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●「DER FREISCHÜTZ」
業の中でも図画工作や音楽鑑賞は特に好きであった。音楽室にはバッハやベートーヴェンの色刷りの肖像画が貼り並べられ、たいていの子どもはそれにいかめしい権威を感じて、全く興味を抱かないままに卒業したであろう。



●「DER FREISCHÜTZ」_d0053294_116118.jpgその一方で、音楽には世界共通で崇められる大家たちが作曲したクラシックというものがあるといった、一種の教条主義を無意識のうちに教え込まれることになった。それこそが教育の最大の目的でもあって、その教えが正しいのかどうかを判断出来る前にとにかく意識を一定の方向に決定づけてしまう。たとえばの話、愛国心というのがある。他国が攻め込んで来ればそれに対抗するのがあたりまえで、愛国心は子どもの時に植え込まれる。ところが、その美名のもと、自国の勢力拡張のために他国へ侵略した場合はどうか。国際的に非難されるそうした行為も、子どもであればごく単純に愛国ゆえに正義と確信する。それはいつの時代、どの国でも起こり得ることであり、今この瞬間でもそうだ。教育の恐ろしさがそこにあるし、教育で世の中が好転すると思っている向きには疑問を呈したい。と言いながら、筆者もまた学校教育によって育ったから、無意識のうちに、言い換えれば無批判のまま教え込まれたことを信じて疑わないことも多々あるかもしれない。それはともかく、音楽室に肖像画が並んでいたバッハやベートーベン、ブラームスの3Bを本当に優れた音楽であると感心出来るようになるのは、小学校の音楽鑑賞の授業だけでは全く役には立たないが、大人になってそういう音楽に関心を抱くことになるきっかけにはなる。それが1000人にひとり以下の少なさであっても意味があるかどうかは、人によって考えが異なるが、筆者のように疑り深さから関心を抱く者を生むことからすれば、教育にはやはり意味がある。筆者が小学校に通わねば、音楽室の大作曲家の肖像画を今もぼんやり思い出し、その音楽に分け入りたいと思ったかどうかは疑問だ。もっとも、家で鳴るラジオからでもクラシック音楽に触れることは出来たが、大作曲家の顔をずらりと横並びで仰ぎ見るという経験は、厳かな絶対的権威というものがこの世に存在することを知るには最適で、現在の小学校の音楽室に同様の絵が飾られているのかどうか興味のあるところだ。もしそれらがないとすれば、いつの間にか小学校の音楽教育が変わったことになり、子どもたちは大人になって3Bの音楽を聴いてみようという気になる可能性は昔より減少したことになりはしまいか。それでも全然かまわないと先生や親たちは考えているのかどうか。ムーギョへの途上、昔からあるスナックが、つい最近壁に「1000円で唄い放題」の手書きポスターを貼った。1000円くれても他人の下手な歌を聴きたくないが、その店で歌う人々の全部が西洋のクラシック音楽に無縁かと言えばそれはわからないから、色眼鏡で見るのはよくないが、義務教育で大作曲家を教えても、それはほとんどの子どもにとって無駄話だ。
 今日取り上げるのはウェーバーの『魔弾の射手』だ。これは小学校の5年か6年生の時に音楽鑑賞で聴いた。もちろん「狩人の合唱」のみで、一度聴いただけで印象に残るその名曲を含むこのオペラは、その時以来筆者の思いの底に沈みながら、いつか全貌を知りたいと思い続けさせた。そして半世紀経ってようやくその機会が訪れた。それはまさに教育の賜物と言えるが、子どもに対してかなり大人びたものをあえて示すことの大切さを思う。「狩人の合唱」はTVコマーシャルに使われたことがある。サントリーのウィスキーだ。筆者が20代か30代の昔だ。それでもなお、筆者はこのオペラのレコードを買わなかったのは、以前に書いたようにオペラは音楽のみでは半分しか楽しめないという思いがあったためだ。先月も先々月もこのカテゴリーはオペラを取り上げ、その時にも書いたように、ここ2,3か月は右京図書館にオペラのDVDが多少あることに気づき、毎回1作品は借りている。『魔弾の射手』は2か月前か6週間前に借りた。それを今頃取り上げるのは、見た時に決めたからだ。それほどに面白く、またその後ずっと「狩人の合唱」は頭で響きわたっている。筆者が借りたDVDはハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で、TVスタジオのセットで録画された。また画面の色合いが今で言うデジタル処理によったもののように、独特の風合いで、これが実によい。けばけばしくなく、ブリューゲルの絵画がそのまま動くような、いかにもドイツの田舎を見る雰囲気がある。アマゾンで調べると1万円近くしているが、もっと安価であればぜひ買いたい。また、CDを現在探しているところだが、DVDの音源とあまりに開きがあればいやだなと思っている。このDVDの音源はどちらかと言うと、室内楽曲的な小規模の音で、その素朴な雰囲気が映像ととてもよく似合っていた。