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●金閣寺、その1
やかな5月も蒸し暑さが勝って来た。今日は入道雲が桂駅のホームから青い空を背景に大きく見えた。電車はすでにクーラーを入れている。



だが、関西の今年の夏の電力不足を思って、阪急嵐山駅の小さな待合室は電気が消されて真っ暗なうえに扉が全開にされ、クーラーは切られている。あの暗さでは誰も使うなということだ。今年は例年並みの暑さというから、どれほどたくさんの冷たいものを食べることになるやら。さて、5月も残すところ数日だ。何を書こうかと思いながら、4月7日に金閣寺で撮った写真がMOに保存したままであることが気になる。そろそろ2か月経つので、没にすべきかもしれないが、たくさん撮って加工済みだ。全部ではなくても多少は使いたい。とはいえ金閣寺に関して特に書きたいことはない。さてどうしたものか。こうして書き始めているので、どこに思いが進むのか、それを見届けよう。金閣寺の写真は本日を含めて全3回を予定している。あるいは4回になるかもしれない。金閣寺は京都観光の代表地で、世界中から見にやって来る。それを思えば、京都市内に住む筆者が金閣寺の写真を載せることは、筆者にとっては新鮮ではなくても、このブログを見る人には旅先で撮ったものに感じられるだろう。ところで、昨日はひとりで奈良の国立博物館に行き、今日はやはりひとりで京都国立博物館に行った。この2日はちょっとした小旅行気分に浸れた。天気がよかったからよかった。奈良には金曜日に行くつもりであったのが、小雨で断念した。奈良にはいつも家内と行く。では、ひとりであったことがいつもとは違ってさびしかったかと言えば、かえって気楽であった。それを実感したので、家内と出かけることはそれなりに気を使っているのかなと思ってみた。そのとおりで、夫婦であっても気を使うことを改めて認識した。ひとりで気楽というのは、好きなように時間をつぶすことが出来るからだ。筆者はもともとそういうように過ごすことが好きで、強いられることを好まない。だが、ひとりでの奈良行きは、展覧会をひとつこなすのみではさすがに億劫だ。それで別の用事を作った。ここ2週間ほどに決めたことで、そっちの目的の方が大きかった。それは大阪の天神橋筋商店街の三丁目にある古本屋に行くことで、その店があることを2週間前に知った。来店の際には予め電話がほしいと言われたが、ネットで調べると充分開店中の時間帯に行くことが出来る。それで奈良からの帰りに立ち寄ることにした。だが、15分ほど商店街を南北にうろうろと、記憶したはず場所がわからなくなった。それで、別の古書店に入って訊いた。おばさんふたりが簡素なレジの机にいて、親切にも近くの古書店の場所を明記した小さな地図をくれた。それで迷わずに向かうことが出来た。目指す古書店に着くと、やはり初めて見る店だ。そんな横丁の古ぼけたビルの2階に古書店があることを今まで知らなかった。
●金閣寺、その1_d0053294_1412839.jpg
 階段を上がるとすぐ右手がその店だ。残念ながら中は暗く、閉まっていた。階段を下りて店の前で10分ほど待った。臨時休業かもしれない。前もって連絡しておくべきであった。店主不在のために予定がひとつ徒労に終わった。そのままスーパー玉出で買い物をして帰ってもよかったが、もう少し待つことにして、先ほど地図をくれた店に戻った。そして店主不在を伝えた。小さな店でひとりで経営しているのでそういうこともあるだろうとの返事。付近には数件の古書店があって、協力し合っているようだ。好ましい姿だ。ともかくその店にしばらくいようと決めて棚をざっと見ることにした。興味をそそる本がない。ところが、うすいパンフレットの箱を探っていると珍しいものに出会った。その本は京都総合資料館で見たことがあるが、そのほかでは初めて見る。200円と格安だ。それを手に取りながらさらに探すと、また面白い本を見つけた。それも200円。その2冊でいいかと思っていると、5,6年前に東京と大阪で開催された中国国宝展の図録があった。ほぼ新品。300円。通常1000円はする。