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●「CARMEN」
婦、悪女とわかっているのに、ずるずると魅せられてしまい、破滅に至る男というものがある。そういう女をフランス語で「ファム・ファタール」と言うが、カルメンは誰でも知るその代表だ。



●「CARMEN」_d0053294_1328261.jpg先月は同じ自治会に住むOさんから借りたオペラのDVD「L‘ORFEO」について書いた。Oさんは同時にもう1枚DVDを貸してくれた。カルロス・クライバー指揮、ウィーン国立歌劇場管弦楽団による1978年のウィーンのオペラ・ハウスでの上演で、「カルメン」のDVDとしては最もよく知られ、また出来がいいものだろう。ほかの演奏を見ていないので実際はわからないが、アマゾンやネット・オークションでは最もよく売れていて、また価格も安い。最初レーザー・ディスクで発売されたものが、CDと同じケースに入ったDVDとして再発、今は通常の縦長のDVDケースに入って売られるから、やはり最もよく知られる演奏と言ってよい。筆者は「カルメン」のCDを10年ほど前かに買った。カラヤン指揮ベルリン・フィルの演奏で、1982年のデジタル録音、CD3枚組だ。CD1枚に1幕分が入っている。ブックレットには全歌詞の邦訳もついているので、Oさんから借りたDVDとの差もわかる。クライバーの演奏より4年後のものだが、オペラ・ハウスでの上演を録音したものではなく、スタジオで収録された。ところで、Oさんが持参してくれたのは、波動スピーカーやまた液晶TVを買い、1階で見られる環境を整えた直後であったが、なかなか見る時間がなかった。見始めて、あまりの面白さに驚いた。全体を通して見たのは二度、部分的には数回見た。ほかの演奏を見たいと思いながらまだDVDを買っていないのは、買ってもすぐに見ないからだ。それはともかく、クライバーの指揮の熱演ぶりがよく映し出されるのがよい。また舞台の演出はイタリアの有名な映画監督フランコ・ゼッフィレッリで、とにかく豪華だ。ほんの数秒の場面にいかに大金と労力を注いでいるかがわかる。そうしたことは音だけ聴いているのではわからない。実はDVDを借りてすぐに、3階で音だけBGMにして何度か聴いた。そうしておいてから映像つきで本腰を据えて見たところ、音だけ聴くのとは大違いであった。そこでわかったことは、オペラは映像を見なければ話にならないことだ。そして、それは実際の上演を録画したものか、あるいは映画として舞台とは異なる場所で撮影したものかということになる。クライバーのDVDは、舞台の背景画や歌手の衣裳などが映画と同じほどに豪華で、よくぞ舞台でこれほどまでに大人数を並べて演じたものだと思わせられる。それは日本の能や歌舞伎、文楽とは違う肉感さとでも言えばいいか、とにかくオペラというものを知るにはとてもいい映像と思える。だが、それはゼッフィレッリの演出の効果が大きく、他の演出家では全然違う味わいがあるだろう。そこがオペラ・ファンの楽しみのはずで、生々しい豪華な舞台を見れば、たちまちそれに魅せられてしまうことはよくわかる。また、そういう人間の性が、この「カルメン」の主題ともなっていて、理屈ではなく、とにかく強引に惹かれて、ついには破滅してしまう男の悲劇を描く。韓国ドラマはほとんどがハピー・エンドで、悲劇は少ないと思うが、それは少なくても2,3か月を要する連続ドラマの場合、見る人の思いを長く引きずり、その挙句に悲しい結末というのであれば、誰もが失望するという製作者の思いからであろう。だが、「カルメン」の悲劇は、悪女に血迷った男の自滅の物語と簡単に片づけることは出来ない。
●「CARMEN」_d0053294_13284496.jpg このDVDを見た直後、右京図書館でアメリカ映画「カルメン」のDVDを借りて見た。カラー映画で、ドン・ホセ役の陸軍伍長のジョーを演じるハリー・ベラフォンテがえらく若い。製作年を見ると1954年とある。当時筆者3歳で、アメリカではそのような美しいカラー映像のミュージカル映画が作られていた。カルメン役は黒人のマリリン・モンローと言われたドロシー・ダンドリッジで、白人的な顔立ちは映画向きでいいとしても、ファム・ファタールを演ずるには少々線が細い。この映画はビゼーの音楽を忠実に使いながら、現代アメリカでの物語に置き換えている。また、登場人物は全員が黒人で、当時大きな騒ぎになったそうだが、それはよく理解出来る。50年代半ば、黒人はまだ大いに差別を受けていた。