奕々たる。これを「えきえきたる」と読むが、この展覧会副題は、七類堂天谿の描く絵の彩りが神のごとく美しいといった意味になる。副題はもうひとつある。「雪舟を超へよ」だ。

七類堂天谿という画家の名前は初めて見る。これをどう読むか。まさか「ななるいどう」ではないはずで、「しちるいどうてんけい」かと係の女性に訊いたところ、そうであった。この展覧会を見たのは金閣寺に行った4月7日で、1か月前のことだ。会期は6月10日までで、1か月ほど残っている。このブログに取り上げるべきか、またどう書くべきかを何度か考え、昨日九鬼隆一の達磨図の水墨画について少し触れたので、その勢いで今日取り上げようと決めた。金閣寺を見てから相国寺境内にある承天閣美術館に行ったから、ちょうどいわば兄弟寺をふたつこなした形だ。会期の初日でもあって、七類堂氏は館内ロビーのソファに座し、図録を購入した人にサインをしていた。長髪で、がっちりした体格だ。筆者は図録を買わなかったので、ごく間近で見ることは出来なかったが、比較的会場は空いていたので、七類堂ら一行は手持ち無沙汰からあちこち移動した。それで二度ほど擦れ違ったが、話しかけようとは思わなかった。ま、そのことで以下に書く内容が想像出来るだろう。七類堂ら一行というのは、側近と言えばいいか、同じく黒のスーツを着た若い男女が3,4名いた。そのうちのひとり、20代後半の女性と、2階にある金閣寺の模型の前で少し話をした。彼らは営業や雑務を担当しているのだろう。渡り廊下には作品が販売されていた。半切の掛軸で、色紙にちょうど収まるほどの大きさの絵が、およそ40万円ほどであった。後述するが、そうした売り絵はパターンがあって、部分や彩色をわずかに変えて量産出来るものだ。だが、それを言えば七類堂の絵は筆法も含めてどれも「型」すなわち様式性が強い。チラシに七類堂氏のプロフィールが載っている。尾道に1961年に生まれた。筆者より10歳下で、どういう時代の空気を吸って青年期を送ったかは想像出来る。次に、大阪芸術大学中に道釈画家の研究を開始したとある。大阪芸大出で有名人は歌手の世良公則がいる。そう言えば七類堂は世良に似た雰囲気がある。筆者が知る範囲では、大阪芸大出は京都市芸卒とは違って、遊び人タイプと言うか、知的さには欠ける。芸術家よりも芸能人に向くとも言える。それは大阪という土地柄もあるのか、派手で目立つ。それが魅力でもあろうが、欠点にもなり得る。プロフィールをさらに続けると、1990年、29歳で第31回日本南画院展に初出品し、以降連続入選とある。94年には同画院の会員に推挙されている。その後は文字が増えてややこしいが、つまるところ、海外で認められたということだ。相国寺との関係としては、4年前に管長の有馬頼底から「天谿」の号を賜下されている。「天谿」は「牧谿」を思わせるが、それほどに頼底からは絶賛されたということだ。今回の展覧会が承天閣美術館全室を使ってのもので、常設されている若冲の障壁画の「葡萄図」床壁上にも作品がかけられたところ、若冲に比すべき才能とも目されていると言える。出品は道釈画、破墨山水画など絵画が70点ほど、楽茶碗などの焼きものが20点で、多彩な才能を見せている。茶碗のヘラ削りはなかなか豪放さがあって、釉薬の施しも面白かった。
「雪舟を超えよ」というのは、有馬頼底の思いだ。それを受けてか、今回は七類堂描く雪舟像も出品された。有名な自画像の模写だが、瞳に光沢があるなど、もっとリアルで生々しい。確かに雪舟の顔だが、役者がそれを演じたような雰囲気がある。今後500年ほど経てばその生さ加減も減ずるのかどうか。予想がつかない。この展覧会で興味深かったのはそのことだ。雪舟、若冲にしても、存命中は作品があまりに生で、毒気のようなものが漂っていたのではないか。そのように想像する一方、確かにそれはあったとしても、それ以上に澄んだ内面性も感じられたはずと思いたくなる。このことは、七類堂の作品に対する評価が難しいことを暗に示すし、また筆者の思いをも表明している。