放浪の旅から故国に戻って来てモスクワの舞踏会に顔を覗かせる。昔と同じようにそういう場は退屈で仕方がない。長年の旅もオネーギンの性質を変えなかった。舞踏会に出たのは、主催者の公爵と知己であったからだが、ふと見ると、タチアーナにそっくりな女性がいる。そのことを公爵に言うと、公爵は家内だと返事する。タチアーナはオネーギンを見ても驚かない。見違えるような美人となっていて、オネーギンは一瞬で恋心を抱く。そしてついに恋文を書く。それも何度も。ところが季節が変わっても返事がもらえない。悶々としながら、ある日公爵の屋敷に乗り込み、タチアーナに詰め寄る。タチアーナは昔の自分の方が美しく、また今の生活より田舎暮らしがどれほどよかったかと言い、オネーギンを愛しているとまで言う。だが、自分は嫁いだ身であり、操を守るつもりであり、オネーギンには去ってほしいと言って部屋を去る。
小説の第8章は展開が急転し、またタチアーナの思いが真に迫るように描かれ読み応えがある。タチアーナにすれば初恋のしかも理想の男としてオネーギンは心の中にいたが、その彼がかつて18歳の自分がしたのと同じように恋文をよこすとは、幻滅以外の何物でもないだろう。オネーギンがダンディを自覚するのであれば、タチアーナが別人のように美しく成長していても、そこはぐっと我慢するのが本物だ。タチアーナは「なぜにあたなは、わたしの足もとにひざまずいたりするのでしょう? なんという心のあさいことでしょう。あなたほどの心と知恵をもちながら、つまらぬ思いのとりこになるとは……」(金子幸訳)とオネーギンに向かって言うが、これを聴いたオネーギンの思いはどうであったろう。昔とは形勢が逆転し、タチアーナがオネーギンを諭している。タチアーナはこうも言う。「しあわせは目のまえに、あれほど近くあったのに……。でもわたしの運命はすでにきまりました。わたしはかるはずみだったかもしれません。でも母が、なみだながらに、頼むのですもの。幸うすいターニャにとって、どんなくじでも同じことでした。」 かつてオネーギンに恋文を書いた時、オネーギンがそれに応じていたならば、タチアーナはオネーギンと田舎で暮らしていたはずだが、何事にも満足出来ないオネーギンは、辺境の田舎に理想の女性がいるなどとは思いたくもなかったのであろう。オネーギンに断られたタチアーナは自分を幸のうすい女であることを自覚し、恋心を捨てて、そこそこのいい暮らしが出来るのであれば誰でもよいという道を選んだ。またそうするしかなかった。そこでこのオペラの最初に出て来るタチアーナの母の言葉を思い出すと、それはやがてタチアーナが老いて、揺り椅子に座りながらつぶやく言葉でもあることに気づく。熱烈な恋心を抱いても、それがかなえられず、普通の結婚をして子育てをし、そして老いて行く。それが自然でまた女としては最良の人生だ。オネーギンのような男はいずれ自滅して早死にするのがふさわしい。そうそう、これは昨日読んだ富士正晴の最晩年の本に書いてあった。富士がアガサ・クリスティーの本を読んでの思いだ。アガサは女と男の違いを書いている。もちろんアガサは男のことはわからないから、それはある男性の意見を引用し、それに対比させて自分の思いを女の意見としている。それによると、男は女を見た時、自分と寝ることが出来るかどうかをまず考えるが、女は男の部屋の内部を見たとしても、まずその男と寝ることは思わない。女が考えるのは、その男と暮らせるかどうかだ。ところが男はそこまで考えず、まず寝るかどうかだという。富士が納得しているように筆者もそう思う。つまり、男は女に一目惚れをして寝ることを考えるが、女は冷静で、寝た後のともに暮らして行くことを見据える。となると、タチアーナがオネーギンに一目惚れして手紙を書いたことは、一緒に暮らしたいがゆえで、オネーギンが公爵夫人となったタチアーナに言い寄ったのは、一緒に暮らすことの前にまず寝たいと思ったということになる。そしてタチアーナが妻としての操を守ると言ったことは、アガサの考えの真実性を証明するし、タチアーナに拒否されたオネーギンはごくまともな男として、それからも女漁りはそれなりに続けるだろうと想像させ、やがてはラーリナ夫人と同じような心境に至るかもしれない。
オネーギンは格好いい男であるはずなのに、タチアーナから諭されるところは、まことに格好悪い。その点でオネーギンも凡人かと思わせられもするが、男とはそのように格好悪いのが本性で、筆者はオネーギンの気持ちがわかる。また、それほどにタチアーナがモスクワに出て見事に変身したことは全く納得出来る。女が18歳から22歳までにどのように変身するかは周知のとおりだ。結婚すればなおさらだ。そのため、タチアーナが以前の自分の思いを受け留めてくれなかったとオネーギンに怨み節を言っても、それはオネーギンのせいではない。筆者がこのオペラを見、小説を読みながら思ったのは、タチアーナとオネーギンの立場が逆である場合も多いことだ。たとえば、青年がある女性に憧れて恋文をわたす。ところが女は男が無一物で将来性もないことに軽くあしらう。傷ついた男はその後猛烈に勉強し、有名になる。ある日女はかつて自分に言い寄った男が見違えるように立派になっていることを知る。そしてふたりは出会う。女は昔の自分が浅はかであったことを思い、男に熱い思いを伝える。ところが男は女を見向きもしない。このようなことはよくあるはずで、また男がそのような態度に出ることが男の値打ちというものだが、オネーギンの物語とは違ってそういう設定の物語はあまり歓迎されないだろう。というのは、立派になった男の前に現われた女は、既婚者であれば不倫関係を望んでいることになってふしだらな物語になる。未婚であればただの行き遅れた魅力のない女となってそもそも物語が成立しない。ということは、女は若い頃にさっさと結婚することが幸福であり、またそのことにしか意味がないということだ。つまり、オペラ冒頭のラーリナ夫人の独り言は真実そのもので、それをつけ加えたことがオペラの完成度を高めている。オペラについてもう少し書いておくと、タチアーナの恋文を書く場面の歌はとても長く印象的で、チャイコフスキーは最初にこの部分を書いた。そしてチャイコフスキーはオネーギンがタチアーナの思いを拒絶したことを怒っていたというが、後にある女性からタチアーナと同じように熱い思いの手紙をもらい、それに応じて結婚した。ところが、現実は理想とは違って、間もなく離婚する。次にプーシキンのことを少し書いておく。妻は絵で見るととても美人だ。それもあってか、ある士官との間柄が社交界で評判の噂となる。その士官は妻の姉と結婚するが、それからはさらに妻に露骨に言い寄り、プーシキンは士官の養父に侮辱的な手紙を書く。そして養父から決闘を申し込まれる。妻を寝取られて黙っている男はいないから、プーシキンの行動は正しかったが、決闘で負けて死ぬところに、オネーギンではなく、レンスキーに自分の人生を重ねていたところがありそうだ。それを言えば、小説のどの登場人物も大なり小なり作者の分身だ。プーシキンはオネーギンのように遺産で暮らす人物ではなかったが、貴族の出であった。また農奴解放を目指す革命主義に染まり、行動を監視されるなど、いろいろ制限を受けた。これはなかなか格好よく、決闘が原因での早死には惜しい。