複製するにも同じほど手間と時間がかかる浮世絵が、欧米諸国の芸術に興味のある人を驚嘆させたのはわかる。木版画は浮世絵版画よりはるか以前に西洋にもあったから、なおさら技術的なことには敬意を表されたであろう。
大胆な配色や構図、しかも安価でいくらでも手に入るとなれば、多くの収集家が出現しても当然だ。一昨日だったか、TVを見た家内が、浮世絵版画を最もたくさん所蔵する外国の美術館の上位4つはどこかという質問を筆者にした。急なことで面食らったが、ボストンは答えられた。残り3つはフランスやイギリスのはずだが、ドイツやチェコにもまとまって収集されるし、またアメリカではシカゴも有名だ。それにホノルルもで、今回の北斎展は1万点もの浮世絵版画を所蔵する同美術館から、北斎の生誕250年を記念して持って来られた。この展覧会については書く気があまり起こらない。だが、今日出かけた際にまた北斎展のチラシを入手した。秋に大阪市立美術館で開催される。同館が北斎の肉筆の浮世絵を所蔵していることはよく知られる。それもあっての開催だろう。北斎の人気は関東だけではなく、日本全国に及ぶと見てよい。そうなったのは、海外での人気が高く、それが逆輸入されたからではないだろうか。浮世絵は江戸のものという意識が強いが、元は上方のものだ。西川祐信など京都を代表する浮世絵の絵師は、北斎より1世紀ほど前に生まれた。そのため、技術や錦絵と呼ばれるにふさわしいほどの多色は見られないが、初期の浮世絵があって北斎のような才能が生まれた。ま、ここで言いたいのは、かつて京都や大坂は出版文化が盛んで、木版画の技術を牽引し、そこに浮世絵の絵師が才能を発揮する場があった。これは後述するが、そうなれば、浮世絵は今の漫画という出版物とつながっていることになる。それはさておき、ブログに書く気がなかった北斎展をこうして書くのは、筆者の北斎観のようなものをまとめたいからだ。北斎に関する年譜的資料は画集に頼らずともネットでいくらでも読むことが出来る。そうしたものをまたここで引用したところで何の意味もない。筆者がブログに書くのは、自分がどう思うかで、全くの個人の勝手な考えだ。だが、それを述べずに何を書くというのだろう。偉い学者の意見を鵜呑みしたような内容は読むに耐えない。どのような文章でもそれは読み物であり、ぐいぐいと読ませる味というもの、つまり魅力がなければならない。学者の論文ですらそうだ。
さて、この展覧会を見たのは会期の終わり近い3月下旬で、押すな押すなの大盛況であった。この人の多さにうんざりして半分もまともに見ていない。それは鑑賞者の大半がどう見ても美術に関心のないような、単にお祭り騒ぎが好きな人に見えたことにもよる。宣伝に釣られてやって来ているだけで、それがわかったのはこれまた後述する。北斎の版画は珍しくない。正直なところ、この展覧会を見るより、フィルム・シアターで映画を見ることが目的であった。よく知っていると思える作品でも年月を経てまとめて見るとまた感動が新たなことはよく知っている。だが、展覧会に並ぶような北斎の代表的な版画にあまり興味はない。世界で5人の有名画家を挙げるとして、その中に北斎が入るといったことを中学生の頃に耳にしたことがあるし、また毎年秋に発売される国際文通週間の切手に北斎の『富嶽三十六景』が連続して7年採用されたのは、筆者が切手収集を始めていた1963年からで、もう半世紀前のことになる。つまり、遅くても12歳の頃から北斎に親しんでいた。これは以前に書いたことがあるが、『富嶽三十六景』が始まる前の国際文通週間の切手図案に採用されていた安藤広重の『東海道五十三次』が、「京師」から始まって「日本橋」という、江戸時代の「上方」の言葉を現代的に逆転した、京都人には屈辱的な形で終わり、しかもわずか5年、すなわち5種の版画しか採用されなかったことが不満であった。