城が急に見え、しかも間近であったので、家内は驚いた。先頃大阪造幣局の桜の通り抜けを見る前に、京阪天満橋駅から谷町筋を歩いて下り、大阪歴史博物館に向かった。

通り抜けの方向とは正反対であることを家内は間もなく気づいたが、どこへ行くのかという質問に筆者は答えない。歴史博物館と言えば、きっといやがる。話を逸らしながら歩き続けていると、急に家内は左手に天守閣が迫って見えることに気づき、笑顔を浮かべた。こうなると、どこへ向かっているかを告白しやすい。このように、女の機嫌を取ることは難しい。たまには違う道を選ぶと意外な発見がある。そのため、筆者は地下鉄を利用するために潜ったり地上に出たりを繰り返すことより、なるべく歩きたい。だが、体重40キロの家内の歩幅は筆者よりかなり狭く、同じ距離を歩くにも倍ほど疲れると見える。筆者との生活や行動は非常に疲れるらしいが、それだけ筆者がタフということか。だが、平坦な道を歩くことはさほど運動とは言えない。先ほどのTVニュースは、連休を利用して登山をした60、70代の男女が何人も凍死したことを伝えた。筆者は登山の趣味がないので、筆者より上の年齢の人がそのような死に方をすることが信じられない。運動好きから言わせればそれは、体を酷使することの楽しみを知らずにかわいそうということになる。苦労には何物にも代え難い達成感が待っていることを知るが、それでも筆者は体の酷使は苦手で、せいぜいよく歩く程度だ。そう言えば、今日取り上げる展覧会を見た日、天満橋駅から歴史博物館を往復、そして通り抜けを見た後は天神橋筋商店街を歩いて天六駅から阪急に乗って十三に行った。優に1万歩は歩いたはずだ。その翌日、朝8時に電話があり、急遽奈良の大仏までケータイ電話を持参したことは先日書いた。そうそう、先週深夜3時に電話が鳴った。飛び起きて受話器を取った途端、プツリと切れた。3日後、今度は1時半に電話があって、同じように出た途端に切れた。間違い電話とは思うが、深夜3時は常識外れだ。その電話以来家内は敏感になっている。昨夜は深夜1時半頃、赤シャツに短パンの男がわが家の方を見てしばし立っていたそうで、気味が悪いと言った。その話を聞いた時、すぐに思い浮かべたのは、木刀と竹刀を1階のどこに置いたかだ。だが、いざという時に強盗悪漢に対して木刀ごときで防衛になるのかどうか。相手がナイフならばこっちは刀が必要なはずだが、それを所持して使うことは出来ない。
この展覧会は、「大阪城・エッゲンベルグ城友好城郭提携3周年記念 大阪城天守閣・大阪歴史博物館合同自主企画特別展」と銘打たれ、副題は「オーストリアと日本の武器武具展」とされている。武器武具にはほとんど関心がないが、たまにこの歴史博物館に行くことを好むので、造幣局の通り抜けの時期に行くことにした。会期は明日までだ。いつものごとく、このブログを読んで関心を抱いてももう後の祭りになる。この館の展示はいつもちょうどよい広さと作品数だ。今回はいささか展示点数は少なかったが、大きくて場所を取るものがあって、その迫力がよかった。展示室はエレベーターを降りてすぐ前の通路を挟んで両側の、同じ面積の2部屋だ。今回は最初の部屋にオーストリアから持って来られたもの、次の部屋に日本の武器武具が展示された。両国を取り上げる理由は、3年前に話題になったが、オーストリア第2の都市グラーツにあるエッゲンベルグ城の一室を飾っていた壁画が、豊臣時代の大坂城と城下町を描いた屏風であることが明かになったことによる。この屏風は、元は六曲一双だ。全12面の一面も欠けずに、蝶番箇所で縦長の画面として解体され、それが豪華な部屋の壁に取りつけられていた。それがあった部屋を「中国の間」と呼んでいたが、今は「日本の間」と呼ばれている。ネット時代であるというのに、3年前にようやく日本の屏風でしかも大坂の風物を描いたものであることがわかったことは、少々信じられない話だ。こういう例があることは、まだまだ知られていない日本からの輸出絵画や工芸品が欧州には眠っているのだろう。城にしっかりと固定されているものであるから、剥がして日本に持って来ることは無理がある。そこで写真を撮り、原寸大の元の屏風の形にしたものが展示された。それを見てわかることは、壁のサイズに合わせて絵の左右がカットされていないことだ。つまり、屏風を解体はしたが、絵は少しも削られておらず、保存状態もきわめてよい。城にすぐに入ったのがよかったのだろう。民間に流れていると、12面全部が揃ったままにはならなかっただろう。豊臣時代の屏風であるから、資料としても大変貴重なもので、絵の内容から当時の生活がよく想像出来る。現在の大阪城天守閣は、黒田長政が描かせた落城直前の姿を細緻克明に表現する「合戦図屏風」の所蔵で有名で、それも今回展示された。戦いで逃げ惑う庶民の姿が多く見える凄惨な同合戦図屏風に比べると、エッゲンベルグ城の屏風はもっと表現が大らかで平和であり、装飾品として喜ばれたことがわかる。だが、その大坂城はやがて灰燼に帰す。戦国時代は、平和と戦争が常に背中合わせにあって、農民も兵として駆り出された。