中をぱらぱらと見ると、興味深い図版が1点載っている。これも買いだ。この展覧会は家内と見たが、展示内容をほとんど忘れている。図録は重いのでなるべく買わないようにしているが、安ければ話は別だ。古書店の話になったのでついでに書いておく。昨日は奈良で展覧会を見た後、いつものように近鉄奈良駅近くの商店街にある古書店に立ち寄った。ろくな本がないことはよく知っているが、帰り道なので立ち寄る。またその店の界隈の雰囲気が好きなのだ。相変わらずつまらぬ本ばかりだと思っていると、厚さ2センチほどのハードカヴァーでポーランドの工芸品を全ページカラーで印刷した珍しい本を見つけた。大半は色紙を左右対称に切った飾りもので、これが素朴ながら鮮やかで楽しい。525円。これは安い。買おうかと思ったが、重い。これから大阪に出て古書店に行く予定がある。そこで何冊買うかわからない。それに他店で買った本を持っていると何となく気が悪い。次に奈良に行くのは数か月先になる。その時は売れてしまっているはずで、それを思うと買うべきであったが、ポーランドのイメージに似つかわしくないほどのカラフルさで、メキシコあたりの工芸を見ている気分になった。それがどうも気に食わなかった理由でもある。ポーランドで印刷された本で、おそらくアマゾンでも買えない。そんなに珍しい、そしてポーランドの民芸を紹介する本となれば、5000円でも安いかもしれない。こうして書きながら、やはり買っておけばよかったかと思わないでもないが、昨日は最後に阪急電車に乗る前に、両手合わせて10キロ以上の重さの荷物となった。とても奈良でその民芸本を買う気持ちの余裕がなかった。
●金閣寺、その1_d0053294_1414811.jpg
 予定外の安い古本を3冊買ったのは儲けものであった。そのようにして本は増えて行くが、買う前にぱらぱらページを繰る程度で、買った後はそれ以上には見ないことが多い。その店を後にして、次に天牛書店に行った。ここはいつも立ち寄る。品揃えは多いがほとんど買わない。たまにとても安価な値札がついていることがあり、持っているにもかかわらず買うことがある。家に帰って自分の持っている本と比べてどちらが状態がいいかを調べると、筆者が昔新品で買ったものの方がはるかに古ぼけている。それだけ使い込んでいるからだ。それでその古い方を処分して状態のよい方を手元に残すかと言えば、そうはしない。古いものを手元に置く方が落ち着く。そして新しく買った古書をネット・オークションに出すと、たいていは筆者が買った古書価格の倍以上になる。儲けるのが目的で買ったのかと言えばそうではない。愛着のある本で、誰かに買わせたくない。買うのは筆者で、それを顔は知らないがどこに住んでいるかはわかる相手に譲りたい。つまり、探している人の手にわたるべきと考えている。とはいえ、そんな面倒なことをするのは年に1回もない。古書店は充分調査をして、しかるべき値札をつけているはずだが、案外そうでもない。先に書いたように1冊200円のとても珍しい本があったりする。帰宅してその2冊をネットの「日本の古本屋」で調べると、1冊は在庫なし、1冊は2000円ほどの価格で在庫は1冊のみであった。筆者がネットに出せば同じような価格になるのは間違いないが、1冊しか持っていないので出さない。天牛はそのような珍しい、しかもページ数の少ない本はあまり置いていない。古書店は住み分けていて、それぞれ専門分野が違う。おばさんふたりがレジにいた店は、数店が共同で経営していて、その分品揃えは雑多で、何が出て来るかわからない。そう言えば昨日驚いたのは、昭和30年代前半の大量のべったんで、3枚100円で売っていた。べったんは関東で言うめんこだ。筆者は郷土玩具には関心があるが、そういう駄菓子屋で売られていた子どもの玩具には関心がない。天牛で美術書の棚でくまなく見た後、また目的であった最初の店に行った。やはり店主はいない。また10分ほど店の前で待った。店主には会ったことはないが、やって来ればわかる。筆者の目の前でビルの階段を上がるし、また感じで古書店の主というものはわかる。結局店の中を見ることが出来なかった。