幸いなことに、残りの宿場町がどういう絵であるかを知るには、たばこ屋で売られていた、1個5円か10円かのマッチを見ればよかった。妙な宣伝文字を一切含まず、広重の版画のみがマッチ箱の片側の全面にカラー印刷されていた。それは国際文通週間の切手よりやや大きく、絵の様子を知るには充分であった。東海道五十三次は55の宿場町で、この55種をだぶりなく集めるのに、たばこ屋でマッチを選ばせてもらった。小学生がマッチの絵柄に関心を持つことが珍しかったのだろう、どの店も親切で、目的のものがないと新たに大きな包みを開けてくれたりした。そうして1、2か月ほどの間に55種を揃えた。中身のマッチを取り出した後、箱のみを、文具店で買って来た黄土色のボール紙に、宿場町の名前を手書した上部にきれいに並べて貼りつけた。またボール紙の上端にマジックで「東海道五十三次」と自筆したが、その筆跡を今でもありありと思い出すことが出来る。マッチはちょうどボール紙にうまく収まるように、横11個、縦5個を並べた。その完成品を2,3年間は机の上の壁に掲げていた。絵を飾ることが好きだったのだ。自分で描いた絵もよく飾った。それほどに当時は鮮やかで大判のカレンダーもあまりなく、もちろん印刷した絵も少なかった。また、北斎の画集は近くの書店にはなく、学校の図書室にもそういう美術書はなかった。それが発売され、容易に入手出来るようになるのは70年代まで待つ必要があった。そのため、宿場町の順序を知るために、東海銀行が作ったものだったと思うが、友だちが『東海道五十三次』の浮世絵を全部印刷したものを持っていて、それを借りた。
切手収集から広重の版画に目覚めたと言えるが、『富嶽三十六景』が印刷されたマッチはなかった。今にして思えば、関西では広重ほどの人気がなかったと思える。東海道五十三次は東海道新幹線の工事もあって、まだ大阪の人には馴染みが強かったが、富嶽となるとこれは全部が関東であり、大阪のマッチ屋にはそれを持ち上げる意識がなかったのだろう。これは重要だ。先に書いたように、浮世絵は江戸のものという意識に対抗する向きが関西の学者には多少あるのではないか。「何を言ってやがる。大阪京都の文化の高さを知らないのか」といった思いだ。筆者もその部類だ。そういう思いで北斎を見るところがある。そのため、今秋大阪で北斎展が開催されることも、あまり面白くない。これが西川祐信展ならもっと嬉しかった。長いものには巻かれろの主義が大阪京都にはびこって、少々情けない。話を戻して、小学生当時『富嶽三十六景』のマッチがあったとしても、筆者はそれを集めて広重の時と同じように全部買い集め、それをボール紙に貼り並べはしなかった。筆者の浮世絵版画に対する興味は、小学6年生の頃の広重で終わっていた。また、広重の柔和な風景画に比べて北斎の絵は色彩が強烈で、構図に破天荒さを感じ、そのアクの強さに一種のけれん味と言うか、好きになれないものがあった。それは今もあまり変わらない。10歳そこそこの子どもに何がわかるかという意見があるだろう。だが、それは間違いで、10歳ですでに何事も一瞬でわかるものだ。あるいはそういう子どもの方が大人より敏感だ。とはいえ、大人になれば大人としての北斎や広重のことを見つめるし、けれん味にしても、その奥の奥にそれとは似つかない別の考えがあったのであろうと思うことは出来る。筆者が北斎の真の才能を知ったのは20代だ。ある出版社が出した春画本で、それを見て驚愕した。そこに描かれる性器よりも、男女の顔のあまりの迫真性だ。女性も男性も性行為の間の表情を実に巧みに描いてある。今のエロ漫画の比ではない。女のうっとり陶酔した顔、男のやや醒めた真剣な、それでいて少し困ったなという顔。北斎以上の春画はなく、また春画が北斎の才能の頂点を示すと考えるので、北斎展にそれが並ばないことがごまかしというか、無意味とさえ思う。つまり、北斎は子どもには本当はわからない絵師なのだ。今秋の北斎展にも春画は絶対に展示されないはずだが、成人限定にして北斎の春画展が開催されないものだろうか。明治になって日本が浮世絵を恥じたのは春画の存在だ。だが、欧米ではそれを含んでなお浮世絵版画の凄味を知ったはずで、そういう視点が今なお日本にはいささか欠けているのではないか。