だが、レコードやCDでは大きなホールで轟くような大音量で演奏したものを収録するのではないだろうか。そうした音はワグナーの好むところであって、このオペラがワグナーの楽劇にドイツ・オペラなるものをバトンタッチしたことからすれば、実際は正しい演奏なのだろうが、学校教育と同じで、最初に感動した経験は大きい。筆者にとってこのオペラのそれは、ハンブルク・フィルハーモニーの演奏になるこのDVDであって、それを基準にほかの演奏を聴いてしまうのはやむを得ないところがある。DVDのジャケットは実際の映像とは違って白黒写真を使い、しかも目立たないデザインであるので、図書館で見つけた時は内容をあまり期待しなかったが、予想外に面白く、現在のところはもうほかの演奏は見なくていいと思っている。
 ウェーバーの作品で最も有名なのは『舞踏への勧誘』であろう。これも小学校で聴いた。もちろんウェーバーの面長でもみ上げの長い顔の肖像画も並んでいた。だが、モーツァルト的な優雅な同曲よりも、『魔弾の射手』は題名からして男っぽくてよい。この「魔」というのが何ともドイツ的で、モーツァルトの『魔笛』やシューベルトの「魔王」にも含まれる。そうしたことを子どもながらに感じていたが、このオペラのDVDを見て最初に紹介される言葉が、「ロマンティッシュ・オペラ」という副題で、その「ロマンティック」はドイツ・ロマン派のそれを言っているのはわかるとして、その一方で「魔」がそのドイツ・ロマンにはあるのだなという思いにもさせる。となると、ロマンティックとは何かということになるが、ロマンスという言葉は女が好む恋愛といった甘い情感という思いが一般化しているから、『魔弾の射手』もそういったドラマを描いたものかと思われがちだが、よくぞ「魔弾」という言葉を邦題に用いたもので、男女の恋愛はあるにはあるが、それよりも悪魔へ魂を売りわたすといった、ゲーテの『ファウスト』で馴染みの話が中心になっていて、「ロマンティック」とはそういう現実には存在しない、人間の思いの中に潜む悪魔と、それに打ち克つ意思との葛藤かと思い至る。ここで話が少し脱線する。昨日だったか、吉田秀和が100歳近くで亡くなった。80年代、氏が毎日曜日の朝、NHK-FMで1時間、モーツァルトの曲を若い時代から順に取り上げる番組を全部録音した。4分の1ほどは氏の語りで、その中でモーツァルトがウェーバー一家と仲がよく、娘の姉妹のうち姉に恋したものの、結婚したのは妹のコンスタンツェであるといった話も語られた。だが、そのウェーバー一家は『魔弾の射手』を作曲したカルル・マリア・フォン・ウェーバーの父の兄のそれで、カルル・マリア・フォン・ウェーバーはモーツァルトが亡くなる少し前に生まれている。つまり、カルル・マリア・フォン・ウェーバーはモーツァルトの業績を継ぎながら、真にドイツ的なオペラを書いた。その代表作が『魔弾の射手』で、これをワグナーは大絶賛し、楽劇を作曲したが、ドイツ・ロマンのオペラの伝統は、たとえばシュトックハウゼンの『光』にもつながっている。そのため、『魔弾の射手』の重要性は今さら言うまでもないが、実際全曲を通して聴いてみると、まず最初の序曲からして驚かされる。筆者はベートーヴェンの先駆を思ったが、聴き直すとワグナーやブルックナーに直結している気がした。どっちにしてもいかにもドイツ的で、この序曲は特にドイツの深い森の情景を想像させる。そしてそれが聴いていて実に心が落ち着く。これこそがドイツ・ロマンかといった思いで、それはこのオペラの物語を知るに及んでますます実感出来る。また、このDVDでは、序曲が鳴る間、紙で作られた小さな紙芝居のような舞台に、同じく紙で作られた登場人物たちが次々に現われる。それはごく簡単にオペラの内容を描いたもので、その画面が固定した紙芝居的舞台がまた200年前のもののように見えて面白い。だが、あまりにその映像に引きつけられて、肝心の音楽に聴き耳を立てることを忘れやすい。
 「魔弾」とは、猟師の持つ鉄砲に込める弾で、悪魔が出現する深い森の谷に夜赴いて弾を鋳造すると、7発のうち6発は鋳た者の思いどおりに命中するが、最後の1発は悪魔が決める。悪魔とそうした契約をしてまでも、弾を命中させたかった男が主人公の漁師のマックスだ。彼には恋人のアガーテがいる。その父は森林を保護する役人のクーノで、マックスをいずれは娘の夫にと思っているが、それにはマックスが侯爵が命じている射撃試験に合格して、クーノと同じ森林保安官になる資格を得る必要がある。ところが、マックスは最近不調で、さっぱり獲物に命中せず、自信を喪失している。そこにつけ入るのが、悪魔ザミエルから「魔弾」をもらっているカスパールだ。このDVDではそれをどこかザッパのような風貌の男が演じるのが面白い。カスパールにそそのかされながらマックスは迷うが、カスパールは自分の銃をマックスに握らせ、空高く飛ぶ鷲を撃たせる。絶対に命中するはずがないと思っていたマックスだが、鷲は目の前に墜ちて来る。そこでいよいよ「魔弾」の威力を知り、射撃試験に合格したいため、カスパールと約束して真夜中の森に行くことにする。ここまでが第1幕だ。