七類堂の作品に頼底師が惚れたのは、昨日書いた院展を初めとした現代の日本画家には失われて久しい水墨の技術を駆使していることと、道釈画という画題だ。今回目立ったのは、若冲と大典和尚との関係のように、七類堂の作に頼底師が着賛したものがとても多かったことだ。これは頼底師が惚れたというレヴェルのことではなく、お墨つきを示す。そういうことは今のところ七類堂以外にはあり得ないのではないか。それもあって今回2か月にわたる個展が開催されることになった。そういう別格扱いの七類堂が、京都でも東京でもなく、尾道で生まれ、同地で描いていることが面白い。日本南画院の会員にはなってはいても、同画院でもきわめて異質な画風ではないだろうか。昨日書いたが、独学で個性豊かな画家でも、有名になる可能性はあるということになる。だが、その有名は今のところ頼底師の絶賛に大きく負っており、それに箔を上重ねするにはもっとメディアに取り上げられる必要もあろう。雪舟を超えるかどうかはさておきて、七類堂の作品を筆者がどう感じたかを以下に書いておこう。
筆者より10歳下の世代には数名よく知る人がある。そうした人たちに共通するのは、おおげさに言えば筆者世代とは考えがそうとう違い、双方の間には断絶が横たわっている。いつの時代でも10年も違えばそうだろう。「近頃の若い連中の考えていることはよくわからん」というやつだ。だが、10歳差であればまだそこまで事態は深刻ではない。七類堂の作品に接して最初に思ったのは漫画だ。筆者より10歳下の時代は、漫画が多様化する一方で様式が類型化していた。ある「型」を学べば、誰でもそこそこ似たものが描けるという、粉本主義と言ってよいものが完成した時期だ。この粉本主義はある文化が爛熟すると、必ず芽生える。雪舟や若冲の時代にももちろんあった。今でこそ雪舟や若冲は個性豊かで、その作品は他の誰も似たものを描かなかったと思われがちだが、他の多くの画家が、同じ画題、同じ構図、同じ紙に墨といったように、似た絵を描いていた。それでも時代を経て、雪舟や若冲が生き残ったのは、裾野が広い山の高い頂が自ずと目立つことと同じで、精神性がひときわ優れていたからであろう。今時筆と墨で道釈画を専門に描く画家は珍しく、その裾野の大きさというものが七類堂にはない。ということは、珍しさによって七類堂は歓迎され、批判が起こりにくい。この珍しさは、掛軸に墨を基調として描くという態度にあって、全く同じ絵をたとえば商品のパッケージや漫画などの商業分野で発表すれば、おそらく注目されないだろう。珍しさは掛軸に仕立てているところにある。また、七類堂にすれば、同時代にライヴァルを必要とせず、もっと視野を広げて雪舟に挑戦という気持ちなのかもしれないが、その私淑性と同時代を生きているライヴァルとは別問題だ。ところが、七類堂は道釈画の古い名画を研究する一方で、それを現代に描いて人々に歓迎してもらうには、斬新さが必要であることは知っている。その参考になるものが漫画やイラスの画風だ。ここでまた思うのは、雪舟や若冲の絵も当時の漫画ないし挿絵のようなものから着想なりを得たかどうかだ。それを考えるためには、現代の漫画と、たとえば「鳥獣戯画」がどう共通性があり、その反対に決定的な差があるかを決める立場が必要だ。そしてそこまで論じるのはこの場では手にあまるので、先に進むとして、七類堂の作品は、よい意味にも悪い意味にも筆者には現代の漫画に見えたことだ。別の言葉で言えば商業性があまりに強いことだ。それをまた別の言葉を使えば、蕪村の絵における軽みといったものとは全く違う、キッチュのうすっぺらさとでも言うべきものだ。また、蕪村のようにさらさらと流れるように描かず、下絵を綿密に作り、充分様式を完成させた後で、精緻かつ豪放な筆致で描くという技巧性が健著だが、それもまたけれん味の演出にこそ効果があるが、何か一途なものを透徹しようといった真実味を伝えない。