話をまた国際文通週間の切手に移す。最初に出たのは広重でこれが5年、続いて北斎が7年で、その最初が1963年であった。ここで面白いのは、63年から69年までの、北斎切手の7枚の色合いは、それ以前の広重のそれに比べると青があまりに強烈で、また全体に色彩が濃く、メリハリがとても利いていかにも60年代の経済成長を思わせることだ。つまり、元気がいいのだ。それに63年から69年は実質的なビートルズの活動期間とぴたり同じで、そのビートルズに筆者は魅せられていた。絵は相変わらず好きであったが、北斎の絵に関心を抱かなかった分、ビートルズに夢中であった。そして、ビートルズが今なお人気があるのと同じように、北斎の63年から69年までの国際文通週間の切手が全く古さを感じさせないことに驚く。63年の図案は「神奈川沖浪裏」だ。この切手を見るたびに、それが筆者が12歳の時に郵便局で自分で買ったものとは思えない。人生は一瞬であり、芸術は永遠ということだ。何が前置きかわからないが、いつものごとく枕が長くなった。それに、北斎については以前も書いたことがあり、今日の内容の大半はその繰り返しになっているはずで、それを思うと書く気力も失せるが、もう少し続けよう。北斎すなわち『富嶽三十六景』で、今回の展覧会のチケットやチラシもそのシリーズから富嶽の二図が選ばれている。その富士山は、筆者には縁がない。関東にほとんど行ったことがないことにもよるし、またそのために、世界5大画家のひとりといった評価は過大ではないかとの思いも多少は抱いている。この5大画家は誰かが統計を取ったものではなく、勝手に言っていることに過ぎない。それを信じて自分の考えを沿わせる必要はない。
浮世絵版画は下絵やまた絵師の色指定どおりに仕上がるから、絵師の才能が一番大きい。とはいえ、彫りや摺りの才能も仕上がりを大きく左右するから、職人の共同作品にほかならない。その精緻さが西洋から、とてもかなわないなものとみなされたのであれば、日本美術がどういう方向をたどるべきかが見える。浮世絵版画と同時期に京都では筆さばきが巧みな絵師がぞろぞろいた。そういう絵師の仕事もまた職人技と言ってよい面を多大に持つ。ところが、そういう絵は浮世絵版画ほどには欧米から評価されない。それは浮世絵版画の方が多大な時間を費やしていると見えるからであろう。実際その観点からは、洒脱な円山・四条派の絵は手抜きに見えても仕方がない。また、広重や北斎の浮世絵版画に日本美術の粋を見てしまうと、たとえば現代作品はどう映るかという問題がある。これは大きな問題だが、ひとつ言えることは、手間暇かけた職人仕事でありながら大胆な芸術性を持つ作品をもはや日本は生めなくなった事実だ。職人という言葉は美的には貶められた地位にあるし、また実際に広重や北斎のような職人と芸術家を合わせたような才能がいても、それを充分に開花させる場がない。浮世絵は広重や北斎以外に無数の人々が携わった分野であったし、またそれほどに人々が日常的に求めたものであった。そのような手作りの作品の世界は今はない。大きな才能を輩出するには、同業者が無数にいなければならない。現代におけるそうしたものは、漫画やアニメであろう。漫画やアニメの頂点の才能が200年ほど経った時に、今の北斎のような評価を受けているだろうか。それは誰にもわからないが、そうなる可能性はある。ま、その誰にもわからないことをあれこれ書いても仕方がないが、浮世絵版画が驚きの目で見られたのは、それがすべて手技の産物で、機械印刷やまた写真の技法とは無縁であるからだ。漫画やアニメとはそこがかなり違う。
