裸の島といえばヌーディスト専用の島かと思ってしまうが、この1960年に公開された日本映画は、人間が生きる姿の赤裸々さを描くという意味で「裸」と題したのだろう。
また、これは映画の内容とは関係のないことかもしれないが、新藤兼人監督が自ら設立した近代映画協会が資金難のために解散寸前となり、その最後に記念として低予算で撮ったことにも大いに関係あるだろう。つまり、大手の映画会社から独立したプロダクションを10年ほどに作ったはいいが、その夢も破れかけ、この映画を撮った後、また裸一貫で出直そうという思いもあったのではないか。だが、その最後の賭けに監督は勝った。その意味で現在100歳を越える監督の代表作にもなった。先日この映画のDVDを右京図書館で借りて来た。目を引いた理由は、数年前、乙羽信子が主であったか夫の新藤監督を紹介する番組であったか忘れたが、TVで特集を見たことによる。その中でこの映画が紹介されていた。同番組では、乙羽の遺骨がこの映画が舞台になった瀬戸内海に撒かれたことも伝えていた。それほどに乙羽にとっては生涯でも最も忘れ難い作品であったことを知ったので、いつか見たいと思っていた。これは今回知ったが、この映画は映画音楽や登場人物の歌声、叫びはあるが、セリフは一切ない。そこは少々無理をしている場面も多少あるが、言葉を用いないという実験的覚悟は、それはそれで監督の意思として納得出来る。映画はいくらリアリズムを目指しても、「作り事」だ。つまり、技巧が欠かせず、わざとらしさのようなものは観客に伝わる。それを責めるのは映画を含めて作品ということを理解しない素人だ。たとえばの話、このブログも同じだ。筆者は投稿の際に表示されるトラックバック・カテゴリー欄から「小説・詩」を選ぶことが多い。本当は「ブログ」や「その他」がいいが、現実にあったことを歪曲せずに書く日記のような内容であっても、読み手にとっては「読み物」で、それは「小説」と大差ないという思いがあるからだ。それはさておいて、作り事でありながら、それが現実であるかのように思わせるのが、映画監督の腕前だ。そうなるとドキュメンタリー映画の監督はどうなるだろう。ドキュメンタリーは、そこに描かれることが全部事実ということが信じられている。だが、事実とは何か。全部事実ですよと謳いながら、それは監督が考えたひとつの見方だ。拾われなかった、また拾うことが不可能であった部分が必ず存在し、そのことで真実は微妙に歪む。あるいは、監督の思いこそが真実であるとの思い込みが必要で、ドキュメンタリー作品もフィクションの映画と大差ないことになる。実際そうではないか。作品を見る方は、ドキュメンタリーも娯楽映画も、見た時間が惜しくなかったと思わせてもらえるのでなければ、駄作としてすぐに忘れる。フィクションに真実味が宿るのであれば、その反対にドキュメンター映画にもフィクション性が混じるし、またそういう一種の技巧、技術がなければ真実味を獲得出来ない。そのため、ドキュメンタリー映画の方がたちが悪いような気がする。真実を伝えると言っておきながら、嘘の混入が不可避であるからだ。そういう考えをこの『裸の島』は抱かせる。
1960年は半世紀前だ。当時筆者9歳であったので、この映画に流れる空気はよくわかる。だが、日本が世界に冠たる金持ち国になってから生まれた今の若者はそうではない。そのため、ネットに書かれるこの映画についての感想は、世代間の意識の差を如実に示している。いかにも若者が書いたような意見もそれなりに思いはわかるが、そうした意見で残念なのは、作品が時代とともに風化してしまう現実と、作品が言いたい本質を理解しようとする能動性の欠如だ。だが、若者は多忙であるし、つまらないと思った作品をそれ以上に深く考えることはないから、この二番目の能動性は言う方が野暮だ。では、筆者もこの映画に対し、前者の「作品の風化」を感じて、予想したほどには面白くなかったのかと言えばそうではない。この作品がぎりぎりの低予算で作られたことは、観客にとってはわからない裏事情であるし、ひとまずどうでもいい。また、主役の乙羽と、その夫役の殿山泰司のふたりが、近代映画協会所属の仲間で、たくさんの候補の中から選んだのではないため、どう見ても本物の夫婦には見えないという違和感を覚える人は多いのではないか。筆者はまずそう感じた。乙羽は宝塚出身で「100万ドルのえくぼ」ともてはやされた美人、一方の殿山は禿げ頭でひと癖もふた癖もあるような風貌の名脇役だ。映画を最後まで見ても、このふたりがなぜ一緒に暮らして小さな島で畑を苦労して耕すのかという疑問は去らない。