カルメンが黒人でドン・ホセを白人にするのは、白人と黒人の恋愛が許されない時代では、不可能であった。また性悪女のカルメンを黒人にするのは、一種差別的な眼差しからすれば世間からは受容されたはずで、またカルメンを黒人にするならば、登場人物全員を黒人にした方が、性悪女は黒人に多いといった偏見を避けることが出来た。ビゼーは19世紀の人であるから、それを100年後のアメリカに舞台を置き換えた時、そのままでは通用しない点がいくつもある。まず、カルメンがジプシーであることをどうするか。そして肝心の闘牛をどうするかだ。前者は、カルメンが煙草工場で働くというビゼーのオペラをそのまま踏襲しはしたが、ジプシーは無理だ。それで黒人としたのだろう。闘牛は、スペインの花形の娯楽で、それはアメリカで言えば拳闘になる。実にうまい置き換えだ。だが、やはり無理があると思うのは、原作の闘牛は、カルメンが最後にドン・ホセによってナイフで刺し殺されることと対になっていて、オペラでは絶対に闘牛でなければ話に深みが付与されないことだ。また、カルメンがジプシーであるとの設定も重要だ。それは自由な暮らしを示すために欠かせない。カルメンは好き勝手に奔放に生きる女で、突如恋をするかと思えば、また突如それに冷める。それはどうすることも出来ない性分であり、自分に正直に生きている。鳥のように自由に生きているカルメンは、やがてジプシーの盗賊団に加わって金も儲け、また有名な闘牛士の求愛に応えるが、そうして心変わりしたカルメンを、ドン・ホセは未練から諦め切れない。そして、せっかく許婚の関係にある真面目な女のミカエラが何度も振り向いてくれるようにやって来るのを拒否するばかりだ。ドン・ホセは最初カルメンと出会った時に、ファム・ファタールを直感し、近寄らないように自戒するにもかかわらず、その魅力に知らず知らずのうちに捉えられる。このことを理解しない男はあるだろう。また理解してもドン・ホセのような行動を取らず、慎ましやかなミカエラと結婚する男も多いだろう。だが、それではドラマにならない。世の中はドラマを求める。そして、それは説明出来ない、抵抗出来ない思いというものを話の中心に据える。
●「CARMEN」_d0053294_1329624.jpg 真面目な男が女に狂ってしまう話はいつの世の中でもごまんとある。そうした話をドラマに仕立てる場合、「人間にはそういう部分はあるな」と誰に対しても思わせる必要がある。「カルメン」の脚本は、メリメの小説を基礎に、それをアンリ・メイヤックと、リュドヴィック・アレヴィというビゼーの師のユダヤ人が書いたが、小説からエキスを抽出する才能よりも、やはりそれに音楽をつける才能の方が大きく、そのためにオペラ「カルメン」は世界的に有名になった。オペラは多いが、名曲を含むものは案外少ないように思う。「カルメン」はその点、誰でもどこかで聴いたことのある曲をいくつか含む。それだけでもビゼーの名は永遠に残る。わずか37歳で死んだビゼーだが、生前は現在のような大ヒットを得ず、没後にビゼーの名は世界的なものとなった。また、ビゼーが残した楽譜どおりに常に演奏されるとは限らず、指揮者によって割愛されるセリフがあったり、さらには大きく違う台本が2種あって、そのどちらで演奏するかで雰囲気が異なる。登場人物のセリフは当然フランス語であるから、フランス人以外の歌手では訛りが出る懸念がある。そのため、セリフを語らせずに、レシタティーヴォとして伴奏をつけて歌わせるようにする方法がある。そうした楽譜が1960年代以前には使われていたが、ビゼーが作曲したように、語り部分は語りとして上演し、またセリフを大きく整理した版が作られてからは、それも用いるのがもっぱらとなった。クライバーのDVDもそうなっているし、筆者が所有するカラヤンのCDでも同じだ。だが、この語りの版でも指揮者の考えによって、大幅にカットされることがある。筆者はカラヤンのCDを買って2,3度聴いただけで面白さを感じなかった。ブックレットを見ながら歌詞やセリフを追うのは面倒であるから、音楽の部分だけを楽しんだが、舞台の生々しさが伝わらない。またオペラであるから大がかりな音の響きであることはわかるが、カラヤンの演奏はフランスのオペラとは思えない重厚さで、違和感があった。クライバーのDVDは、カラヤンが録音した台本とは違って、セリフは最少限にされ、またカラヤンの録音にはないセリフもある。これが不思議で、カラヤンの録音もまたセリフのすべてを収録したものではないことがわかる。