版画も印刷と捉えることは出来るが、1枚ずつ手で摺る浮世絵は、色を変えることがよくあり、また自ずとそうならざるを得ないところもあった。そこがひとつの見所になり、複製芸術でありながら、1点もの的な味わいも併せ持つ。また保存によって色の変化に差があり、同じ「神奈川沖浪裏」であるにもかかわらず、どれも厳密には違うことになる。そのため、国際文通週間の切手にしても、どの所蔵品を写真に撮って印刷するかの問題がある。去年夏に発売された記念切手「日本国際切手展2011」がある。それをいずれ買うつもりであることをこのブログに以前書いた。今手元にその1シートがある。正直に言えば、この記念切手を紹介するために今日は書く気になった。それはともかく、そこに印刷される10枚の80円切手はどれも『富嶽三十六景』に含まれる。10枚のうち5枚が、1963年から69年までに発売された国際文通週間と絵がだぶる。また、残り5枚のうち2枚は1990年の国際文通週間切手の図案になった。では残り3枚が初めて図案として採用されたかと言えばそうではない。「凱風快晴」は別の記念切手で何度も登場している。また、『富嶽三十六景』が切手図案になったのは1963年が最初ではなく、戦後すぐにも使われている。それはともかく、「日本国際切手展2011」が以前に図案になった版画をまた採用するのは、よほど切手図案にふさわしい名画が枯渇して来たことをほのめかすとともに、浮世絵版画は同じ絵でも摺りによって色が異なる事実を利用している。そのことを紹介するために、今日掲げる3枚目の写真は、「日本国際切手展2011」のシートの切手の右隣りに国際文通週間の切手を並べておく。
浮世絵版画が面白いのは、切手印刷でも可能だが、空摺りによる紙の凹凸や、雲母摺りによる光沢だ。それは西洋の木版画には見られない繊細さで、北斎も使用した。最後にそうした作例を紹介する。今回の展示に「地方測量之図」という、どこか広重の『東海道五十三次』を思わせる絵柄の作品が出品された。嘉永元年(1848)の作で、明治に近い。北斎が新しい測量というものに関心を抱いたことがわかるが、この作品の面白さは、測量器から覗く視線がまっすぐに雲母で細く摺られていることだ。それが消えてしまっているものが多いらしいが、保存状態のよい版画を多く所蔵するホノルル美術館には完品があった。この細い雲母の輝きは、視線をずらないと見えない。説明書きを読んで筆者はしゃがみこんだ。するとはっきりとそれが見えた。それは通常の印刷では見えない。チラシ裏面中央に紹介されるこの作品の図版を複写し、そこに雲母の輝く直線を黄色で加えたものを最後に載せておく。筆者がしゃがんでこの直線を見ていると、びっしり並んだほかの人はきょとんとしていた。筆者の行為が迷惑というのではない。もっと前方でとっくに列の動きは止まっていた。説明書きがあるにもかかわらず、それが何を意味しているのか、誰もわからないようで、筆者のようにしゃがんでこの雲母の光沢線を見た人は皆無であった。せっかく北斎がこの版画の大きな見所とした点が理解されていない。ということは、北斎人気が絶大であるにもかかわらず、その本質はまだまだ一般のものとはなっていないと見てよい。そういう深い理解は、ホノルル美術館が所蔵する1万点もの浮世絵版画の中核を成す5400点を寄贈したジェームス・A・ミッチェナーのような、絶大な収集家に限られるのかもしれない。