その思いはほとんどの若者も抱いているようだ。だが、思い出すことがある。筆者が京都に出て来て数年の頃のことだ。夕食はほとんど毎日勤務先の近くの食堂で済ましたが、ごくたまにすぐ近くにあった中華料理屋にも行った。カウンターだけの小さな店で、夫婦でやっていた。主は40くらいだろうか、両眼の間が狭く、顔の小さな男で、笑顔を見せたことがない。奥さんは30くらいの瘠せ型で、旦那にはもったいない色白の美人であった。その奥さんは中華鍋を操る主人を恐れているようで、やはり笑顔を見せなかった。そういう店にはふさわしくない雰囲気の女性で、薄幸そうな雰囲気がいたたまれなかった。それに、愛想のかけらもなく、威圧するような主人の顔がいやで、行きたくはなかったが、毎日通う食堂が休みの時には仕方がなかった。夏になると、店の4枚ガラスの扉のすぐ下の溝から大量の蚊が発生し、それが店内に飛び回った。それらを叩く、あるいはラーメン鉢の中からすく上げる様子を見ながら、店の夫婦は「すいませんね」の一言も言わなかった。客が小さくなって食べる店が長く続くはずがない。そのうち店はなくなった。あの夫婦ではそれも当然かと思った。それにしても、その夫婦を見ながら思ったのは、世の中には夫には不釣り合いな美人妻があるという事実だ。であるから、この映画の乙羽と殿山の夫婦役は夫婦としてはお互い似合っていないだけに、かえって現実の夫婦らしい。これをたとえば、韓国ドラマによくあるように、いかにもお似合いの男女を夫婦役にすると、嘘っぽい作品になった。「現実は小説より奇なり」と言うように、リアリズムさを発揮したいのであれば、あえて違和感があると思えるような設定が効果を発揮する。
また、乙羽と殿山の夫婦がいつからどういう理由で島に住むようになったかは描かれない。それはまた別の話であり、ここではとにかくふたりが男子ふたりと一緒に島で暮らしながら、過酷な農作業を連日しているというところから物語が始まる。この過去がわからない設定は、一家四人が終始無言であることとうまく釣り合ってもいる。とにかく、「今」を生きており、それでいいではないかという思いだ。もちろんその思いは監督のものであり、また一家のものでもある。そして、観客にもその思いが伝わる。そのように過去を詮索しても始まらないとの思いは、前向きでよいと言えるが、それは語るべき重要な過去を持たない貧しさでもある。この一家の場合にはこの双方が当てはまる。そこでまた1960年という時代だ。東京オリンピックの4年前であり、まだまだ日本は貧しかった。そして、言わずとしれたように、自然は豊かであった。そのふたつがこの映画には見事に描かれている。舞台となった周囲数百メートルの小さな島は今は無人島となって、島全体が樹木に覆われている。この映画が撮影された当時は島の上半分の大半は段々畑で、麦やサツマイモが栽培されていた。ところがそのための水を800メートルほど離れた別の島から手漕ぎの船で運ばねばならない。その作業を日に何度も夫婦は繰り返す。また、島の土地が自分たちのものかと言えばそうではなく、収穫の一部は地主に納めねばならない。そんな貧しい小作農が1960年にいたのかと今は疑う若者が多いだろう。この半世紀で日本は全く別の国になった。誰も手漕ぎの船で桶4杯の水を運ぼうとはしない。そんな労力があれば、もっと手軽に収入を得る道はいくらでもある。それにまず役所が放っておかない。仕事を斡旋するか、公団住宅に住まわせるか、あるいは生活保護費を支給する。だが、1960年はそんな余裕は日本にはなかった。これは前に書いたことがある。1960年頃、筆者の大阪の生家から1キロほど離れた近鉄電車の高架下の道路沿いに小さな小屋が不法占拠していた。前を何度も通りがかったことがあるが、たまに中で暮らす夫婦と男子が見えた。その子は筆者より3、4つ下で、たまに小屋から出て筆者の方をにやにや見た。筆者はその小屋を見るのが辛かった。いつ壊れてもおかしくないほどの小さな、またあまりにひどいボロさで、狭い中で電気もガスも水道もなく、どうやって暮らしているのか不思議でならなかった。そんなことを思いながら3,4年経った頃か、その小屋がなくなった。聞くところによると、公団住宅に空きがあって、そこに入れたとのことだ。どん底の貧しい暮らしをしていると、そのように棚からボタ餅式に家まであてがわれるのだなと子ども心に思う一方で、あのにやにやしていた子が学校にまともに通ってそれなりに友だちが出来るのはいいことだと、ほっとした。だが、案外その子はその後の頑張りで大きな財産を作り、どこかに小さな会社を持っているかもしれない。この想像は荒唐無稽ではない。そのように人の将来はわからないものだ。