口を大きく開けた笑顔の寿老人や仙人といった絵が多い中、その口を松本零士が描く、大きなU字型に開かせたものがあった。これがとても安易な剽窃に見え、漫画家としては一流の才能を発揮出来ないだろうと思った。同じU字口の「型」は数点の絵に使用されていたが、その特徴ある全くの漫画的な誇張した口の開きは、松本零士が最初に描いたのでなくとも、同時期の漫画家の発案で、今では普通名詞化して素人でもそのようによく描く。漫画文化はそのような表情の記号化を進化させた。その影響を強く受けたのが戦後生まれの世代で、しかも筆者より10歳ほど年下と言ってよい。彼らはもはや批判的にそうした漫画の「型」の要素を見つめるのではなく、面白いと思えば無批判に自己の道具として使う。それを無節操と責められないほどに漫画文化が日本全体を覆った。だが、そうした漫画の常套手法に染まらないという意思を持つ画家もまたあるし、筆者はその立場に属したい。七類堂の作品はそのU字口だけではなく、誰しもどこかで見たことがあるいわば月並みな顔、表情をよく描く。あるいは凄味を見せる睨みの顔も多いが、その睨みは鬼気迫り、内部を見透かされると言うにはふさわしくなく、相手にするのが損といった思いを起させるものだ。そうした膠着化した表情は、道釈画という枠組みがあるので仕方のないことでもあるが、漫画から学びながらも漫画とは大きく一線を画する芸術性を獲得することが果たして可能かを考えさせる。あるいは漫画的なところを強く残すことこそが、これからの人には歓迎される絵であるという確信が七類堂にはあるのだろうが、それは彼の絵画観、漫画観を知る以外にわかりようがないところがある。このブログには何度も書いているが、筆者は日本の漫画の絵面の面白さは60年代半ばで終わったと思っている。筆者が週間漫画雑誌を欠かさず購読したのは小学4年から6年生の卒業時までで、それ以降は意識して漫画を遠ざけた。そのため、70年代に大学生が盛んに持ち上げた漫画ブームには無関心であった。そういう筆者であるから、漫画臭の強い絵には拒否反応がある。ただし、これはモノによりけりだ。一昨日は京都駅前の地下街で、とある薬屋の店先に薬ケロリンのマスコットであるケロちゃんとコロちゃんの置物を見た。その造形が見事でしばし頭などをなで回し、実物がほしいと思ったほどだ。その人形は昔のケロちゃんとは違って、明らかに現在の好みに応じてデザインがリメイクされている。そこには漫画、アニメ文化と接した「かわいい」主義を最大限に表現する意図が看取されるが、それと似たものが七類堂の作品に底流している。もちろん「かわいい」だけではない。劇画的な「かっこいい」も含めて、漫画やアニメの紋切り的表現が随所に表われている。そのことは、道釈画の古画や雪舟の破墨山水画に学びつつ、それらを現代に置き変えれば、現代の漫画のどういう部分とつながっているかという見方であって、雪舟も若冲もつまるところ「かっこいい」絵を描いたということで括ることだ。たとえばの話、雪舟の自画像を今の中学生の女子あたりが見て、「このおじさん、ちょっと済ましていけてるじゃん」と誉めるのと同じような態度で七類堂は描いている。そのため、おそらくこれからますます一般的な人気を得るだろう。精神的という言葉はもう死語になってしまったと思える。面白くかっこよければそれでいいという風潮が蔓延している。筆者はそれに同意するが、その面白さの中に漫画の要素はきわめて少ない。日本の漫画はアメリカ映画の影響を強く受けていると思うが、そこからも精神性が日本から遠ざかったと考える。だが、筆者が思い感じるような精神性は古いもので、これからは漫画も飲み込んだ造形こそが真の日本の誇る芸術とみなされるかもしれない。そうなれば七類堂の絵は雪舟を超えるかもしれない。そうそう、「奕々たるその神彩」の形容は当たっていない。色彩的にはさほど豊かでなく、カラリストではない。もうひとつとても気になったのは印章だ。どれも彫りが立派で、また画家の名前と同様、彫られた字数が多く、即座には意味がわからない。これらは中国から下賜されたものが多かったと思う。それらの印章を割合自由な場所に捺していた。これも書き忘れたが、現代の禅僧が江戸時代のそれとどう決定的に違うかも吟味する必要がある。