その後スーパー玉出で重い買い物をし、そのうえ王将の餃子では、生ギョーザ・セールをやっていたので列に加わって7人前買った。毎月第2、4日曜日、つまり今日は西院の四条中学前にある王将の餃子では同じセールをやっていたが、嵐山からそこまで買いに行くのが一苦労だ。自転車で往復1時間、電車を使っても西院から片道10分は歩かねばならない。それで昨日買っておこうと考えた。どうでもいい話だが、そうした買い物だけで10キロになるかと言えば、いつもの重いデジカメのほか、ハードカヴァーの分厚い小説を奈良までの往復の電車内で読もうと思って手提げ袋の中に入れた。せっかく持って行くのであるから、往復でたっぷり読んだ。それはいいが、本文は3段組みの細かい活字、読むのはさすがに目が疲れる。それでも阪急、近鉄電車それぞれに乗っている間に、区切りのよいところまで読み終えた。小説を読むのは久しぶりだ。この感想は後日書く。
●金閣寺、その1_d0053294_142564.jpg
 金閣寺について何も書いていない。そうそう三島の小説に『金閣寺』があるが、読んでいない。あまり読みたいと思わないからだが、三島の作品でいつか読もうと思いながらその機会がないものがある。最後の4部作となった『豊饒の海』だ。この本はもう30年ほど前に買ったと思う。だいたい内容は知っているが、つい先日そのことをふと思った。人間は生まれ変わるかということを考えた時だ。正確に言えば、筆者はそんなことはまず考えない。今度生まれ変わった時には、あるいは前世はといった話は一番苦手だ。たとえ生まれ変わるとしても、前生をきれいさっぱりに忘れているのであれば、生まれ変わらないのと同じではないか。したがって、輪廻転生はどうでもよい。そう言いながら、ある人間が年月を経て著しく変貌してしまうことがあることには興味がないでもない。毎日少しずつの変化を誰しもしているから、そのうちすっかり変わってしまうのは誰しもだが、その変わり様は人によって大差がある。その著しく変わってしまった姿と、子どもの頃、青春の頃など、いくつかの別の時期の姿を取り揃えるとして、それら全部が同じ人物であるとすれば、人は生きながら輪廻転生をしていることになる。そのすっかり違ってしまうことを無慈悲で残酷と捉えるか、ごく自然と捉えるかは、人によっても、また同じ人であっても時と場合で異なる。だが、よほど注意し続けない限り、大半の人々は無慈悲で残酷と思えるほどに姿形が著しく変わって行く。三島はそんなことにあまり耐えられなかったのではないだろうか。長生きすることにどれほどの意味があるのかを常に考え続け、自分の生を理想とする形に作り上げて、潔く生を断つことを望んだ。三島ならばもっと老いても同じように意思が強く、いつでも自殺出来たと思うが、姿形の老醜具合に耐えられなかったのだろう。そして、人間は生きながらにして輪廻転生するということを思っていたはずだが、若さから老いへと不可逆的に誰しも進むことに我慢がならず、老いの一歩手前で永遠の若さを人々に刻印したかったのだろう。金閣寺はいつ行っても金ピカだ。これは日本の寺では例外的なことだ。金閣寺は常に若さの輝きのままたたずんでいる。いつ行っても同じ姿でそこにあることは、ヨーロッパの寺院と同じように、人々にある種の落ち着きを与える。だが、見方を変えれば残酷でもある。自分はすぐに20年や30年の時を過ごし、以前とは著しく異なる風貌をまとう。金閣寺はそのままだ。金箔に剥がれや汚れが目立つと、すぐに元の金ピカに修復される。それは輪廻転生からはほとんど免れた、あるいは完全な輪廻の姿だ。このことは安らぎをもたらす一方で妬みの情を起こさないか。三島が『金閣寺』に書いた、若い僧が金閣寺に火を放つことになったことの理由は、それに似たものではなかったか。
●金閣寺、その1_d0053294_1422137.jpg

by uuuzen | 2012-05-27 23:59 | ●新・嵐山だより
●『愛の選択~産婦人科の女医』 >> << ●金閣寺、その2

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