それと同じことを思わせられたのが、この『裸の島』に出て来るふたりの男子だ。ごく普通の、どこにでもいるようなくりくり坊主で、兄は発熱してあっけなく死んでしまう。この映画の最大の起伏がそのことだ。水汲みと水やりに夫婦で早朝から夕刻まで島の間を往復する生活の単調さの中で、何かドラマらしい変化を作るには、そのような死が最適だ。また、家族4人が3人になってしまうという過酷な現実は、この家族の不幸さを誇張して、お涙頂戴の非現実的なことかと言えば、やはりそうではない。むしろ、いかにも貧しい家族にはありがちな現実的な出来事に思える。しかも、そういう不幸があっても、夫婦は生活を変えることは出来ない。また淡々と今までの日常を繰り返すだけだ。1960年頃ではそうであった。だが、この家族がその後どうなったかを想像すると、おそらく残された男子が都会に出て、そこそれなりに成功したであろうことだ。この半世紀の日本を見ていると誰しもそう思う。舞台となった島がその後畑が消失し、全部樹木で覆われた現実を見てもそうだ。そういう現実を今の若者は知るから、この映画を見ると非現実に思えてしまう。だが、先に書いたように、それは想像力の欠如であって、作品の意味を理解しない。まず、この映画の舞台の島と、そしてその段々畑に苦労して水をやるという夫婦の姿は、形を変えて今も存在しているし、永遠にこれからも存在する。人間の労働、生活とはそのようなものだ。スーツを着て洒落たオフィスに勤務しても、毎日苦労して仕事することは同じだ。そして、子どもを突如失ってしまう危険は昔も今も変わらない。この映画はモスクワ映画祭でグランプリを獲得し、その後60数か国にフィルムが売れた。それはセリフが皆無であるのでわかりやすかったというよりも、夫婦の姿がどの国のいつの時代にもある人間の本質、つまり裸を描いていたからだ。そのため、この映画を今となっては著しくかけ離れてしまった昔の日本のことと思わない方がよい。かけ離れて異常になったのはこの半世紀の方かもしれず、また数百年後には同じような暮らしが日本に生じていないとも限らない。だが、そうなったとして、その時に日本はこの映画に描かれるような美しい自然を回復しているだろうか。この映画では、乙羽が着ていた藍染の浴衣の模様が大胆で美しく、また水汲みの天秤桶や向いの島の大きな家々など、もはや日本からは消えたものがたくさん映っている。これをわずか半世紀における大進歩と見るか、その反対に破壊と見るかは人によって違う。こんな場面もあった。男の子ふたりは竹の棹で鯛を釣る。これを両親は褒め、家族で桶にその鯛を泳がせて定期船で尾道に向かう。そして料亭などを回ってその魚を売り回り、ようやくのこと買ってもらえる。そのお金で下着などの生活必需品を買い、食道で食べ、ロープウェイに乗って山の上の千光寺に行く。これも鯛一匹で何をおおげさなと思う人があるだろう。だが、その鯛は貧しい一家でもごくたまにはそういう幸運に恵まれるという比喩であり、誰しも思い当たることがあるはずだ。そんなささやかな幸運があった後、原因不明で長男は死ぬ。それもまた現実的で、昔はもっと子どもはよく死んだ。それでもなお家族は生きていかねばならないし、そのためには今までの日常をひとまず続けるしかない。それが大きく変わるのは社会が変化する時だろう。そんな変化は高度成長期となって現われた。そういう時代もまた知る筆者は、この映画は様式が著しい舞台劇のように思え、その個々のエピソードは一連となって人間の普遍的な生を無駄なく描いていることに感心する。また、乙羽と新藤監督の間柄は今では誰でも知るので、そのことがこの映画に及ぼした部分をどう見るかという問題がある。細身の乙羽が天秤棒の両側になみなみと水をたたえ、それをこぼさず島の急斜面を登る様子は、監督との忍ぶ仲を象徴しているようで、そこに監督と乙羽の無言の対話と覚悟が感じられる。そうそう、これはネットに書いてあったが、乙羽は好きでもない男が山ほどくれる砂糖よりも、好きな男がくれる塩の方が甘いと言っていたそうだ。この言葉は乙羽と監督の間をあますところなく表現しているように思える。今はそんな女がいないと思う男は、自分がだらしないことを自覚すればよい。低予算で作品を作ることはどんな作家にも強いられることと言えるが、そのあたりのことをもっと書こうと思いながら、今日はもう長くなった。