そういう時代を恐ろしいほどに野蛮であると思うのは、今の日本が平和であるからだが、人と人の殺し合いの歴史を日欧ともに同時代的に経験して来て現在があるし、また現在の局地戦争はひとまずおいて、核戦争規模の大戦争に比べて400年ほど前はまだ人対人の一騎打ち的な様相が強く、恐怖や野蛮の意味は今とは本質的に違うように思わせられる。どっちがましというのではない。数十万人が一発で消え去る方がいいのか、兵士が刀や槍で切り殺されるのがまだましなのかと言えば、どっちも恐怖であり野蛮であることには変わりがない。ただし、こうした展覧会で武器や武具をたくさん見ると、いかに効率よく殺すかという合理的な美しさが見えるし、また防御の鎧などにしても、機能は当然ながら、装飾にも大いに留意されており、美意識が見える分、核戦争の恐怖や野蛮とは違う人間的なものを思う。とはいえ、昔イギリスで無数と言ってよいほどの甲冑や剣、槍が並べられている様子を見て、背筋が寒くなった。それはピカピカに磨かれた日本刀を凝視している時に静かに湧いて来る思いとは少し違う。日本刀はスパッと切れ味が鋭いが、西洋の武具は肉をえぐり取るという表現がふさわしいほどに、槍の矛先に形がきわめて多様で、その発想のすぐ向こうに、食肉の動物を解体する時の思いがあるように感ずる。一昨日書いたイタリア映画『無防備都市』には、ゲシュタポの司令官の部屋に西洋の甲冑が一式飾られていた。そして、レジスタンスを拷問する時には鞭も使われたが、そういう拷問は西洋では古代から大差ないのではなく、またその方法や道具は日本よりはるかに多いのではないか。今回は拷問の道具は紹介されず、甲冑と刀、鉄砲が中心になった。鉄砲はいち早く日本にもたらされ、信長が使用した。アメリカが銃を持つことが出来ることを不思議に思う人々は多いが、西洋における銃の登場や発達を知ると、歴史は切れ目なしに続いており、一旦持ってしまったものはなかなか手放せないことを思う。核兵器も同じで、持ってしまえばなくすことは出来ない。それは人間には他人を信じないという性質があるからだ。一斉に武器を捨てればいいが、それは不可能だ。必ず隠し持つ者がいるて、そういう者がいることを知るので、誰も捨てない。それに、刀も銃も狩猟に欠かせない道具で、人と人の戦いの前に生活必需品であったし、今なおそうであると言ってよい。
だが、狩猟をしない筆者は、こうした展覧会を見ると、武器や武具が造形的にいくら素晴らしくても、死や殺人の思いが去らない。この血の臭いは、動物が戦うのと同様、人間にも戦いの本能があることによって避けることが出来ない。ただ今と何が違うかと言えば、機械文明がまだ発達していなかった時代は、武器武具が工芸品としての味わいを濃厚に持つことだ。その技術は平和な時には芸術作品や日用品の生産に使われるから、武器武具が一同に野蛮なものとみなすことは出来ない。戦いはどちらも聖なる意義を掲げるし、そうなると武器や武具にも一種の神々しさがまとわりつく。それに武将はそれにふさわしい見栄えが必要で、工芸的技術もより駆使されるし、美的さも同じだ。だが、西洋の甲冑を見ていると、その美しい形とは別に、切られることの恐怖心からよくもまあここまで全身を鉄で覆うものだと失笑させられる。そんなに重い甲冑では馬も大変だ。おまけに馬が切られては困るから、馬の甲冑もある。兵士の甲冑は身分が高いほどに全身を覆うが、背後は尻から下は覆わない。それは切られてもあまり死に関係がないことと、そこまですっぽり覆うと身動きが取れないからだ。この滑稽さが武具にはある。格好よくはあるが、何とも無様なのだ。それほどに西洋の戦いでは一度切られると死に直結していたのだろう。またお互い数千人単位で戦ったので、統率が必要であったが、そのために戦法がいろいろと考え出された。そういった戦いの様子を描いた銅版画が展示されていた。それは方陣を組んだ兵士の群れと馬に乗った兵との戦いで、絵の半分が槍で埋め尽くされている。方陣は一辺が10数人の槍を持った甲冑姿の兵士が中の甲冑を着けない兵士を守る戦法で、ハリネズミのように見える。この方陣は四方から槍がたくさん飛び出ているので、なかなか切り崩すことは出来ない。同じ考えは中国の『三国志』にもあったし、戦国時代の日本も似たような方法を採った。こうした槍の固まりが移動するのでは、突いたり切ったりが相手を殺す方法であったが、鉄砲の登場はそれを一変させた。だが、当初は非常に重く、扱いが不便であった。それが改良されて行くと同時に甲冑も軽量化される。切ったり刺したりの恐怖が軽減した代わりに、いつどこから弾が飛んで来て死ぬかわからない恐怖が加わった。これに爆弾も加えて、今も兵士はなくならない。人間は死への恐怖がありながら、どうせいつかは死ぬことを知っているから、いかに壮絶に死ぬかということに美を夢見ているところがある。これは日本の切腹もそうだろう。甲冑や武器をたくさん見た後の造幣局の桜はまた味わいが違っかと言えば、ぼってりとした妖艶な八重桜が中心で、女の艶かしさを感じた。甲冑と裸の女、つまりタナトスとエロスの取り合わせは西洋では昔から画題によく取り上げられたが、死が身近にないところには真の情愛も生まれないということか。そう言えば北斎の春画に描かれる女の顔はエロティックで、男の顔がどこか冷めて真面目であるのは、死をどこかに見ているからだろうか。子どもの日にふさわしくないことを書いてしまった。