筆者が特に気になったのは、煙草工場の勤務が終わって、外に繰り出して来たカルメンら女工たちが語る中、いつの間にかドン・ホセが背後に座って作業をしている場面だ。カルメンはその見慣れないドン・ホセを見つめて興味を抱き、何をしているのかと訊く。ドン・ホセが「鎖を作っている」と答えると、カルメンはそれを嘲笑し、自分はそんな鎖が嫌いで、何にも囚われないと言う。ここは重要だ。だが、カラヤンのCDでは欠落している。ドン・ホセはカルメンという鳥を鎖でつなぎ留めておきたかったが、オペラの最後でカルメンは、たとえ殺されても自分は自由を貫くとドン・ホセに言い、そして殺される。この死んでも自由を大切にするということがいかにもフランス人好みで、このオペラの人気を側面で支えているだろう。
 ジプシー女は自由奔放に生きるものだというイメージをこのオペラは一般化した。それは芸術家の望む姿でもあって、ジャン・コクトーを初め、ジプシーに興味を抱いた芸術家は少なくない。カルメンはドン・ホセに最初に出会った時に、5,6メートル離れた場所から胸目がけて薔薇の花を一輪投げつける。それが見事に的中し、ドン・ホセはその花を大切にしまうが、カルメンは恋は魔物で、いつ芽生えて消えるかわからないとドン・ホセに向かって歌う。それが有名な「ハバネラ」で、フランスにおけるスペイン趣味を見るが、一方でビゼーのこの曲は後のラヴェルにつながっていることを思わせる。先ほど調べると、ビゼーの死んだ年にラヴェルが生まれている。また、ラヴェルは母がバスク人で、元来スペイン趣味に接近するところがあった。スペイン趣味で思い出すフランスの画家マネは、ビゼーより6歳年長で、これを知ると、より「カルメン」の歓迎ぶりがわかる気がする。また、クライバーのDVDには男女のフラメンコ・ダンサーが踊る場面があって、これもスペインを味わいたい思いがよく出ているが、ビゼーが生きていた当時はそのような演出があったのだろうか。フラメンコつながりで言えば、カルメンがドン・ホセひとりだけのために、カスタネットを両手に鳴らしながら踊る場面がある。歌って踊れてしかも美人でなければカルメン役は務まらないが、クライバーの演奏ではカルメンをロシアのエレーナ・オブラスツォワが演じている。ドン・ホセ役のプラシド・ドミンゴは適役だが、オブラスツォワは男を狂わせるほどの怪しい美女とは言い難く、ここは少々目をつぶる必要がある。原作ではカルメンは小柄とある。だが、小柄では声量が必要なオペラ歌手は無理だ。そこで前述したアメリカ映画「カルメン」のドロシー・ダンドリッジは原作に近いかと思わせられるが、このカルメンにどういう女性を持って来るかは永遠の課題で、指揮者や映画監督の夢をふくらませる。話を戻すと、カラヤンのCDは音が重厚で大げさ、しかも間があまりよくない。これがクライバーの演奏では、DVDとして編集する段階で微妙に調節された可能性もあるだろうが、ライヴのスリリングさが横溢し、次々に場面がつながるその間の取り方がよい。たとえば第2幕の最初の方に登場する闘牛士エスカミーリョの歌だ。その勇ましい伴奏が鳴り始める直前、酒場での合唱がある。それが終わって闘牛士の歌の伴奏が鳴り始める瞬間が身震いするほどによい。繰り返しその部分を見たが、そのたびに涙が出そうになった。ところがカラヤンのCDにはそれが全く感じられない。同じオペラでもこうも違うかと思うが、カラヤンはスタジオで録音し、その分生々しさ、荒削りさとは縁遠くなった。最後に序曲について。これは第3幕で使用される有名な闘牛士登場の場面の音楽で、それが終わった後に悲劇的なメロディが続く。これもオペラの最後に使われる音楽だが、序曲はオペラ全体を暗示させるように、闘牛士の音楽とカルメン殺害の曲がつなげられている。つまり、序曲を聴くだけで、どういう結末かが予想出来る。これはなかなかうまい手法で、文章にも転用出来るし、実際そうしている著作は多い。それに引き換え、筆者のこのブログは最後がどうなるかほとんど考えもせずに書くから、読む人は長い時間を使うだけで結論がわからない。ともかく、オペラ入門に「カルメン」は最適で、Oさんが貸してくれたのは、筆者をオペラ好きにしようとするためか。ま、このカテゴリーにオペラを加えるきっかけが出来たのはよい。
by uuuzen | 2012-04-30 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
●『高麗茶碗と土・炎の写真展』 >> << ●嵐山駅前の変化、その203(...

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