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●『マーカス・フィスター絵本原画展』
京都駅に出て近鉄電車京都線で奈良に行き、帰りは同じ近鉄電車で大阪に出て、阪急電車で京都に戻ることをたまにする。京都駅から奈良を往復する方が電車賃は安くつくが、大阪で観たい展覧会がある時は奈良から大阪に出る。



●『マーカス・フィスター絵本原画展』_d0053294_23562092.jpg8月13日は京都駅の伊勢丹でまず『アンパンマン展』を観た。そして奈良に出て『個性の競演』『古密教』を観た後、いつもと同じように、興福寺の境内を歩いて猿沢の池でたくさんの亀が泳いでいるのをしばし眺め、そして商店街の古本屋をしばし覗き、次に駅近くのスーパーで少々買物をして、それから地下に潜ってホームに辿り着き、難波行きの快速特急に乗った。そうそう、古本屋の店頭には絵本がたくさん横積みになっていて、その中にアンデルセンの『すすのへいたい』があったので、引き抜いて中をぱらぱらと見た。外国の挿し絵画家の手になるもので、絵は細密で上手であったが、かなり暗い印象で、買う気が起こらなかった。文章は滋賀県立近美で見た絵本よりかなり詳しかった。これは一度アンデルセンが書いた決定稿を読む必要がある。話を戻そう。奈良から大阪に向かう場合、終点の難波で下りることが多いが、難波に用はなかったので、手前の鶴橋で下車してJR環状線に乗り換えて梅田に出た。こうすれば多少時間はかかるが交通費は安い。梅田で観ようと決めていたのは『マーカス・フィスター絵本原画展』だ。この展覧会だけ観るためにわざわざ京都から出ることはないので、あくまでもついでだ。1日に展覧会を4つも観るのは、30代の頃は毎週あたりまえのようにしていたが、体力にだんだんと自信がなくなって一時ばったりとそういうことをしなくなった。ところがネットを始めてこの3年、展覧会チケットが安く買えることもあって、また昔のようにやたら展覧会に出かけることになった。いつも家にこもり切りの生活なので、こうした機会を積極的に作らなければ外出することがない。疲れはするが運動と思えばよい。それにブログを始めて、展覧会の感想を逐一書くことにしてからは、頭の体操にもなる。忘れないうちに感想を書き留めておくことなど、結局無駄な行為かもしれないが、悪いことではない。第一、文章力があまり衰えずに済むだろう。それに何より自分がまだ知らない美術品を観るというのはやはり面白い。今までに展覧会には2000近くは行ったと思うが、ほとんどすでに知っている画家などの展覧会が多いとはいえ、もう観なくてもかまわない展覧会ばかりが繰り返されているわけでもないし、長年の間に関心のある美術の分野も多少変化して来ているから、相変わらず出かけ続ける必要はある。
 絵本原画展は前にも書いたように、20年ほど前ぐらいだろうか、急に開催が目立って来た。絵本の原画は欧米の有名美術館に所蔵されている古い油彩画とは違って、借りるのも運ぶのも簡単であるうえ、それなりに人集めが出来るから、百貨店の美術館にとっては毎年欠かさず企画する最適の催事となっている。もういい加減、紹介する作家もないのではと思うほどだが、次から次へと発掘して来て途切れることがない。日本の絵本作家が展覧会でまとまって作品が紹介されたのはまだまだ少数であるので、外国の絵本作家が落ち着けば今度は日本に目が向けられるだろう。それに毎年ボローニャでは絵本原画の国際コンクールがあって、そこで頭角を現わす新人もいるから、絵本作家の紹介は永遠にネタに事欠かない。また、絵本作家が本格的な画家とは違って格が劣り、子ども向きの絵が大人向きの絵より芸術的に劣ると割り切る見方もあまり有効ではないだろう。子どもが喜ぶ絵ではあっても描くのは大人であるし、子どもには質のよいものを与えるというのが絵本の世界では常識になっているからだ。有名画家が若い頃に絵本の挿絵を描いた例は少なくないが、そうした絵本はさすがに格調が高く、芸術家としての実力を示してもいるが、一方で芸術家として通ってはいても絵本の絵を描けない、描かない才能はいくらでもある。それはそれで別に悪いことでもないが、絵本は絵本で印刷技術と相まってそれなりに進化もして来ており、現在の絵本の世界がどういう状態にあるかを知っておくのは無駄ではない。