第2幕では悪魔がよく出て来る。これは実際の舞台では普通の人間と同じように姿を見せるしかないが、このDVDでは二重写しの特殊撮影をして、いかにも亡霊のように描く。また、この第2幕を見ながらやや納得行かないのは、悪魔が心底悪魔ではなく、カスパールの言うとおりにはならないことだ。この物語は本来は悲劇で、それをハピー・エンドにしてオペラ化すればと提案した人物が脚本を書いた。そして、そのハピー・エンドであることが人気を博した理由でもあると思うが、そうでない不幸な結末とは、悪魔と契約したマックスが最後は死ぬか、あるいはアガーテがマックスの撃った弾で死ぬのだろう。おそらく後者と思うが、第2幕ではカスパールがマックスを連れて来たことを悪魔に言いながら、マックスが造る7つの「魔弾」のうち、最後の弾はアガーテに命中させてほしいと懇願する。ところが悪魔はそれにはうんと言わず、カスパールかマックスのどちらかを殺すと応える。第2幕の深い森の谷はスタジオのセットながらよく出来ていて、青い空には大きな月が浮かんでいる。また、谷にかかる橋には蔦は蜘蛛の巣がかかり、マックスの母親の亡霊がマックスを助けるために姿を見せるなど、「ファントム」の要素がふんだんにある。これはイタリアのオペラにはない特徴で、そのいかにもドイツ的なところが人気の理由であったに違いない。それと、マックスやアガーテなど、ごく普通の人が主人公になっているのがいい。村人がたくさん登場し、独特の風習の仕草、あるいは舞踊など、レコードの音のみ聴いていたのでは絶対にわからない所作がまた古きドイツの生活を偲ばせるが、200年ほど前にこのオペラが空前のヒットを放ったのはそういう理由によるだろう。オペラと言えば上流階級のもので、王宮がよく描かれるが、これは庶民の身丈に合った物語で、それも新しいオペラとして歓迎された理由であろう。ただし、支配者が全く登場しないかと言えばそうではない。森林保安官は侯爵が任命するし、射撃試験も侯爵が見守る中で行なわれる。
 第3幕は射撃試験の朝だ。「狩人の合唱」はその試験の直前に村人によって歌われる。この名曲は狩りの楽しさを歌う。それを聴いて農耕民族は何とも残酷と思うかもしれない。だが、狩猟生活を何万年も続けて来た森のあるヨーロッパの国々では、鉄砲は理想の生活必需品で、その腕前は生活を大きく左右するものであった。そういうことを再認識させてくれるのがこのオペラで、「魔弾」をほしがる思いも痛切なものとして理解出来る。とはいえ、第2幕で本物らしい鷲がドサッとマックスのすぐそばに墜ちて来る場面は、欠かせない小道具とはいえ、残酷な気がする。射撃試験の場面ではマックスは思いどおりに弾を命中させるが、侯爵は次に鳩を撃てと命ずる。アガーテはマックスがカスパールと「魔弾」の話をした時から自宅にかけてある先祖の絵の額が壁から外れたりするなど、胸騒ぎを覚えているが、そういうところも悪魔の登場と相まって「ロマンティック」な部分だ。このアガーテの胸騒ぎは、侯爵が撃てと命じた鳩にもつながっている。マックスが撃とうとした瞬間、その鳩は自分であるとアガーテは姿を見せるが、マックスは弾を放った後であった。ところが、倒れたのはカスパールであった。アガーテのそばには隠者が立っていて、その威力によって、あるいは悪魔ザミエルは最初からカスパールを殺すつもりであったのか、ともかくアガーテは気絶しただけであった。息絶える前にカスパールは呪の言葉を吐き、それによって侯爵はマックスが「魔弾」を使ったことを知る。そして領地から追放を命ずるが、隠者がそれを取り持ち、「一度だけの過ちですべてを取り上げてはならない」と発言する。これに侯爵も同意し、1年の間、今までどおりのマックスであればアガーテと結婚してよいと許可を出す。この隠者の存在が唐突な気がするが、悪魔が登場するからには神の僕も出なくてはならない。そしてもちろん悪魔に勝利せねばならない。また、侯爵が鷹揚であることを描いているところに、まだ前近代的な封建社会を見るが、ワグナーも王侯の援助があって楽劇を書くことが出来たから、『魔弾の射手』の結末は致し方のないところであった。この結末を見ながら思ったのは、領主が持っていた処女権だ。領主は自分の領土内の処女と最初に性交する権利を有していたとされるが、ウェーバーの時代のドイツにはなかったとしても、マックスが森林保安官にならねば森林保安官の娘と結婚させないというのは、恋愛の自由の束縛で、いかに領主の力が大きかったかを思い知らせる。だが、その風習をなくそうというのが隠者や人々の考えで、このオペラ以降、そうしたことはなくなって行ったのであろう。ワグナーの楽劇は少々重いし、モーツァルトのオペラは王宮色がまだ強いと思う向きには、このオペラはドイツ色がよくわかり、必見のものと思える。
by uuuzen | 2012-05-31 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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