院展の画家で京都や大阪で活動する者がどれほどいるのだろう。筆者が好きな富田渓仙は京都に住んで院展に出品したが、当時それは例外的なことであった。

そういうこともあって、筆者は院展にはあまり親しみを感じない。というより現在の日本画家全般に関心がない。こう書いてしまえば身も蓋もなく、この展覧会について何を書けばいいのか、はたと指が止まってしまう。否定的なことを基調にしながらいいところも書き添えるか、またその反対のことをするか、同じ言いたいことでも文章の組み立て方によって人に与える印象はかなり違って来るが、いきなり「親しみを感じない」とやれば、それが基調になって、これから書く内容はいいと思えることを連ねることになる。そのいいと思えることを振り返ってみると、今回の展覧会は日本美術院を創設した岡倉天心の紹介を中心とし、昨年の大地震の津波で流された茨城県の五浦海岸にあった天心が建てた木造の六角堂「観瀾亭」の再建プロジェクトの紹介、そして横山大観や菱田春草ら天心と行動をともにした院展最初の画家たちの作品も展示され、全体として見応えがあったことだ。この最後の大観や春草の絵画は大作をまとめて見る機会がよくあるので、今回は小品中心となったが、初めて見る作品もままあった。本展最大の絵画は、メモを取らなかったのでうろ覚えだが、大正半ばに描かれた木村武山の巨大な「須磨御殿彩色杉戸絵」で、これは幅広とやや狭いものを合わせて全部で10面ほどあって、裏表に著色で描かれていた。それほどの大画面であるから、注文したのは茨城出身の実業家で、須磨の屋敷に描かせた。この建物は阪神大震災で被害を受けたが、絵は無事であった。五浦の「観瀾亭」が失われたことに対して災害の被害を免れた経緯を持つこともあって、今回展示されたのだろう。この杉戸絵は現在茨城にあるが、所蔵者が武山の故郷にある方がいいと判断したためだ。それが本展開催のために京都で展示されることになったのは得難い機会であった。本当はもっと作品数を増して公立の美術館で開催するのがいいと思うが、会期が10日少々ながら、高島屋のような百貨店がその代わりをするのは、文化の担い手として侮れない存在になっていることを感じさせる。あるいは、一方で思うのは、関西における天心や院展の人気度だ。大観や春草の名声やその作品はいいとして、天心については横浜生まれでしかも関東を拠点にしたこともあって、京都では人気がさほど大きくないように感じる。昭和20年代半ばに発行された文化人切手に天心は含まれ、その横顔が印刷されるが、筆者の記憶が正しければ、天心が切手になったのはその1回のみだ。また、天心は紙幣に印刷される人物として候補になったとも聞くが、私生活の醜聞があってふさわしくないと判断されたようだ。
このことを書き始めると、兵庫県の三田出身の九鬼隆一についても触れなければならない。なぜ天心が東京美術学校を辞めて日本美術院を作ったか。これはよく知られるように九鬼の妻波津子との不倫関係が明るみになったからだ。だが、九鬼と天心はその後も長く交友を続けた。筆者は近年九鬼に少々関心を抱き、それなりにその人物像に対してはある一定の思いを持っているが、天心と違って九鬼は自ら筆を取って水墨画をたくさん描いた。それはさすが筆を日常的に使用していた時代の人の巧みな技術を見せるもので、九鬼が美術行政に携わったことは正しかったと思う。一方、天心も別の形で美術に関係したが、天心は絵を描かず、また字もうまくはない。これが筆者には物足りない。もちろんそのことによって天心の人格が九鬼に劣るとかそんなことは思わないが、天心が持ち上げられるのに比べて九鬼の評判が悪過ぎることがなぜか気になる。そこには一種の関西対関東という対立の図式があるのではないかとも考える。三田に美術館を建てるなの、九鬼は東京を活動の拠点にしながらも京都を含む関西によく訪れた。そして、美術の中心地であった京都にはそれなりの思いを寄せていたが、そこには日本画家と工芸を同等視する思いも反映していた。だが、天心にはそれはなかった。天心が工芸に関心を抱かなかったとしてもそれは無理もないところがあるが、天心対九鬼、そして圧倒的に天心人気が高い現在を思うと、絵画に比べて京都の工芸が等閑視され続けて来ていることの理由の一端がわかる気がする。また、九鬼はその成り上がり主義から福沢諭吉からは嫌われたが、そのことが九鬼は不遜で傲慢であるといった評価が定まったところがある。明治時代は才能と野心があれば思うように自分の将来を開拓することが出来し、九鬼の育ちや置かれていた立場を思えば、どういう手段を使ってでも出世の階段にしがみついてそれを上って行こうとしたのはわかる気がする。たとえはよくないかもしれないが、映画『白い巨塔』の主役の医師である財前のような人物を思う。才能には抜群だが、人格に欠点があるということだ。だがその人格というものは世間の評判は当てにならない。筆者が九鬼の人格を判断するのに一番いいのは、彼が書いたり述べた文章よりも、晩年に多く描いた水墨の達磨図だ。その評価をここでは控えるが、天心には同類のものがなく、筆者は天心の性格がわからない。ただし、大観や春草が崇拝したのであるから、九鬼とは全く違った魅力を持っていたことは確かだ。