大抵の絵本の絵はすでに存在する芸術絵画の技術をそのまま応用しているから、その限りにおいては絵本が芸術的絵画を越えることはないが、絵本のみで進化した描き方はあって、それらが逆に芸術絵画にヒントを与えることもあるだろう。実際絵本作家は注意深くあらゆる芸術絵画の描法を研究しているし、絵具や紙などの素材への密着度はむしろ今時の芸術絵画よりも完成度が高いと言ってよい。それだけ芸術絵画はますます単に描く行為から逸脱して思想的なものを深化させようとしているからだと言えるが、絵の基本は描くことであり、たとえば思想を言うのであれば絵本の短い文章にもそれなりの思想が紛れなく表現されているから、一般の人々が絵本原画にこそよりわかりやすい芸術性を認めるという事態も起きる。そのことが絵本原画展の盛況の理由と言えなくもない。
 マーカス・フィスターの名前は記憶にはない。だが、その絵本は知っている。きっといつかの絵本原画展の際、売店で絵本が売られていたのを見たのだと思う。それほど印象に強い絵本で一度見ると誰でも記憶する。フィスターは1960年にスイスのベルンに生まれ、グラフィック・デザイナーとなった後、絵本の仕事に取り組み、1992年にヒット作を生んだ。『にじいろのさかな』がそれで、現在まで4作の絵本がシリーズとなって出ている。このシリーズは36か国で読まれ、1300万部が売れているそうだが、この数字はアンパンマンを越えるもので、爆発的人気というのもうなづける。日本では谷川俊太郎が1995年に初めて訳し、100万部を売っているが、これは谷川俊太郎の名前に負うところも大きいだろう。60年代終わりだったと思うが、スヌーピーで有名なチャールズ・M・シュルツの『ピーナッツ』のシリーズがまとめて数十冊紹介された時、訳者はやはり谷川俊太郎であった。そういった経緯があるので、日本でまだ知られない外国絵本の訳者は、実績のある人が慎重に選ばれるのだろう。『にじいろのさかな』は子ども向きでも10歳前が対象に思えるが、低年齢向きであるから文章はさほど長くないし、また難しいものではない。したがって谷川が訳してもあまり特徴は出ないはずだが、それは素人考えかもしれない。フィスターはスイス人だが、名前からしてドイツ系のように思う。スイスならば、ほかにフランス系やイタリア系が主に住むが、マーカスは後年アメリカに住んでいるので、何系であっても英語は堪能だろう。ドイツ系と思うのは、マーカス(Marcus)がカール・マルクス(Karl Marx)を連想させるからだが、絵本の文章の原語はドイツ語ではないと思う。マーカスが仮に日常ドイツ語で暮らしていても、絵本は英語で書く方が世界的に通用すると出版社は考えたはずだ。絵本の原画はたくさん展示されていたが、絵本の文章の展示はなかったから、ついうっかり会場で原作絵本を確認することを忘れてしまった。あるいは会場には何十種類もの外国語版が展示されていたが、それは意図的に原語版をわかりにくくしいているようでもあった。国際的絵本の位置を狙うのであれば、オリジナル版を曖昧にしておく方がよい。それはさておき、日本ではこの『にじいろのさかな』シリーズはデジタル絵本としてDVDも作られている。文章は女性のナレーションで語られているが、絵がどのように動くのか動かないのか、なかなか商売上手を感じさせる。絵本にする必然性がどこにあるかと思うが、この絵本シリーズは細かい水玉模様のホログラフの箔を一部に使用しており、見る角度によってそこがきらきらと光るので、その点がどううまく処理されているのか気になる。あるいはそのホログラフがあるからこそ、DVD画面でひょっとすればその部分をきらきらと見えるようにしているのかもしれない。残念ながら同じ箔を使用しない限り、チラシやチケットの印刷では箔部分は暗く見えて、フィスターの原画の味わいが再現出来ない。
 ホログラフの箔を使用するアイデアは何ら珍しいものではないが、それを絵本の物語の中心として使用したところにこの絵本シリーズのヒットの大きな理由があった。だが、これも誰かがいずれ思いつくべきものであって、決して驚くべきことではない。たとえば、晩年のロジェ・カイヨワの豪華本を日本が企画して出版したことがあるが、それはカイヨワの文章を原語と日本語訳を双方を並べて虹色の箔で全部印刷したものであった。その箔はその本で使用されたのが最後で、その後は入手出来なかったようであるから、箔があったことによって実現した特殊な限定本であった。また、ホログラフ印刷はロッテが80年代後半に発売したビックリマン・チョコのおまけシールにもあらゆる形で使用され、当時これは小さな男の子たちに大歓迎され、現在でも復刻版が販売されればまたたく間に完売するほどだが、そうした日本における特殊印刷の歴史を知っていると、フィスターの箔使用の絵本は出現が早いどころか、かなり遅いものとさえ思う。だが、会場で断わり書きがあったように、箔が有害なものであってはならず、剥がれて口の中に入っても安心なものが使用されているという。この件をクリアするために実現が遅れたことも考えられる。会場出口の売店で絵本を確認すると、日本語版の印刷はベルギーか中国のどちらかでで、他の国の版も同様であった。これはどの国でも同様の本が印刷され得ることを示しているが、結局入札か何かによって最も安い国に発注しているのだろう。世界的に売れる絵本となれば、黒色で印刷される文章はどうにでもなるが、絵の原画再現性の精度が問題となる。そして、あちこちの国の印刷に任せるよりも、ごく少数に限定した方が、同じ色のものがより安価で仕上がることになってよい。画集の美術印刷ではこうした国際的な分担は昔からかなり行なわれているが、今は絵本がそうなっている。
 フィスターの原画は印刷されたものよりはるかによかった。その微妙な色合いは印刷ではなかなか再現出来ないものだが、箔がきらきらと輝いているので、そこに目が奪われ、原画とはわずかに差のある色はあまり気にならない。色は特別の絵具を使用しているのではなく、むしろ水彩紙の滲みを知悉していて、それを最大限の特徴として使っている。箔の使用がなくてもこの滲みによってフィスターの絵はたちどころにわかる。初期の頃はまだ滲み具合を完全に制御出来ていなかったことが他の絵本からわかったが、『にじいろのさかな』のシリーズに至ってどこも破綻なくその滲み具合を描き切っている。これは失敗もそうとう多いことを思わせ、見事な仕事と言ってよい。滲みが雑に見えるが、決して雑な描き方ではなく、むしろきわめてきちんと描いている。そして、箔が物語に欠かせない核であると同時に、滲みはいかにも水中での話を納得させるにふさわしい点も絵本を強く印象づけることの効果となっている。滲みを表現の重要な要素とすることは日本の水墨画では数百年前からお馴染みのものであって、その点から言えばフィスターの絵本は日本ではよく理解されるだろう。ただし、フィスターは和紙を使用せず、真っ白な水彩用の洋紙を使っている。銅版画に使用されるような、質のよい水彩紙は昔からヨーロッパにはいろいろとあり、その特性をうまく見出して活用しているところにフィスターの絵の大きな特徴がある。物語の内容はアンデルセンの童話のように複雑ではなく、もっと単純だ。その単純さがまたいいのかもしれない。言いたいことはひとつだけといった単純さが、絵も自分で描くフィスターのような絵本作家の場合には、文章と絵がより密着したものになるだろう。単純な物語であるため、どのペーシの絵も似たものになりがちで、そこがやや物足りないと言えるが、背景の色を真っ白からうす紫、緑や青といったように自在に変化をつけることで、空からの光の照り具合や海の深度を推測させつつ、絵本の流れとしても単調さを免れるように図っている。そのために、アニメーションにすぐに作り変えることが出来るほどだ。さきほどのDVDはアニメ化されたものではないようだが、いずれアニメが作られるのではないだろうか。人気の秘密はペンギンや魚、うさぎなど、特徴あるキャラクターとして作りやすい動物を専門に描いていることにもよるだろう。動物を使った擬人化の物語は日本はお得意だが、その意味でフィスターの人気は今後ますます日本で高まるかもしれない。
by uuuzen | 2005-08-18 23:58 | ●展覧会SOON評SO ON
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