天心は横浜という外国の文化が流入する街の生まれでもあって、英語を学び、それを自在に操ることが出来た。著作はまず英語で書かれたほどで、これは鈴木大拙を思い出させるが、その才能は明治時代では今以上に誰でも驚き、また敬うほどのものであったはずで、その天心の誘いに応じて大観や春草、武山が茨城の五浦海岸沿いに家を建てて移り住んだことは理解出来る。大観や春草にすれば理論武装をさせてくれて、また将来への展望も開いてくれるリーダーとしての天心が非常に頼もしかったのだろう。大観は、「天心は絵は描かないが、画家であった」と言っているほどで、この天心のもとに集まった画家たちという図式は、他の日本画家の団体とは違う、一種独特のオーラがある。それは天心の存在感ゆえで、同じような人物を現在求めるならば、評論家ということになろうが、どれも「絵は描かないが画家である」からは遠く、「絵は描かず、画家でもない」といった小粒で、院展のような団体はもはや生まれ得ない。とはいえ、再興して今も続く院展がそのまま全部当初と変わらぬオーラがあるかと言えば筆者はそうは思わない。天心が理想とした日本画がどういうものであったかだが、これは春草が「将来は日本画や洋画の区別がなくなる」と言っているように、英語を自在に操った人物にふさわしいものであった。ところが、この日本でも西洋でもないところに九鬼は異を唱え、春草らの朦朧体をよく言わなかった。また、天心が目指す新しい日本画がそのまま進展したものが現在の院展画家たちの作品ということになるし、またそうあらねばならないが、現実として、今の院展の画家の作品が日本画と洋画の区別をなくしたものになっているかと言えば、決してそうではない。院展を長年統率した平山郁夫の有名な絵で、今回の展覧会にも出品された、馬に乗る天心の下に影絵のように院展の画家をずらりと並べた絵がある。平山はその作品によって、天心が創設した日本美術院の歴史を背負って立つ気概を表明した。そこには団体展が圧倒的な力を持つ日本独特の風潮がよく見えている。そうした有名な団体に所属し、頭角を現わすことによって、本人も世間も画家として一人前と思う。芸術は個性が命で、独学でも全くかまわないはずなのに、日本ではほとんどそれは通用しない。有名な団体展から落ちこぼれた者だけがそういう生き方をするというのがもっぱらの見方だ。平山の前述の絵は、天心の意思を受け継ぎ、それを後世に伝える使命感に燃えたゆえであろうが、天心が見て喜んだであろうか。日本画の数ある団体は、日本の政党の争いにどことなく似ている。そうした党のひとつの創始者になることが天心の夢であったとは思えない。院展万歳と唱え、天心を神のように崇める様子は、独立して1個の人格になり切ることの出来ない子どもじみた集団に見えて、どこか滑稽ですらある。個性の前に団体があるというのが日本で、そういう団体の中で描かれる絵が「日本画でも洋画でもない、それを統合したもの」になるかと言えば、どっちつかずのどうでもいいものと欧米から評価されるだけのものにならないか。

去年の大地震の津波は、茨城の五浦にある天心が建てた六角堂を流してしまった。美術ファンなら誰でもそのニュースを覚えているが、今回の展覧会はその六角堂再建記念だ。会場出口には寄付金申込書を挟んだ六角堂復興のためのパンフレットが置かれていて一部もらって来た。それを拾い読みすると、天心がなぜ五浦の地に大観や春草らを呼び寄せて同地で製作させることになったかだが、明治36年(1903)に天心は茨城県磯原街出身の画家飛田周山の案内で海岸の別荘を探し求め、いわき市の沿岸に行った。ところが気に入る場所がなく、帰途に立ち寄った五浦に魅せられた。「白砂青松の海岸線よりも、ダイナミックで変化に富んだ」景観がよかったのだ。早速土地を購入し、当初は「観浦楼」という古い料亭を住居としたのが、同38年には自らの設計による邸宅を改築し、六角堂を建てた。いわきの海岸が気に入ったならば、茨城ではなく福島県が日本美術院の本拠地になったが、岩が目立つ荒々しい場所を好んだことは、行く末が波瀾に富むことを予想し、また自分と自分について来てくれた画家たちの生涯がドラマティックに彩られることを期待もしたからではないだろうか。結果的にそれは大いによかった。また茨城と福島の距離の近さも見えるし、東京から東に向かったことが、天心が大阪京都に縁のない人物と思える理由にもなっている。これは20数前のことだが、茨城にいる友人を訪ねた時、五浦に行きたいと言った。すると、大して見るものもないと言われ、海岸沿いの道を車で少し走ったものの、五浦には連れて行ってもらえなかった。それから茨城には行ったことがないが、かように関西からは遠いところにある気がしている。六角堂は昭和30年に大観が茨城大学に寄附を申し出た。そして天心の娘が暮らしながら同大学が管理したが、昭和38年に改修工事によって南側に出窓が作られ、また中央の六角形の炉が撤去されるなどして、明治38年の創建当初の姿を変えた。昨年の津波によって土台を残してすっかり建物が失われたので、再建は創建当初の姿の復元が目指された。パンフレットによれば平成24年3月下旬が竣工とある。今ネット検索すると4月28日から一般公開されたようだ。一辺が一間の六角形の建物であるから、3,4か月もあれば充分建てられる。また、建ってしまったのであれば寄附を募る必要がないようだ、今後維持管理費が必要だ。会場の最後あたりに、六角堂の内部が原寸大で再現され、また海底から引き上げられた瓦や屋根中央の宝珠のかけら、その中に入っていたかもしれない六角柱の水晶などが展示された。内部はがらんとして何もないようで、ここは潮を終日眺めて瞑想するにふさわしい場所だ。日本美術院を永く照らし続ける灯台のような存在として、なくてはならない建物だ。それはチラシやチケットに印刷される塩出英雄が昭和45年に描いた「五浦」にも描かれ、大観や春草らの家よりも海よりに位置するので船団の先頭を切って走る武将の乗る船のように華麗に見える。院展に出品する画家はみなこの天心や大観、春草の後に続く思いを抱いているはずだが、天心や大観、春草が理想とした日本画が今はより実現しているのだろうか。